謎の貴公子との出会い
清河王との結婚を押しつけられた王青蘭は、政略結婚をきらって江陵を出ることを決心する。王青蘭は、鄴都への道中の途中で、親切な貴公子と知り合いになる。
★ 江陵の彩雲 ★
青蘭の居所の衣桁には、珊瑚色の上衣に臙脂色の長裙、緋色の外衣が掛かけてある。父王琳が、明日の清河王との対面のために用意した装束である。
昨日清河王が江陵に到着し、明後日には青蘭との顔合わせが行われるという。顔合わせが行われたら、婚約書を取り交わすことになり、縁談を断ることは難しい。顔合わせの前に江陵を抜け出さなければ・・・。
青蘭は立ち上がると、緋色の外衣を撫でた。父上のためとは言え、私は政略結婚の犠牲にはなりたくない。父上の怒りを買っても、ここを出て母上のところに行く。
士大夫の令嬢の婚姻は、両親が家柄や身分を見定めて決めるのが常識である。父親に逆らって、離縁した母親の元へ行くと言うことは、士大夫の令嬢としての将来を諦めると言うことなのだ。
屋敷が寝静まった丑の刻、灯籠を持った晴児が従者姿で現れた。
「お嬢様、出発の準備ができました」
背中には囊を背負い手には披風(外套)を携えている。
「もうすぐ、寅の刻(午前四時頃)になります。お急ぎを」
回廊に出て外を見ると、西の空にはまだ星空が瞬いている。
「城門が卯の刻(午前六時頃)に開く。開門一番で城門を出よう。でないと追っ手に追いつかれ、連れ戻される」
青蘭は、囊(布袋)を手に取り披風をまとうと居所を後にした。
夜明け前の大路は暁暗に包まれている。
青蘭と晴児は、馬の手綱を引きながら城門に向かって歩いた。両側の家々はまだ眠りの中にある。二人は城門近くの人のいない茶屋の陰に腰を下ろすと、焼餅を取り出し朝食代わりにかじった。
「晴児、女の二人旅では、鄴までの道中が危険だ」
青蘭は、晴児に柑子を渡した。
「今日から我らは男に生まれ変わる。・・・私は子靖、お前は・・・侍衛の小晴だ」
青蘭は、低い声で言うと男らしく胸を張った。
「若様、分かりました。肝に銘じます」
晴児は、力を込めて拱手した。小晴とは、晴児が戦乱を逃れるために男装したときの名前である。
ほどなく、東の空に浅紅色がわずかに現れ、薄紫色の雲が筆で刷いたようだ。江陵の大路は明るさを増した。二人は、城門に向かう民の列に並んだ。
居所においてきた置き手紙に気付いた王琳が、追っ手を差し向けるのではないかと心配していたが、特別の検問は敷かれていないようだ。青蘭と晴児は、何事もなく城門を通過した。
城門の外に出る頃には、辺りはすっかり明るくなっていた。
「追手が来ないうちに・・・さあ急ごう」
青蘭は、馬にまたがると、北に向かって馬を駆けさせた。
長江の流れを西にさかのぼり、涙水との合流点まで行ったころには、太陽は東の空に昇ってすっかり明るくなっていた。青蘭はようやく馬から降りて、披風の頭巾を脱いた。
「今日は、どこに泊まるのですか」
晴児は不安そうに聞いて来る。
「先は長い。まずは、漳川に宿を取ろう」
青蘭は、そう言うと水筒を晴児に渡した。
★ 漳川を渡って ★
漳川は、涙水の畔に発達した邑である。邑の中に入ると、思いのほか活気がある。西魏から来た鮮卑族らしき髭の濃い武人や、漠北から訪れた胡人の姿もちらほら見える。
「お嬢様、いえ、若様、サンザシ飴を売っていますよ」
晴児は大路の人混みの中に入って行くと、サンザシ飴を二本握って笑顔で戻ってきた。サンザシは、漢方薬にも使われる甘酸っぱい実である。
「若様、・・・どうぞ」
青蘭はサンザシ飴をかじりながら、露店の前に追っ手がいないか首をめぐらした。江陵からの追っ手はないようだ。父上は許してくれたのか、それとも、それほど自分に関心が無いのか。
青蘭はため息をつくと、客桟の扉をくぐった。
次の日の朝早く、青蘭たちは客桟を出た。漳川から南に向かうと、広々とした枯野の向こうに青々とした山脈が迫ってくる。
「お嬢様、あの山を越えるのですか。あのう ・・・あの山には狼が出ると宿の者が・・」
「狼が出る?・・・何を言ってる。狼より怖いのは人間だ」
青蘭は、平静を装いながら答えた。
「小晴、ここからは自分で自分の身を守らねばならない。そなたに、これを渡しておく」
青蘭は、短剣を取り出すと晴児に渡した。
剣術の心得のない晴児は、短剣を受け取ると震えながら青蘭を見上げた。
「ともかく、山を越えねば、・・・斉にたどり着けぬ」
青蘭は、厳しい眼差しで自分の剣を鞍にくくりつけた。
江陵から平洲を越えて郢州に向かう山脈は古来より荊州を外敵から守ってきた峻厳な山々である。青蘭と晴児の主従は、狼の遠吠えにおびえながら山脈を越えていった。
深い緑の森林地帯をすぎ、喬木の林を抜けると、崖の上に出た。崖の下には沔水が、冬の枯れ野の中を西から東に向かって蛇行しながら流れて行くのが見える。
青蘭が振り返って、超えてきた平州の山峰を眺めた。森然とした山々を越える困難は予想をはるかに超えていた。
青蘭は、手綱を引いて後ろに振り向くと、晴児を見遣った。崖から吹き上げる北風が晴児の頬を無情になぶっている。
「若様、・・寒くて」
晴児が疲れた顔で手綱を絞り、唇を震わせた。
「あの、沔水を超えたら西魏の国だ。武寧までもう少しだ。晴児がんばれ」
晴児は、青蘭の言葉にわずかに笑いを見せた。
