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女子しての道

青蘭は、苦難の末やっと鄴都にたどりついた。青蘭は、父の決めた婚姻を拒否したことにより、普通の貴族の娘としての道を失ったことを自覚した。青蘭は、自分の生きる意味をさがすために顔之推への弟子入りを希望する。

        ★     鄭家への帰還     ★


 鄴城の城門が雪に煙る。

 馬を降りた青蘭と晴児は、かじかむ手で手綱を掴むと入城する列に並んだ。周りを見ると、野菜の荷車を引いていた農夫の親子が笑顔で話している。北の果てのように思える鄴都にも、民の生業があるのだ。

 晴児を見ると、青ざめた顔で鼻水をすすっている。

「晴児、もうすぐだ」

 青蘭は強いて笑顔を作って晴児を励ました。鄴の鄭家に落ち着けば、暖かい食事と寝床が待っているはずだ。ただ、厳しい母上が、私をお許しになるのだろうか。それこそが、最大の気がかりだ。


 城門から鄴の城内に入ると、中陽門街の広い大路が城門からまっすぐ北に向かって伸びている。大街から東の大路にはいると、両側には追儺や正月の縁起物を商う東市がある。

 正月の馳走のための生きた鶏や鵞鳥を商う露店が並び、追儺の面や飴、焼餅を売る露店が立っている。

 青蘭主従は、大路を西に進んだ。北に折れると馬や馬具類を商う西市がある。西市の北に広がる光徳坊を進んでいくと鄭家の大門が見えた。


 十一歳の時に、母の反対を押し切って飛び出した門である。降りしきる雪の中で鄭家の瓦葺きの門が煙って見える。重い足を引きずり、青蘭は大門の前に立った。晴児が訪うと、門衛が現れた。

「お嬢様、どうぞ中に・・・」

さすがに門前払いはされなかった。青蘭は、ほっと溜息をついた。雪で白く染まった内院を進むと、家宰の白良誠が駈けてきた。

「お嬢様、よく無事で・・・」

江陵の父から、鄭家には連絡が行っているらしい。白家宰は、青蘭から荷物を預かると細い目に涙を溜めた。白良誠は、青蘭が子供のころから鄭家に仕えてきた家宰であった。

「江陵からここまで・・・さぞやご苦労を」

 青蘭は、かじかんだ手で涙を拭いた。


 家宰は、まず青蘭たちを偏殿にある客間に案内すると、温かい陳皮茶を勧めた。

「この者は、侍女の晴児だ。苦楽を共にしてきた。休ませてくれ」

 青蘭は、晴児を紹介した。

「お嬢様を、守ってくれたのだ。何と礼を言ったらいいのか。部屋を用意させよう。ゆっくり休むといい」

晴児は、もともと裕福な薬種問屋の娘で、奴卑ではない。叔父の居所が分かったら、出て行く身である。

晴児が居室に行くと、青蘭は白家宰と二人だけになった。

「良爺、父上からの手簡は来ているだろう?・・・父上も母上も、お怒りでしょうね」

青蘭は、母親の機嫌の具合をさぐった。

「いいえ、いいえ。お怒りどころか、ずっと、お嬢様の安全を按じていらしゃいました」

母上は、心配してくれていたのか。こわばっていた心と身体が、白い湯気の中でほどけていくような気がした。

「賈主様は、今日は邯鄲の屋敷にいらっしゃいます。遣いを出しましたので、すぐにお戻りになるかと」


 しかし、青蘭は入浴の後、にわかに体調をくずして病床に伏すこととなった。


     ★     長恭と敬徳    ★


正月の朝廷の行事が終わった頃、西魏の支配地の内偵を終えた敬徳は、淮南より戻ってきた。

「敬徳、遅かったぞ。一緒に正月を迎えられると思っていたのに、寂しい年越しだったぞ」

高長恭は清河王府の書房に入ると、几案で報告書を認めている敬徳の前に立った。

高長恭は、今上帝の兄である亡き高澄(文襄帝)の四男であった。五歳で母荀翠容を七歳で父を失ったため、祖母の婁皇太后の元で養育され、皇子としての地位を与えられた現在も、皇太后府で生活していた。

 正月をむかえ十六歳になった高長恭は、六人の皇子の中でも最も高澄の面影を写していた。清澄な容貌は、女子にもしてみたいと言われるほど優美な麗容であった。しかし、冷遇された幼年時代が影響してか、人当たりは柔らかいが人と距離を置くところがある。特に近寄ってくる女子には、ひどく冷淡だった。

 長恭は、すねたように拳で几案をコツコツと叩いた。

「ああ、こたびは西魏の支配地である南陽郡にまで足を伸ばしたのだ。それで、・・少し遅くなった」

 敬徳は料紙から顔を上げずに、無沙汰をわびた。

「忘れないうちに、書面に残して置きたい。長恭、先に始めててくれ」

 敬徳は、卓に用意した酒肴を顎で示すと、筆を早めた。

「敬徳兄上、あれはどうなったのだ?」

 長恭は、卓の上から酒杯を取り上げると、桃花のような唇に持って行った。

「えっ?あれとは?」

 敬徳の筆が一瞬止まった。

「もちろん、兄上の縁談のことだ」

「俺の縁談?」 

敬徳は眉を潜めると、筆置きに筆を休ませた。南朝に出発する前日、敬徳は長恭に将来の清河王妃を決めて来るかも知れないと、冗談混じりに仄めかしていたのだ。

「南朝の士大夫の息女を娶ると決めたのか?」

敬徳は、好奇心に満ちた長恭の視線を避けるように横をむいた。

「兄上のお気に召さなかったか?」

「気に入るも何も・・・重い病で破談になった」

敬徳は、長恭が持っていた瑠璃の酒杯を取り上げると、残りを口に流し込んだ。王琳将軍の名を、明かすわけにはいかない。

「重い病だった?江陵までわざわざ行ったのに、とつぜん病になり破談になったのか?」

実際に会ってみて気に入らないときに、女子の側がよく使う手である。

「どうも、妖しいな。何か嫌われるようなことをしたのか?」

「会ってもいない」

 妓楼に通っているとの噂があるが、それが理由ではあるまい。

「もともと縁談は、江陵を探るための口実に過ぎん。反って好都合だった」


貴族の令嬢が、顔も知らない男子に嫁ぐことも希ではないのに、顔合わせに訪れた花婿候補に会わずに破談にするとは珍しい。しかも、高敬徳は皇族で、嗣部尚書、右衛将軍の肩書きを持ち花婿として申し分の無い若者である。容貌も皇宮の宮女の噂に上るほどの美丈夫である。

「それに、大志を遂げるまでは嫁取りはしたくないのだ」

「そうだな、父上の喪が明けるのは再来年だな」

敬徳の父高岳が高帰彦に誣告され非業の死を遂げたのは、一昨年のことである。それ以来、敬徳は敵討ちの機会を常に狙っていた。

「敵討ちを狙うなら、係累は少ない方がいいからな」

長恭の言葉に、敬徳はあわてて唇に指を当てた。屋敷のどこに間者が潜んでいるか分からない。

 清河王高岳の長嫡男として生まれ、両親に愛されて育った敬徳は、明朗で温順な青年だった。しかし父親を誣告で亡くしてからの敬徳は、他人に心を閉ざして、疑り深くなった。妓楼に通い放蕩者を装いながら、親友である長恭以外には、本心を明かすことはなかった。