崖沿いの道を降りていくと、沔水の畔に武寧の邑が広がっていた。武寧郡は、周から長江へ流れる沔水に面し、多くの船が行きする港として発達した邑である。西魏と後梁の国境に近い邑である武寧には多くの客桟が立ち並び、南朝・長安・西域の言葉が飛び交っていた。
青蘭は南に面した客室の窓から、通りを見下ろした。
「小晴、この武寧は後梁の勢力内だが、商人は西魏からも北斉からもやって来ている。商人にとって、君主が誰かなんて言うのは関係ないのだな。・・・なぜ、人々は戦をするのだろう」
晋が滅亡して以来、多くの国が覇権を巡って戦ってきた。しかし、戦いに明け暮れる君主など、ここにいる民にとっては戦禍を及ぼす厄害以外の何者でもないのだ。
晴児は寝床を整えながら、青蘭の言葉に首をかしげた。
「若様、難しいことは分かりませんが、君主がいなければ、民も無くなってしまいます」
その夜、青蘭たちは客舎で夕餉を済ませると疲労のために早々に床に就いた。
★ 魯陽での洗礼 ★
武寧を出た青蘭たちは、魯陽に向かった。侑水の北岸からおよそ五十里(二十キロ)北に行くと国境の邑である魯陽に行き当たる。魯陽は、侑州にあり斉国と西魏の境にある。
青蘭は魯陽の邑内で一泊して、次の日には斉国に入るつもりであった。
日は中天を過ぎ、西に傾いている。魯陽の邑内に入ると、青蘭はすぐに客舎を探した。しかし、今までと違って、魯陽では容易に宿を見付けることはできなかった。十二月十五日は邑内で年末最後の市の立つ日であり、ほとんどの客舎はすでに宿泊客でうまっていたのだ。
客舎から出てきた晴児が青蘭に駆け寄ってきた。
「若様、いっぱいだそうです。市が立っているということで、部屋はうまっていると断られました」
晴児は、申し訳なさそうに下を向いた。
「そうか、別な客舎を探そう」
馬を引きながら大路を歩き出すと、両側には、多くの露店が連なっている。今夜の宿が決まらない心細さに空腹が重なった。
「まず、腹を満たそう」
青蘭は、晴児に銭を渡すと焼餅を買いに行かせた。
市には、野菜や果物を商う店だけでなく、麻布・絹布などを商う店もある。また、焼餅や麺類・包頭などの食事を提供する店も多い。
かつて、魯陽は西魏に蹂躙された邑であった。しかし、今では復興し、多くの民が市に集っているのだ。
「お客さん、銭を払ってくれないと困りますぜ」
「何を言っている。銭は払ったであろう」
大きな男の声に続いて、晴児の声が大路に響いた。
何が起こったのだ。青蘭が声の方に行ってみると、真っ赤な顔をした晴児が大声でがなり立てている。
いつもは物静かな晴児だが、江湖を生き抜いてきただけあって、いざとなると人が変わったように威勢が良い。
「おまえ、私を謀るとは許せぬ」
堂々たる男子の言葉であるが、焼餅屋の大男は、脂ぎった顔で馬鹿にしたように笑った。
「何を言っているんで、若造。銭なんて・・・もらっていないぜ。ふん、言いがかりはやめてもらおう」
露店の男は、晴児が梁からの避難者であることを見抜いて謀っているのだ。青蘭は、堪らず声を発した。
「おやじ、何を言っているのだ。・・俺の従者が騙しているだと?」
女子だと見抜かれてはまずい。青蘭は大仰に叫ぶと、手にしていた剣をわずかに抜いて、刃をみせた。
「儂が嘘をついているというのか?え?」
南朝の若様だと侮った親爺は、なおも引かない。
その時、青蘭の横にいた上品な身なりの長身の青年が声を発した。
「騙しているのは、おまえの方だ親爺。俺はこの目で見ていたぞ」
「なに?何を言っているんだい」
男は傲岸に言い返した。
「魯陽の都尉に訴えてもいいんだぞ」
声を荒げた男は、役人に訴えるという言葉を聞くと急に弱気になった。
「わ、分かりました。・・若様、・・・俺の思い違いかも・・」
男は急に平身低頭すると、ぶつぶつ言いながら晴児に数個の焼餅を渡した。
「まったく、あの態度はなんだよ」
晴児は、焼餅受け取っても怒りが収まらない。うっかり、騙されるところだったのだ
「全く、西魏の商人は・・・ろくなやつが居りません」
江陵の陥落以来、晴児は西魏を憎んでいる。青蘭は、戻って来た晴児の肩を叩いて慰めた。
★ 高敬徳との出会い ★
「あんな小悪党は、どこにでもいるさ」
青蘭が振り向くと、傍らに先ほどの青年が笑顔で立っている。
歳は二十をいくつか過ぎたぐらいだろうか。旅支度をしているが、上等の縹色の絹の衣に碧を飾った銀の冠を付け、良家の若様風のいで立ちである。
青年は端誠な眉目に温柔の色を見せて青蘭たちを心配そうに覗き込んでいる。ここで女子であると悟られてはいけない。
「先ほどは助けていただき、かたじけない」
青蘭は、人混みを出たところで青年に拱手をして男らしく感謝の意を表した。青年は、青蘭に親しげな笑いを浮かべると訊いてきた。
「そなた達は梁から来たのか?」
見ず知らずの男に出身を教えるわけにはいかない。青蘭は口ごもった。
「失礼した。まずは自分で名乗らないとな。・・・斉から参った高敬徳と申す」
青年は秀麗な温顔を青蘭に向けると、礼儀正しく拱手した。斉の貴公子であろうか、色白で端正な容貌に武人らしい逞しさを備えている。
江陵から鄴までの道程には危険が満ちている。親切そうな人物ほど妖しいのだ。青蘭は、高敬徳と名乗る親切な青年にも警戒心を解くことはできなかった。
「急いでいますので、・・・失礼します」
青蘭たちが、馬を引いて立ち去ろうとすると、高敬徳は、なぜか青蘭の馬の轡を取ってスタスタと歩き出した。
「ちょっと、・・・ちょっと、待って」