 南朝の士大夫との縁談が持ち上がったときも、政略結婚と割り切っている様子だった。


 敬徳は卓の前に座ると、二つの杯に酒を注いだ。

「無駄足だったわけではない。・・・行ったお陰で、後梁や西魏の内情や民情が探れた」

 敬徳は酒杯を干すと、笑顔をつくった。

「それに、鄴へ戻る道中で見込みのある若君と知り合ったのだ」

 従者とたった二人で江陵から鄴を目指すという無謀な若者だった。そういえば、まだ王府には訪ねて来ていない。

「敬徳が、気に入るとはどんな若者なのだ」 

 他人に冷たい敬徳が、気に入るとはめずらしい。

「世の中を変えるために、学問をしたいと本気で思っている。そんな若者なのだ」

 敬徳は、何かを思い出すように瞳を潤ませた。

「学問を志す者は、最初はそういうものだ。しかし、だんだん仕官のための学問になっていくんだ」

 長恭は、権門に取り入っている顔之推門下の学士たちの事を思いだした。


「俺のいない間に、何か変わったことはなかったか?」

敬徳は、羊の煮込みに箸を延ばした。長恭は、未だ官職に就いていないが、皇太后府に集まる廷臣や四弟の安德王から、皇宮の情報は入ってきている。

「三台の改修工事が始まった。そこに高帰彦が拘わっているらしい」

三台とは、三国時代の魏の頃、曹操によって築かれた銅雀台、氷井台、金虎台の三台である。高洋は、この三台をより壮麗な宮殿に改修しようと莫大な国庫を投じていた。

「金が動くところに、高帰彦有りだ」

「かなりの賄賂を受け取っているという噂だ」

敬徳は父親の葬儀の時、父親の敵である高帰彦への復讐を誓った。しかし、高帰彦は絶大な権力を有し、禁軍の実権を握っている。そこで、敬徳は妓楼に通い放蕩の貴公子を演じながら、高帰彦の失脚を狙って汚職の証拠を探しているのだ。

「分かった。賄賂の証拠を探ってみる」

敬徳は、意を決するように酒杯を干した。


「朝廷は相変わらずだ。・・・そう言えば、妹の楽安公主が、崔暹の息子の崔達拏に嫁ぐことになった」

「崔達拏は、良い。崔暹は、陛下の腹心だし。息子は、温厚で実直。我が儘な公主にはぴったりだ」

異母妹の楽安公主は、父高澄と正妃の馮翊公主との間の摘女で高孝琬の同母妹である。摘女としての奢りが強く、だれに気兼ねすることのない言動で我が儘だと評判だった。

幼い頃は三兄に同調して、長恭に辛く当たることが多かった。しかし、長恭の容麗が人々の口に上ると、手のひらを返したように態度をあらため、兄弟である事を令嬢たちに自慢するようになったのだ。

「ところが、楽安は婚姻に不満で、聖旨の撤回を御祖母様に頼んでくれと、私に泣きついてきたのだ」

長恭は、困ったというように秀麗な瞳を歪ませた。

「公主は、何が不満なのだ」

我が儘な楽安に好意を持っていない敬徳は、不機嫌に唇をとがらせた。

「その、崔殿が不細工で・・好みではないそうだ」

 高一族は、概して美男美女揃いである。

「くだらん。実直で女遊びをしない。これ以上何を望むのだ。しかも、仕事が堅実だ」

 皇帝の娘である公主の婿選びは、難しい。名門の出で、しかも我が儘な公主と折り合える人物でなければならないのだ。しかも側女を正式に持つことも憚られる。

「陛下と御祖母様は、不和だ。私には何もできないと言っておいたのだが、・・・」

「それでいい。我々臣下は、聖旨を翻すことはできない。へたな希望を持たせることは、反って本人のためにならない。・・・今度、・・元宵節の時にでも俺から話してみよう」

父高澄を失った兄弟は、それぞれ母親の一族に支えられて成長してきた。しかし、母親のいない長恭にとっては、婁皇太后が母代わりであり、兄弟と縁の薄い長恭にとって族従兄の高敬徳が兄代わりであった。