青蘭は、慌てて追いかけた。
「今日は市だ。・・・今から宿を探そうとしても、まともな宿はもう無いぞ。野宿でもするのか?」
高敬徳と名乗る貴公子は、当然のことだというように青蘭の顔を見た。
「それは困る」
青蘭が応えると、高氏は轡を取ったまま振り向いた。
「そなた達は、宿がなくて困っているのであろう?・・・そうだ、私の取ってある部屋の一つを譲ってやろう」
青年のあやしげな申し出に、青蘭は青年を睨んだ。
『妙に親切だ』
南朝の戦乱の中で、多くの人々が闇に落ちていく姿を見てきた。その中で、得た教訓は、決して人を信じてはならないということだ。
「高殿、何が目的だ?」
青蘭は、轡を取り返そうとした。
「袖触れ合うも、多生の縁というではないか」
高敬徳は手綱を両手で引くと笑顔を見せた。男装しているとは言え、女の身で男と同宿するわけにはいかない。
「見知らぬ方に同室させたいもらうわけにはいかぬ。私達は主従二人だ、野宿だって・・・」
そう言っている間に、三人は大きな客舎の大門の前に行き着いた。
「同室というのは、誤解だ」
高敬徳は、青蘭の顔を正面から見下ろした。
「従者のために、取ってある部屋が空いている。空いている部屋を貸すだけだ。・・・何なら銭も取るぞ」
青年を見ると、悪人には見えない。しかし育ちのいい悪人を青蘭はたくさん見て来た。
「若様・・・」
傍らを見ると、今夜の宿を心配する晴児が青蘭の袖を引っ張っている。
『男装をしている。・・・まさか、客舎の中で襲われるということはないだろう』
野宿をすれば、それ以上に危険だ。晴児を守らなければならないという義務感と目の前の客舎の明るさが野宿を躊躇させた。
「わかりました。高殿の御厚意に甘えさせていただきます。宿賃は払います」
従者のための隣室と言う敬徳の言葉に、青蘭と晴児は、高氏の部屋を借りることにした。
「私は王子靖と申す」
高敬徳の後をついで客房に入った青蘭は、用意した字で自己紹介した。
「王子靖殿か、・・・私は鄴に戻るところだ。ここで出会ったことは、・・何かの縁だ。そなたとは朋友になれそうな気がする」
敬徳は、おどけたように片眉を上げると、鷹揚な笑顔を見せた。
★ 敬徳の好意 ★
青蘭たちは、客舎に荷物と馬を預けると雪が降る市に出かけた。誘われないにも拘わらず、敬徳は親しげに付いて来た。
「子靖、そなた、腹が減っていないか?」
敬徳は、通りを見渡すと繁盛している飯店を指で指した。
うまそうな匂いが通りまで流れ出してきていた。腹が鳴る。敬徳に促されて青蘭と晴児は、飯店に入った。
青蘭は飯店に入ると物珍しさに店内を見回した。士大夫の令嬢が飯屋で食事を摂ることはほとんどない。敬徳は、青蘭の袖を引っ張ると席に着かせた。三人は同じ卓を囲んだ。
店の従人が注文を取りに来る。
「そうだな、羊の煮込みと鶏の炙り物、麺を三つ、それから酒を頼む」
高敬徳は旅慣れた様子で手早く料理を頼んだ。
「ああ、私は酒はいらない。茶を頼む」
長い道中だ、贅沢はできない。すると、敬徳は、珍しいものを見る様に青蘭の顔を覗き込んだ。
「男なのに酒を飲まずに、茶を飲むだと?・・・女みたいな軟弱なやつだな」
南朝の子息の惰弱さは聞いていたが、酒も飲まないのか。敬徳は女のようなほっそりとした子靖の肩と指先に目を遣った。
酒が来ると。敬徳は酒瓶を掴んだ。三つの杯に酒を満たすと、無理矢理二人に持たせた。
「異国の周で巡り会い、友となった奇縁を祝して、乾杯」
敬徳は清澄な眉目を青蘭に向けると、酒杯を捧げ、杯を打ち合わせ一気に干した。女子だと疑われないように、青蘭も男らしさを装って酒杯を空けなければならない。
強い酒が喉をヒリつかせ思わず咳き込んだ。胃袋に酒が染み渡ると、じんわりと酔いが回って来た。
「子靖、そなたたちは斉へ行くのか?」
「はあ、・・・鄴にいる親戚の許へ行くつもりだ」
晴児があまり話さないように目配せをしたが、既に酔いが回ったのか青蘭は気が付かない。
一杯飲んだだけで、子靖の瞳が潤んだような影を作っている。女子のような華奢な身体つきで、この少年は斉まで行けるのだろうか。敬徳は、また酒杯に酒を注いだ。
地味な衣装をまとっているが、従者とのやりとりを見ていると、子靖と名乗る少年は、身分のある士大夫の令息のようだ。
「子靖、魯陽の邑を見てどう思う?」
自分が女子を見るような目で子靖を見ていることに気が付き、敬徳は急に話題を変えた。
「商人が多く商売がこれほど盛んであると思わなかった。戦乱に見舞われた魯陽が、これほど復興しているとは驚いた」
青蘭は、女の言葉が出ないように慎重に邑の印象を語った。
「さすがだな。子靖、・・・若いのによく見ている」
高敬徳は我が意を得たりと頷くと、また一気に酒杯を干した。思うところを、こんな風に素直に口に出すのは、何年ぶりだろう。
「『天下は一人の天下にあらず』は、知っているか?」
高敬徳は太い眉に鋭い眼光で、青蘭に問いかけてきた。
敬徳は私を試しているのだろうか?確か、この言葉は、書で読んだことがある。そうだ、『六韜』だ。
「乃ち天下の天下なり」
青蘭は、兄の蔵書のなかにあった『六韜』の言葉を敬徳の言葉に続けた。
『ほう、やるじゃないか、子靖』
打てば響くような返答に、敬徳は自然と笑顔になった。南朝の貴公子は、兵書にも通じているらしい。
「そなたも『六韜』を読んでいたのか。天下は、君主の天下ではない。・・・万民の天下であると言うことだ」
高敬徳が廷臣であったなら、これは大胆な物言いだ。それは凡庸な君主を倒して天下を取っていいとも取られかねない危険な言葉である。
「詩賦ばかりを作っている南朝の若様が、兵書に詳しいとはな・・・」
「武経七書は、私でも知っている」
青蘭が、当然ですと笑顔を作ると、敬徳は
「結構、結構」
といいながら頷いた。敬徳は北朝の貴公子でありながら、南朝の学士に劣らない学識を備えている。
「子靖、そなたは、鄴に行って何をするのだ」
敬徳は労るように青蘭を見た。
「鄴には、高名な学者が学堂を開いていると聞いている。そこで、学問をしたい」
「そうだな、若い内は学問にいそしむが良い。そうしてから官途に就くのが一番だ」
漢人の登用を嫌っている西魏とちがって、北斉では、宰相の楊令公を始め漢人の官吏が活躍している。
しかし、女子の自分は、たとえ学問を究めても官吏として出仕することはできない。どこへ行っても行き止まりだ。
酔いが回ってきたのだろうか。世の中の理不尽さに青蘭は怒りをぶちまけた。
「世の学士は、今では、天下国家などはそっちのけだ。目先の出仕のためだけに学問をしている。おかしいではないか?」
少年の言葉は正鵠を射ている。
「まさしく、その通りだ」
敬徳は、両手を打った。何と純粋な若者であろう。敬徳は純粋な子靖の言葉に雷で打たれたような衝撃を受けた。
青蘭は世の学士を罵った後で、言葉が過ぎたと後悔した。
「すみません、生意気を言いました」
「何を言う。子靖の言うことが正しい」
敬徳は温順な笑みを浮かべると、子靖の肩に手をやった。汚濁にまみれた朝廷にいる内に、自分の心はいつの間にか純粋な心を失ってしまったようだ。
青蘭は酒杯に口を付けると、高敬徳を見遣った。この高敬徳とは何者なのだろう。斉の高氏と言えば、漢族でも鮮卑族でも名族が存在する。高敬徳とは、どんな人なのだろう。しかし、王琳の娘である事が知られることは危険だ。
ちょうどその時、卓には注文していた麺が運ばれてきた。暖かい湯気が、青蘭の疲れ切った心に緩やかに入り込んだ。三人はさっそく箸を取ると、羊肉の入った麺を食べ始めた。
飯店を出ると、晴児は先に客舎に戻り、敬徳と青蘭はぶらりと市を見に行った。焼餅や饂飩の露店の他に、香袋や飾り絹の店もある。青蘭は、女子だと悟られないよに、注意深く身装具の店を避けた。
「この簪はどうだ?」
敬徳は、蓮の飾りの簪を手に取った。
「敬徳の想い人に贈るのか?」
「鄴にいるそなたの想い人にどうだと、言っているのだ」
敬徳は冗談めかした笑顔で青蘭の腕を掴もうとした。若様の恋の逃避行だと思っているのか?
「そんな想い人などいない」
憤慨した青蘭は、敬徳の肩をつついた。
「こっちへ来てくれ」
敬徳は、青蘭の腕を掴むと人影のない小河の辺まで引っ張って行った。すでに河岸は夕闇に包まれている。
「どうしたのだ、敬徳」
青蘭は、敬徳の腕を振り払った。
「明日は、国境を越えるのだろう?・・俺と一緒に国境を越えよう」
親切な敬徳の言葉に、むしろ警戒心が湧いた。国境の周辺には、馬賊が跋扈しているという。そして、越境時の安全をネタに金品を要求する盗賊がいるという。
「敬徳に迷惑は掛けられない」
「迷惑だなんて、・・俺は、そなたの身が心配なのだ。国境には賊もでると聞いている。俺と一緒に関を越えよう」
国境の関には、警備の斉の将兵がいる。しかし、弱い民と見ると、将兵は賊にならないとも限らないのだ。
「ありがたい。・・・しかし、なぜ見ず知らずの私に、そんなに親切に?」
青蘭は、敬徳の晴朗な顔を見上げた。
「さあ?・・俺たちは、もう友達だろう?」
敬徳は眉を上げて笑顔を作った。
「友を・・・失いたくないということだ。私には・・・友達が少ない」
清澄な貴公子に、友が少ないはずがない。敬徳は、青蘭の視線を避けるように河原から石を拾うと、石を拾って川面に投げた。平らな石が、数回弾んだ音がした。
俺の愛する者は、いつも失われる。親しい者を失う苦しみは、もう味わいたくない。高敬徳は、夕闇に沈む小河を見つめていた。
★ 闇夜の山賊 ★
次の朝、青蘭と晴児、そして敬徳の三人は卯の刻(午前六時ごろ)に魯陽の城門を出た。馬に乗り水の少ない汝水を渡ると、斉の領地である。
汝水の北岸には、広大な草地が広がっている。冬枯れの薄茶色の草原一面に銀色の霜が降り、登ったばかりの太陽の光に照らされ輝いている。青蘭は馬上で頭巾を引き下げて眩しさを遮った。
汝水は淮水の支流に当たり、歴史的に淮水から北は北朝の支配地になっている。しばらく駆けると、槐の木の下で三人は馬を降りた。
「斉と西魏の国境は、もっと・・・その・・ピリピリしているかと思った」
流木に腰を下ろした青蘭は、水筒から一口飲んで敬徳を見た。
「通常は距離を置いて戦闘が起きないようにしているんだ」
敬徳は、国境の防衛に精通しているのだろうか、遙かに広がる土色の平原を見遣った。
「問題はこれからだ」
敬徳は、懐から太陽色の柑子を出すと子靖と小瑛に投げて寄越した。冬の柑子は、王侯貴族しか口にできない南方の果物である。
東から昇った朝日の中を、上流から駆けてくる二十名ぐらいの歩騎の一団が見えた。兵馬の赤い装束から斉の警備兵士だと分かった。運が悪ければ、捕縛される恐れもある。
青蘭は緊張して、すばやく剣に手を遣った。
「子靖、待て」