「長恭、お前の嫁取りはどうなんだ?いろいろ噂があるが・・・」

 自分の破談を打ち明けた敬徳は、仇を取るつもりで長恭に水を向けた。

「するはずない」

 長恭は、言い捨てた。

「戸部侍郎の桃氏の令嬢が、お前に無視されて・・・」

 酒杯を空けた長恭が、頬杖をついた。

「桃氏が落とした手巾を、お前が踏んで行ったと、噂だぞ」

「踏んでいない。避けて通っただけだ。・・・そんな手練手管を使う女子を、私が好きになるとでも?」

 心を寄せる男子の前に手巾を落とすのは、女子のよく使う手だ。それを手練手管と言われては、桃氏も気の毒だ。そのために、皇宮では長恭は、女嫌いだと言われている。

「女嫌いなわけじゃない。私を真に理解する女子と生涯を共にしたいと思っているのだ。そんな女子だったら、・・・結婚してもいい」

 長恭は、夢見るように壁に掛かる書画をながめた。


     ★     母親との和解    ★  


追儺の前に青蘭はようやく鄴都にたどりつくことができた。しかし、道中、無理に無理を重ねた結果、体調を崩して榻牀から起き上がれなくなってしまった。三昼夜も眠り続けた青蘭は、正月の行事があらかた終わった頃に目を覚ました。


「お嬢様、お目覚めですか?」

 青蘭が声がする方に顔を向けると、晴児が薬湯を持って寝室に入ってきた。

「お嬢様、ご気分は?」

 晴児は薬湯を几(小さな机)に置くと、心配顔で青蘭を覗き込んだ。

「何だか、・・・力が入らなくて」

 病が治っていないせいであろうか、ふわふわしたこの非現実感は何だろう。自分は何者でもない。鄴都の空のように、私の心は空っぽだ。

 鄴都を目指してきた自分は病に伏せってしまったのに、一緒に黄河を渡ってきた晴児は、青蘭付の侍女になり、すっかり鄭家になじんでいる。

「山を越えたり、賊に襲われたり、・・お嬢様は大変な苦労をして私を守ってくれました。だから、何日も寝込まれるのは、当たり前です」

 晴児は慰めるように言うと、青蘭の額に手を当てた。

「お嬢様、まだ、熱があります。薬湯をお飲みください」

 晴児は明るい笑いを見せると、薬湯の匙を取って青蘭の唇に運んだ。薬湯の痺れるような苦みで、青蘭は眉を潜めた。

「白家宰に知らせなければ、・・・蜂蜜湯をお持ちします」

 晴児は、軽い足取りで居所を出て行った。


倦怠感が全身を包む。婚姻から逃れ自分の人生を切り開きたいと思って鄴城を目指した。しかし、これからの自分は、どうなっていくのだろう。瞼を閉じると、自分はまるで大海に漂う流木のようだ。

 貴族の女子は、十四、五歳をすぎると、父親が相手を選び嫁いでいく。自分が清河王との婚儀を破談にしたということは、貴族間の普通の婚姻を拒否したと言うことだ。

 平民の女子であったら、侍女になったり、商いに従事する道もある。しかし、貴族の娘である青蘭には、これらの道も許されていない。


 陽光が落ち蝋燭の火が灯された頃、母の鄭桂瑛が帰ってきた。

「青蘭が、気が付いたとか・・・具合はどうか?」

臥内に入ってきた鄭桂瑛は、榻牀に座ると青蘭の顔をのぞき込んだ。

「やっと、目覚めたのね。・・・心配したのよ」

「母上・・・」

母親に叱責されると思っていた青蘭は、思いもしない母の優しい言葉に目頭が熱くなった。

「江陵から、・・・たった一人の供だけを連れて渡ってくるとは、・・・無謀だ。危険すぎる」

 賊に襲われたという話は、すでに知られているに違いない。

「父上は、・・・お怒りでしょうね」

父親の王琳からは、鄭桂瑛の元に手簡が来ているはずである。

「もちろん怒り心頭だ。・・しかし、娘の身を心配しない親は居ない。まずは、身体を治すのだ。それから、これからのことを考えよう」

桂瑛は、衾(掛け布団)を青蘭の肩まで引き上げた。

「江陵からの道中では・・・危険な目に遭ったとか。本当なのか」

 思いがけない優しい母の言葉に、青蘭はいつの間にか涙があふれてきた。


       ★     これからの生きる道      ★


 早春の陽光が内院(中庭)に満ちていた。紅梅の木には数輪の花がすでに咲き、春の息吹を伝えていた。巳の刻(午前十時頃)温かさに誘われて、青蘭は白い水仙の花に囲まれた四阿に入った。

 年が改まった。しかし四海に囲まれたこの広い大地の中に、この王青蘭の居る場所はないのか。

 

吁磋、此の転蓬

世に居る 何ぞ独り然るや

長く本根を去って逝き

夙夜休閒 無し



ああ風に漂う蓬

この世にあって

なぜお前だけ

元の根を離れ

夜も昼も 漂う


 茶杯を手にした青蘭は、曹植の詩『七哀詩吁嗟篇』を詠じた。曹植は曹操の愛息で、文学的才能に溢れながら兄の曹丕に疎まれ、官職を追われて転々と不遇の人生を送った人物である。

 己の生きる場所を失った曹植の無念はいかばかりであったろう。北朝にも南朝にも居場所のない今の自分は、何と曹植に似ていることだろうか。

 不遇の人生を送ることで、曹植は多くの哀切に満ちた詩賦を残した。しかし、今の自分は何も残すことができない。


 深く息を吸うと、紅梅の甘く切ない香りと水仙の清冽な香が身体に入ってくる。南から柳緑色の長裙を着た晴児が薬湯を奉げて歩いてきた。

「お嬢様、薬湯の時間でございます」 

 晴児は、薬湯と蜜を掛けた蒸し餅を卓上に並べた。青蘭は蒸し餅の甘さでどうにか薬湯を飲み干した。

「ちょっと、気になることが・・・」

「なに?・・・鄭家で何かあったのか?」

 南朝の人間は、なかなか北朝の習慣になじめないのかもしれない。

「いいえ、ちょっと侍女たちが話しているのを聞いたのです。・・・清河王の字は敬徳様だと・・」

皇宮への出入りの多い鄭家では、侍女たちも諸王府の事情に通じている。

「そんな・・・清河王は、高岳と言って父上ぐらいの年の重臣のはず・・・」

「いいえ、お嬢様。先の清河王は一昨年に亡くなられて、今はその子息の敬徳様が清河王になったそうです。私たちを助けてくれた方が、清河王なのでは?」 

父上が勧めていたのは、年頃の敬徳との婚姻だったのか。もし、自分が助けた子靖が婚姻を破談にした張本人だと知ったら、けっして敬徳は許してくれないだろう。

 清河王府は、裕福な権門だと聞いている。そうなれば、父上だけでなく鄭家の商いにも迷惑が掛かってしまう。

「人違いだ。同じ字を持つ者は多くいる。この話は黙っているのだ」

青蘭は、きつく口止めをすると晴児を下がらせた。


体力が回復したら、命の恩人に会いに清河王府を訪ねるつもりでいた。何も知らず行っていたら、どれほど悲惨なことになっていただろう。鄴は斉の都で、鮮卑族と漢族が鎬を削っている所である。他人との付き合いにも十分気をつけなければならない。


      ★      顔之推への入門      ★


「顔之推先生は、上林坊に邸を構え、漢人の子息を何人か弟子にとっているそうです」

 街から帰った晴児が、息を切らせながら青蘭の居房に入ってきた。

「顔先生が、漢人の子息を弟子に取っているの?」

『文選』を開いていた青蘭が、蝋燭の灯りの下で書冊を閉じた。

「はい。陽辟彊など何人かが弟子になったと聞いております」

 本来、顔之推は、市井で学堂を開くような学者ではない。時の権力者の招請でも、心が動かされなければ臣従することはないほどの気骨を備えている大学者である。しかし、西魏に拉致され、苦難をくぐり抜けて、斉に脱出した顔之推は、南朝からの亡命学者を受け入れ、官吏の子息を弟子に取って細々と学堂を開いているという。