敬徳は青蘭を手で制すると、馬に乗り歩騎の一団の方に向かって進んだ。三人からおよそ一町(百メートル)ばかり離れたところで、歩騎の一団は止まった。敬徳が馬から降りて隊長と思われる男に二、三言話すと、隊長は態度を軟化させ丁寧に拱手した。
国境を警備する一団は、何事もなく立ち去った。
「昨夜、この辺りに盗賊の一団が出たそうだ。そなたらも道中は気を付けねばならぬ」
青蘭たちのところに戻ると、敬徳は二人に注意した。
「先を急ごう」
盗賊の一団が出没しているという情報に先を急いでいた三人は、平穏な草原の様子に次第に馬の歩みを緩めた。
太陽が中天から傾くと、疲労のためだろう晴児の馬が遅れがちになった。
「若様、申し訳ありません。足に力が入らなくて」
先に行っていた敬徳が馬を返して戻ってきた。
「大丈夫か、この先に、客桟がある。そこでしばし休もう」
北に三里(千二百メートル)ほど行くと、喬木の林の中に寂れた客桟(食堂兼宿屋)が現れた。鄙びた門を入ると、長身の男と太った女の夫婦らしき二人が出てきた。
「茶をたのむ」
三人は前庭の食盤を囲んで座った。青蘭の横に座った晴児は、憔悴の色が濃い。
江陵を出てからの過酷な道中が、晴児の体力を奪ったのだ。青蘭は、晴児の体力を考えず日程を急いでしまったことを後悔した。
「小晴、大丈夫か、中川まではだいぶ先だぞ」
敬徳は、運ばれてきた茶を勧めながら、小晴の顔を覗き込んだ。馬が潰れる前に、侍衛が病になってしまう。
「子靖、今日はこの客餞で宿を取ってはどうか。私は先を急ぐので同宿できぬが」
晴児が、ここで病気になっては斉まで辿り着けない。青蘭は、今夜ここに宿を取り、明日中川に向かうことにした。
「子靖、そなたは鄴に行くというが、当てはあるのか」
「親戚のところに、やっかいになろうと思う」
青蘭は、自分の身分が知られないように曖昧に答えた。
「そうか、親戚がいれば安心だな。洛陽に着いたら、船で黎陽まで行くがよい。その方が安全で楽だ」
昨日会ったばかりであるのに、兄のように心配してくれる敬徳との別れに、青蘭はいつの間にか心細さを感じるようになっていた。
「そうだ、王子靖、鄴に香麗房という茶房がある。俺もよく行くのだ。もしよかったらそこで共に茶を楽しみたい。・・・お前は、無防備で心配だ。容易く人を信じてはいけない。・・・これからの道中では剣を離すな」
敬徳は、幼い弟に諭すようにくどくど注意した。
世間知らずで武術に弱い主従が、鄴までたどりつけるか心配であった。しかし、江陵までやってきた己の任務を放棄することはできない。
「敬徳殿、道中ではいろいろ助けていただき、礼を申す。この恩はいつか返す」
青蘭は、改めて立ち上がると深く拱手した。
茶を飲み干した敬徳は、青蘭の手を堅く握ると、何かを思いきるように門に向かって歩みだした。
「子靖、道中気をつけて。機会があったらまた会おう」
青蘭が門外まで送ると、敬徳は笑顔を見せて馬に乗った。
昨日出会ったばかりなのに、なぜ分かれることが辛いのだろう。自分を友と呼んだ不思議な貴公子の後ろ姿を、青蘭はいつまでも見送っていた。
★ 盗賊の来襲 ★
冬の日は短い。青蘭と晴児は、客桟で夕餉を摂ると早々に床に就いた。
疲れた晴児は、瞬く間に寝入ってしまった。青蘭は暗い灯火の光の中、熟睡している晴児の寝顔を見下ろした。晴児は疲れている。ここに宿を取ってよかった。
これまでは、江陵や西魏の支配地を無事に出ることばかりを考えてきた。しかし、斉の領内に入ると、鄴での生活のことを考えないわけにはいかない。父上の元を勝手に出てきた私を、峻厳な母上が受け入れてくれるだろうか。婚姻を逃れて破談にしたことは、女子の道に背く行為だ。母上は、怒りにまかせて勘当を言い渡すかも知れない。
青蘭は枕元の灯火を消すと、薄い褥の上に疲れた身体を横たえた。
浅い眠りの中、青蘭は外の物音に目を覚ました。灯火のない部屋の中は漆黒の暗闇である。風の音に紛れて、外から低い話し声と足音が聞こえる。こんな夜中に何者だ?
耳を澄ますと、剣のふれ合う音も漏れてくる。青蘭は隙間から差し込んでくる月明かりを頼りに、すばやく剣を手にすると起き上がった。戸を僅かに開けて戸外をうかがう。
欠け始めた月の光が、男たちの姿を煌々と照らす。五、六人の人影が庭で動めいている。その手には剣の刃が鋭く光った。
青蘭の目が、しだいに暗闇に慣れてきた。青蘭は戸を閉めると、晴児を揺り動かした。
「起きて、晴児、晴児、賊が来ている」
「ううん、お嬢様。なに?ぞ・・」
青蘭を声を挙げそうな晴児の口をふさいだ。
「晴児、・・部屋の端に隠れていて」
青蘭は晴児に短剣を持たせると、衝立の後ろに押し込んだ。
「おう、やっちまおうぜ」
賊が扉の前に集まって襲ってくる気配がする。青蘭は扉横の壁に体を寄せた。
「中にいるのは、たんまりお宝を持った梁の若様だ。今日はいいカモだ。いっ、ひ、ひ、ひ」
強い力で扉が開けられると、賊が三人大声を挙げながら、青蘭達の部屋に乱入してきた。
「油断するなよ」
男達の顔が暗闇の中で迫ってきた。振り上げられた剣が隙間から漏れている月の光を反射した。男は、青蘭の寝ていた榻牀に剣を突き刺した。
「あいつらは、どこだ」
二人の姿がないことに気付いた賊はいらだって、賊は暗闇の中を見回す。青蘭が闇に紛れて、男の背中に斬りかかった。
「わあっつ」
いきなりの反撃に賊は叫んだが、相手が一人だけだと知ると余裕を取り戻し、青蘭に剣を向けた。賊の剣を受けると火花が散った。
『もっと、よく剣術の稽古をしておけばよかった』
賊の太刀を、青蘭は辛うじて押し返した。賊は手練れではないが、何より多勢に負勢である。
背中に傷を負った男は、息を荒くして壁により掛かって、青蘭の影を睨んでいる。青蘭は小柄な男に一撃を食らわせると、開け放たれた扉の方にじり寄った。しかし、前庭には、二人の男が青蘭が出てくるのを待っている。
『だめだ、外に出てもあいつらにやられてしまう』
青蘭の心は、絶望に染まった。鄴にたどり着く前に、ここで命がつきるのか。
その時だ、庭にいた賊が、断末魔の叫び声を挙げて倒れた。鋭い剣先が翻ると外の男たちは静かになった。
「子靖、いるか?」
その声は、高敬徳だ。高敬徳は、かなりの遣い手のようだ。
「子靖、大丈夫か?私だ、敬徳だ」
敬徳の言葉で、賊に動揺が走った。その動揺を見逃さず、青蘭は一気に斬りかかった。
切らなければ殺される。青蘭は必至の思いで剣を振り下ろし、横に払った。人を切る鈍い手ごたえが青蘭の手に残った。夢中で剣を振るっていると、劣勢とみた賊は庭に逃れた。
青蘭がふらふらと戸口に立ってみると、敬徳が月光の中で三人の男達と睨み合っている。実戦を積んでいるのだろう、敬徳の剣には在野の者にはない凄みが宿っていた。賊と敬徳には明らかな力量の差がある。
敬徳は斬りかかる賊をかわしながら、急所を捉えて傷を与えている。賊は、二人の死体を外に残して逃げ去った。
「大丈夫か、子靖」
賊がいなくなると、敬徳が扉の所に立つ青蘭のところに駆け寄ってきた。
「気になって戻ってきたんだ。・・・こんな事になっているとは」
青蘭は、庭に転がっている男たちの死体を見て、起こったことの恐ろしさに体が震えて座り込んだ。
腰が立たない。しかし、この体たらくでは女子だと分かってしまう。剣を支えに青蘭はようやく立ち上がった。生臭い血の匂いが、吐き気をもよおす。父と共に戦乱をくぐり抜けてきたが、実際に剣を交えることはほとんど無かったのだ。
「子靖、怪我はないか」
敬徳が青蘭の肩を叩いて怪我の具合を確かめた。
「小晴は?」
敬徳は部屋の中に入ると、灯火をともし冷静に部屋の中を見回した。
「うわあっ」」
食盤の横に倒れている男に躓きそうになって、青蘭は大きな声を挙げた。
「大丈夫か?」
気が付くと、青蘭は敬徳に支えられていた。青蘭は、手に持った剣を鞘に収めようとしたが、手が震えてうまくいかない。敬徳が指を一本づつ開いて、やっと剣を鞘にもどしてくれた。
「小晴いるか」
部屋の隅にあった衝立を動かすと、腰を抜かして動けない晴児がうずくまっていた。
「小晴、もう大丈夫だ。賊は失せた」
晴児は恐ろしさに声も出せず涙ぐんでいる。晴児を立たせると青蘭は敬徳の前に行った。
「すんでの所で、命拾いしました。敬徳殿は、命の恩人です」
二人は、敬徳に深く頭を垂れた。
「助かってよかった。・・・俺がもっと早く戻っていれば・・・。じきに賊が戻ってくるかもしれん、早くここを離れよう」
灯火の明かりを頼りに、三人は手早く荷物をまとめると急いで客桟を離れた。
★ 凍てついた平原 ★
子の刻、かけた月が、凍てつく大地を照らす冬野を、三人は北に向かって馬をとばした。三里ほど行くと、先頭の敬徳は馬を止めた。馬の首を巡らし客桟の方を窺う。
「賊は、追ってこないようだな」
敬徳は、冬の星空を見上げると、北辰(北極星)を確認して指で示した。
「北に向かってゆっくりと行こう」
三人はかけ始めた月明りを頼りに、慎重に道を選びながら馬を進めた。夜明け前の痺れるような寒さが、披風を通して伝わってくる。かじかむ手に息を吹きかけたると暗がりに微かな白いものが浮かんで消える。
「この先の小屋で休もう」
敬徳は、すでに小屋の存在を知っていたのだろうか。三人は喬木の林に入って馬を繋いだ。
板葺きの鄙びた小屋が林に隠れるように立っていた。中に入ると、敬徳は手慣れた感じで薪を集め、中央の炉で火を焚いた。
「寒いだろう?こちらへ来て当たれ」
三人は焚火を囲んで座ると、手をかざした。炎の温かさが、じんわり手のひらに伝わってくる。
「子靖、お前と離れるべきじゃなかった。危険な思いをさせてしまった」
敬徳は、震える青蘭の肩に毛皮の襟のついた自分の披風を掛けた。
「敬徳、戻ってきてくれて・・ありがたい」
ほっとすると、返って賊の恐ろしさがひしひしと感じられ、なぜか身体が震えてきた。
「大丈夫か?子靖」
敬徳は、子靖の肩を思わず抱き寄せた。パチパチという枝のはじける音がして、小屋の中に暖かさがじんわりと広がっていく。暁までにはまだ間がある。火を囲んでいた晴児は、隣で寝息を立てている。
『こんな所で眠ってはいけない。何者かも分からない斉の男子のそばで・・・』
青蘭は、そう思いながらも、泥のような疲労に絡め取られて瞼が重くなり、肩を抱き寄せられていることにも気がつかなかった。
敬徳は、隣でうつらうつらしている子靖を見た。秀でた鼻梁に意志的な眉が美しい。長い睫が、焚火の灯りに深い影を作っている。わずかに開いた赤い唇が、女人のように魅惑的だ。
『南朝の貴公子の軟弱さは、斉でも知れ渡っている。しかし、男子に心を動かされるとは、この敬徳が何ということだ』
敬徳は拳を作ると、自分の頭をたたいた。
★ 王氏との縁談 ★
天保五年(紀元五五四年)西魏が江陵を陥落させて以来、淮水以南の地域は戦塵に包まれた。