『顔之推先生の弟子となり学問をする』何と魅力的な言葉であろうか。

 古来より貴族の娘の生きる道は狭い。士大夫の妻妾となるか、皇宮の女官として仕えるか、君主の妃嬪しかない。青蘭は父の決めた婚姻を捨てて斉に出奔してきた。父王琳の怒りを買ってしまった結果、家長に認められた貴族の娘らしい婚姻は、敵わなくなったのだ。

『女子としての私の人生は、終わってしまった。女子として生きる術がないのだ』

 青蘭は、几案に肘を突くと目を閉じた。

私が黄河を渡ったのは、父の下で男として武功を立てたかったからだ。しかし、自分は今や何者でも無い。人は何のために生きるのだろうか。そして、女子である自分は何を求めて生きていけばいいのだろうか。

『顔之推先生の下で学べば、その道を見つけられるかも知れない』

顔之推は西魏を嫌い、黄河の増水に乗じてはるばる鄴都にやってきたという。中原一の大学者で気骨をそなえた人物である。顔之推に教えを受けたい。しかし、大学者の顔之推が、女子を弟子に取ったということは聞いたことがない。


 歴史を紐解くと、女子の学者が存在しなかったわけではない。後漢の班超の妹である班昭(曹大家)が有名で、著作を残し女子の教育にも関わっている。しかしそれも、太平の時代であった後漢での希な存在といえる。

 顔之推の弟子になり教えを受けるためには、鄭家から正式な申し込みをしなければならないのだ。


       ★      青蘭の決意     ★


 青蘭が母桂瑛のいる正房に入ると、火爐が置かれ室内は温かい空気に満ちていた。明るい蝋燭が灯されている。

「青蘭、その格好は?」

 紺色の長衣をまとった青蘭が、膝をついて見上げた。

「母上、申し訳ありません。父上を裏切り、江陵を出てきた私に、女子としての道はないと覚悟しました」

 江陵から鄴都へ出奔してきた青蘭は、男装で跪くことにより決心を示したのだ。

「先日、父上から手簡が届いた」

桂瑛は、青蘭を立ち上がらせると座を勧めた。

「清河王との婚姻は、・・・どうなったのでしょう」

「婚姻は、沙汰止みとなった。・・・父上はお怒りだ。せっかく清河王は江陵まで行ったのに、面目を潰すことになってしまった」

 わざわざ、江陵まで出向かせ顔合わせもせぬままとは、清河王の怒りは、相当のものであろう。

「清河王には、そなたの病が重いために婚姻できないと言って破談にしたそうだ」

 青蘭は、ほっと胸をなで下ろした。


「青蘭よ、なぜ江陵を出たのだ。清河王との婚姻が気に染まなかったのか」

いまさら、今の清河王を父親と思い込んでいたなどと言い出せない。たとえ、息子の清河王であったとしても、政略結婚であることには変わりはない。

「自分が戦略の具にされて婚姻するのが、我慢ならなかったのだ」

 青蘭は、唇を強く結んだ。

「愚かな、士大夫の婚姻は、親が決めるもの。自分の我が儘が通ると思ってか」

 母桂瑛は、呆れたように頭を振った。

「そなたは、父上の許しなく出奔した。女子の名節をどう考えているのだ」

 儒教の支配しているこの時代には、女子の名節は何よりも重要であると考えられていた。男と同宿したり、行方不明になった女子は、名節が汚されたとして、まともな婚姻はできなかったのである。

「私は、父上の命に逆らって出奔した。・・・そうなったからには女子としての幸せは捨てて、男子として生きてみたいのです」

 青蘭は、言葉を一言一言刻むように言った。

「男そして、生きると?・・・何を言っているのだ」

 桂瑛は、娘の言葉に声を荒らげた。青蘭は、幼少より士大夫の息女の枠にはまらない女子であった。女子らしい装飾品には興味を持たず。常日頃から剣術を学び、兄の蔵書を読み漁っていたのだ。