西魏は江陵に傀儡王朝の後梁を立て、長江流域に確固たる地保を築いていた。いっぽう、北斉と梁の再興を願う遺臣たちは、長江をはさんで激しい戦闘を繰り広げたが、清河王高岳の尽力により六月には親和の会盟が成立した。
北斉は人質に取っていた簫淵明(天成帝)を送り込み、親北斉の勢力の拡大を図った。政治状況の安定を確信した王琳は、八月に本拠地である長沙に帰還した。
天成帝の即位を推進した王僧弁に対して、陳覇先は、密かに謀反を企て、北斉の来襲と偽って王僧弁を討った。
月が変わった十月、陳覇先は、その勢力下にあった晋安王簫方智(敬帝)を即位させ、王僧弁の勢力の一掃を図った。
北斉との和睦を捨て、対立する姿勢を鮮明とした梁に対して、北斉は大都督簫軌の率いる軍勢を長江の北岸に派遣した。それに対して梁では侯安郡率いる水軍が奇襲をおこない、数百の捕虜と馬・兵糧を奪った。この後、北斉と梁は、一時停戦する。このときの北斉に人質として差し出されたのが元帝の皇子である永嘉王簫荘であった。
梁を支配する陳覇先に全ての梁の遺臣が追随したわけではなかった。江寧令の陳嗣や黄門侍郎の曹郎など身分の高い遺臣は、寒門出身の陳覇先の下につくことを善とせず、抵抗したのだった。
梁の再興をもくろむ多くの遺臣の中で、最も輿望を集めていたのが、長沙に本拠を置く王琳であった。陳覇先に見切りを付けた王琳は、時には後梁に、時には北斉に近づきながら長沙で力を蓄えていたのだ。
三か月前、高敬徳は族伯父である段韶に呼び出された。段韶は婁皇太后の甥で、斉の重臣である。
「王琳将軍の娘との縁談の話が来ておる。・・・そなたは未婚だどうであろう」
段韶は、温厚な笑顔で敬徳に勧めた。
「王琳は、梁の中でも輿望を集めておる。娘との縁組みは、江南での勢力を一気に有利にできる」
士大夫の婚姻は、どのようなものでも政治的な思惑によって決まる、いわば政略結婚である。しかし、皇族である敬徳と梁の臣下との縁組みは、いつ何時敵対するか分からず抵抗を禁じ得ない。
「段叔父上、・・・私は、まだ父の喪中ゆえ相応しくないかと」
「なあに、直ぐに婚儀を挙げるわけではない。縁談だけでもいいのだ。南朝へ顔合わせに行ってこい。どうせ婚儀の頃は喪も明けておろう」
縁談前に、両者の顔合わせを行うのが最近の流行りであった。心に染まない容貌ゆえに破談になることもたまにはあったからだ。
「叔父上、もしその娘が気に入らなければ?」
「何を戯けたことを・・・気に入らなければ断っても差し支えない。・・南朝の政情を探ってくればよいのだ」
段韶は、眉を潜めて笑った。
「斉の遠征が成功しないのも、複雑な内情や民情を把握していないからだ。武将同士の関係だけで無く民情にも通じていなければ、長江流域を手にすることはできぬ」
段韶は、敬徳に顔合わせを名目に王琳の元に滞在して、その内情を探ることを命じたのだ。
「・・と、ここまでは、表向きのことだ。昨年、父上が亡くなって、そなたも辛い思いをした。毎日のように朝廷で高帰彦と顔を合わせるのも辛かろう。ここらで、鄴での職務を離れて、気晴らしをするのもよい」
段韶は、温柔な眼差しで敬徳を見遣った。
敬徳の父高岳は、高帰彦の誣告により殺されている。しかし無実の罪で父を死に追いやった高帰彦は、今でも朝廷で権勢を振るい大きな顔をしているのだ。毎日のように父の敵と顔を合わせなければならない辛さは、察するに余りある。
「お気遣いに感謝します。婚姻は分かりませんが、・・南朝の様子は必ず探ってきます」
敬徳は拱手をすると、段家を退出した。
王琳は、元帝の忠臣として斉でも知られた人物で、北朝の儒者や武人からも多くの輿望を集める武将である。王琳と誼を通じることは、武人として梁の旧臣を集めて一大勢力を作りつつある王琳を斉の与力とすることにつながるのである。
もちろん、王琳が斉の援軍を狙っての婚姻であることは、百も承知であった。
ところが、江陵に行ってみると王琳の令嬢は病を得て会えないという。病に伏せる令嬢との顔合わせが中止になると、縁談そのものも沙汰止みになってしまったのだ。
怒りを露わにし、病床の令嬢を見舞うと言いだしてみたが、本来の目的を考えれば破談は反って好都合だった。収穫は、王琳本人と対面できたことであった。王琳は、娘の病気を慇懃に謝罪すると、中原や江南の状況を忌憚なく話しあった。敬徳は、不信と裏切りが横行する斉の朝廷に比べて、仁愛と信義を重んじる王琳の人柄に大いに惹かれるものを感じたのだ。
王琳の令嬢との縁談は果たせなかったが、江北の政情を探るという目的は、十分果たすことができた。しかも、魯陽では無辜で魅力的な少年と知り合うことができた。
★ 霜冷の別れ ★
熾火は消え、その寒さで青蘭は目を覚ました。破れた蔀戸から朝日が小屋の中に差し込んでいる。目をこすりながら小屋の中を見回すと敬徳の姿がない。
『敬徳殿は、どこに行ったのだ』
青蘭は疲れた身体で立ち上がると、小屋の外に出た。
小屋の前の庭を見ると、朝日の中で長衣姿の敬徳が剣を振るっている。斉の武将は、武勇を本分とし、常に鍛錬を怠らないとか。
戸口に立ち、子靖は敬徳の稽古を眺めていた。寒さの中、敬徳の葡萄色の長衣から白い湯気が立っている。昨夜の剣術の冴えは、毎日の鍛錬によって培われたものであったのか。
剣を収めると敬徳は手巾で汗を拭いた。
敬徳は、戸口に立って自分を凝視している子靖の姿を、視界の端に捉えていた。昨夜、自分の腕の中で肩に頭をもたれて熟睡していた子靖。これ以上寄り添っていればその唇を奪ってしまいそうだった。