「母上、私は学問をしたいのです」

「何と・・・」

 桂瑛は、呆れたように首を振った。


侍女たちが入ってきて、南朝の料理が運ばれてきた。すべて青蘭の好きな料理ばかりであった。

「その話は、今度にしよう。・・・滋養をつけて」

 佳瑛は、魚の揚げ煮を青蘭に取り分けた。

「母上、顔之推先生が、鄴に来たことはご存じですよね。私は、先生の弟子となって学びたいのです」

 顔之推が黃河を筏で下り、長安から脱出して鄴都にいることは桂瑛も耳にしていた。

「顔之推先生は、中原でも随一の学者だ。男子でも弟子入りを断られた者がいるそうだ。まして女子など弟子入りはできまい・・・」

 桂瑛は、青蘭の希望を即座に否定した。

「女子の姿で支障があれば、男子として学問をする」

「そのような小手先のこと、顔之推に通用すると思うのか」

 母の桂瑛は、斬捨てるように言った。


家人が夕餉の膳を持って正房から出ていくと、正房は静寂につつまれた。

 かつて暮らした鄴の屋敷にもどっても、自分の居場所と感じられない。青蘭は立ち上がると、窓から暗い内院(中庭)を見遣った。東の空を見上げると、やや欠けた月が夜空に輝いている。鄴都の夜空は昏く、どこにも光を見出せない。青蘭は滲んでくる涙を指で拭った。

榻牀に座った鄭桂瑛は、娘のやせた背中を見遣った。

 青蘭は頑固な性格だ。だめだと言っても納得しない。しかし中原一の大学者である顔之推に断られたら、青蘭も諦めるに違いない。

「青蘭、一度、顔之推先生に、入門をお願いしてみよう」

「母上、本当ですか?」

 青蘭は、顔を上げて母を見た。

「ただ、そなたが弟子入りができるかは、顔之推次第だ。もしだめだったら、諦めるのだ」

 青蘭とは、四年前南朝に行って以来、疎遠な関係であった。父親の決めた婚儀に不満を持って、せっかく母の自分を頼ってきたのだ。ここで青蘭の希望を無下にすれば、再び鄴都から逃げてしまう可能性さえある。この子を失うわけには行かない。


        ★        顔之推との出会い       ★


 鄭家からの多くの脩束(入学の礼物)にもかかわらず、顔氏は頑として女子の入門を拒んだ。しかし、粘り強い交渉の末、鄭桂瑛は、面談してから決めるという約束をやっと取り付けたのだ。


 三日後、青蘭は顔氏の邸に出かけた。青蘭は、決心を示すように縹色の長衣に紺色の外衣を羽織り、男子のいで立ちだ。顔之推の屋敷は、鄴城の東、上林坊にあった。

 南朝から来た裕福な漢人が提供したのだろうか、簡素な表門だが、広い内院を持っている。古びているが凝った造りの垂花門を入ると、家僕が現れた。

「王青蘭と申す。顔之推先生にお会いしたい」

 青蘭は、わざと男っぽい低い声で言うと名前を書いた札を渡した。家僕は先に立って青蘭を正房に案内した。白梅と黄色い水仙が内院の小径を彩っている。

 家僕が訪問を告げた。


「案内せよ」

 ベンガラの朱色が古びた扉の中から、低い滑らかな声が聞こえた。

 暗い堂房の正面に大柄な男が座っている。三十歳ぐらいであろうか、大柄な男は、礼と法を重んじる儒学者とは思えない砕けた長衣姿で座っていた。几案(机)には、昼間から酒杯と酒瓶が並んでいる。