男の唇を求めるなんて・・・。心のもやもやを払いたくて、敬徳は夜明け前から外に出て剣を振るっていたのだ。
「起こしてしまったかな。はっはっは」
敬徳は、わざと乾いた笑い声を挙げた。青蘭は、首筋に汗をにじませた敬徳が眩しくて正視できなかった。
「昨日は、本当に命拾いをした。礼を言いたい。・・・なぜ、昨夜はわざわざ戻って来てくれたのだ」
見ず知らずの主従のために、何里も戻ってくれるとはあまりにも親切だ。
「以前に、あの客桟に寄ったことがあったのだ。その時の主人夫婦と昨日の男女が違っていた。そのことに、はたと気づいて客桟に戻ったのだ。もっと前に気づいていたら・・・」
最近知り合ったばかりの友のことを気遣って、戻ってくれた敬徳の気持ちがありがたかった。
「敬徳殿は、命の恩人です。礼を申します」
青蘭は、敬徳に頭を下げた。
敬徳は照れたように目を逸らすと、庭木に駈けていた外衣を纏い、身なりを整えた。
「子靖、そなたは、なぜ鄴で学問をやりたいのだ?」
「この乱れた世を変えられるのは、学問だ。学問で、・・世の中を変えたいのだ」
女子を捨てて、自分の生き方を探したいなどと正直に言うわけにはいかない。
「よいことだ」
敬徳は温柔な笑顔で頷くと、子靖の手を握った。鄴に着けば、現実にぶつかるにちがいない。この純粋な少年の大志を汚したくない。
「私は、ここから汝北に行く。・・・ここで 別れだ」
敬徳は、子靖の肩をあえて磊落に叩いて励ました。しんみりすれば、肩を抱きしめてしまいそうだ。
小屋の中から荷物を出した敬徳は、寂しそうな表情をかくしながら騎乗した。
子靖が、清澄な瞳で見上げている。
「鄴都についたら、・・・清河王府を訪ねるがよい」
困難に遭ったら、必ず訪ねてほしいと言えばよかった。何か物足りなさを感じながらも、長恭は愛馬の腹を強く蹴った。
敬徳の馬は霜に輝く地面を蹴ると、瞬く間に遠ざかっていった。
しばらく走ると、敬徳は小屋の方を振り向いた。小屋の側にまだ子靖が立っている姿が小さく見える。
不思議な男子だ。学問に通じ、梁の貴公子にしては剣術もそこそこ使えるようだ。女子のような顔をしているが、思ったより気骨がある。
『なぜ、昨夜は客桟へ戻ったのか。盗賊の心配?それは口実に過ぎない。あの精美な姿をもう一度見たいと思ったからではないか。あの男にしては細い肩を抱きたいと思ったからではないか。・・・いやそんなはずはない。子靖は男だ。男を抱きたいなどと・・・』
敬徳は、首を振るともう一度馬を巡らせ汝北に向かって馬を駆けさせた。
青蘭は、朝の陽光中に駆けていく敬徳を見送ると、幾ばくかの安堵と心細さを感じた。 これからは自分達の安全は、己で図らなければならない。一昨日、敬徳に出会って以来、その存在をどれほど頼りにしていたのかを、姿が見えなくなって初めて感じたのだった。
★ 鄴都への道筋 ★
朝日が昇るのを待って、青蘭たち主従は、北へ向かった。中川から洛陽へ向かう道筋には人馬の往来も多い。四日後、青蘭たちは無事洛陽に到着した。
洛陽は漢の都として栄え、漢末には董卓の暴政により荒廃した。しかし北魏の遷都以来、復興を果たし、この頃には斉の副都として数十万人の人口を誇る国際都市であった。
青蘭たちは、永橋を通って洛水を渡った。右手に景林寺を見て宣陽門を入ると、広い銅駝街がまっすぐ北へ延び、宮城の閻閤門まで続いている。青蘭は大市の周辺で客桟を取った。
「洛陽は、多くの英雄が覇権を争ってきた中原の中心だ。洛陽を得たものが、中原の覇者となるのだ」
青蘭は二階の窓から、街並みを見下ろした。
「昔の建康だって、これほどの数の寺は建っていなかったでしょうね」
晴児が、久しぶりに明るい声で言った。
「明日は、虎牢まで行き黄河を下る船で黎陽まで行くことにしよう」
『敬徳は、どうしているのだろう。鄴へ着いたら清河王府を訪ねるように言っていたが、・・・高氏は皇族の姓、高敬徳は清河王府の配下なのであろうか』
洛陽の宿でひと心地付くと、急に清河王府という言葉が心に掛かって来た。
『あの青年が清河王の縁者であったなら、命の恩人であっても会ってはならない。どこからか、自分が破談にした本人だと知れたらこまる』
次の朝早く、青蘭たちは洛陽の客舎を出た。虎牢で数日船を待った。馬と一緒に船に乗ると、二日後には雪の黎陽に至った。
黎陽の船着き場の近くの飯屋で朝餉を摂る。青蘭と晴児の主従は、小雪の中を馬で鄴に向かった。
黄河の北岸にある黎陽は建康に比べると、北辺の地である。郊外に出ると、容赦ない風雪が二人を襲ってきた。白湯川を渡り、濯水を西に見ながら北へ進む。やがて、視界が開けると雪雲を被った大行山脈が西に遠望できる所まで来た。大行山脈から吹き下ろす風雪は、凍り付くようである。
かじかんだ手で手綱を握る青蘭は、寒気を感じて披風の衿を合わせた。
疲労の極に達した身体で馬に乗り、雪原を進むと、鄴城の城壁が見えてきた。魏の曹操によって築かれた城壁は、幅こそ洛陽に劣るが高さ堅牢さでは随一である。漢末、五胡十六国時代を耐え抜いた城壁は、黄褐色に雪の白さを加えて神々しいほどに高くそそり立って見えた。
苦難の道を、鄴都にたどり着いた王青蘭であったが、疲労困憊の青蘭は、病に伏せってしまう。病の癒えた青蘭は、元宵節の祭りで高敬徳とその恋人らしい麗人を見かけるのだった。