 青蘭は、前に進み出ると拝礼した。

「顔先生にご挨拶致します。王青蘭にございます」

「楽にせよ」

 滑らかな声が響いた。青蘭は立ち上がっても、顔を伏せ顔氏の言葉を待った。師には許されるまで声を発しないのが礼儀である。


 大学者の顔之推は、その高名さゆえに年嵩であると思っていた。しかし、実際の顔之推は、この時二十七歳である。青蘭には三十代前半に見えた。

「そなたは、王将軍の息女か」

「はい、梁の将軍王琳と鄭桂瑛の娘、王青蘭にございます」

男装である。王青蘭は、将軍の息女であるのに、男の装束が身について違和感がない。

おもてを上げよ。・・・(わし)は、女子は弟子にとらぬ」

 十代ではその才を誇り、時には酒色に耽ったこともある顔氏は、鋭い眼差しで青蘭を見据えた。

「ここは、学問を修める聖なる学堂じゃ。女子は学問の妨げ、すぐに引き取ってもらおう」

 いきなりの拒絶の言葉だ。ここであきらめては、江陵から鄴まで来た苦労が無になってしまう。青蘭は必死に言葉を繋いだ。

「天下には、男と女しか居りません。それであるのに、先生は、天下の半分たる女人に学問はいらぬと切り捨てられるのですか?」

 青蘭は、静穏さを取り戻した顔氏の瞳を見詰めた。

「南朝では男の装束をまとい、男子と同じように剣を振ってきました。生きる道に迷うのは、男も女も同じです。学問をすることにより、生きる意味を見付けたいのです。そして、世の安寧に尽くしたいのです」

 青蘭は、女子にも学問は必要だと言うことを強調した。

「学問は、一意専心してこそ究められるものだ。しかし、女子は婚姻して子を産み育てるが天の定め。専心することは無理であろう」

 ここであきらめては、命をかけて鄴都まで来た事が無駄になる。

「女子としての道は、捨てました。男子として学問に生きる覚悟です。嫁ぐつもりはありません。これからは一人で身を立て生きていくつもりです」

 青蘭は、必死な思いで顔子推を見ると威儀を正し礼をした。


 顔氏は、あきれ顔で青蘭の顔を見た。若気の至りだ。いまだ十五歳そこそこの少女が、婚姻をせずに男として生きていくという。その決心を示すために、男の装束で来たのか。少女の必死な訴えに、顔之推は思わず破顔した。

「そなたは、なかなか面白い女子だな。さすが王将軍の息女だ」

 顔氏は、几案上の酒杯と酒瓶を端に寄せると、ゆっくりと『荀子』の書冊を前に置いた。

「鄭賈主からは、結構な脩束をもらった。脩束を受け取って、断る訳にはいくまいな」

 顔氏は、顎の短い髭を撫でながら首を振った。鄭家は、鄴都で手広く商賈を営む豪商である。顔之推がこの鄴で学堂を運営していくためには、経済的な後援となるかもしれない。

 漢人官吏の援助だけでは、心細い。皇族に食い込んでいる鄭家の力はいろいろなところで役に立つに違いない。この風狂な女子がどのぐらいできるのか見てみたいと思った。一人ぐらい、例外的に女子の弟子がいてもいいだろう。


「そうか、そなたの心意気はよく分かった。しかし、この顔之推は、女の弟子は取らぬ。・・・ゆえに、男子として通ってくるのだ。決して知られてはならぬ。守れるか?」

「顔師父、肝に銘じます」

 青蘭は、顔子推を凝視しながら拱手した。

「そうだな、王青蘭でいかん。そなたに学堂での名を授けよう。・・・学問に打ち込み民を慈しんだ光武帝にちなんで『文叔』はどうであろう」

 光武帝は後漢の初代の皇帝で、しがない学士から皇帝に上り詰めた人物である。

「『王文叔』・・・ありがとうございます。その名に恥じぬよう、学問に打込みまする」

 青蘭は、三度拝礼し、師匠への礼を示した。

「まず、『荀子』から始めるがよかろう。元宵節が終わったら通って来るがよい」

青蘭は、両手で書冊を受け取ると、涙が浮かべた。

『顔師父の下で学問ができる』

 これは夢では無いか。王青蘭は、浮き立つ思いで顔氏邸を退出した。

 顔之推に直談判した結果、王青蘭は入門を許された。しかし、女子には男子のように官吏になる道もないため、将来への不安は拭いきれない。不安を抱えたまま、青蘭はふらりと元宵節の灯籠飾りを見物に出かけた。

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