表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/8

文叔への恋心

文叔が男だと思っている長恭は、その恋心に苦しんでいる。

      ★    文叔の告白     ★     


 顔氏邸の後苑では、杏の白い花が咲き、連翹の黄色い花が四阿に明るさを添えている。

 長恭と青蘭は四阿の卓に向かって予習に取り組んでいた。


 長恭は『孫子』の書冊から目を上げると、前に座る文叔に笑みを向けた。差し込んでくる春の陽光の中で、文叔の睫が深い影を作っている。

「『小人の学は、耳より入れば口より出づ』とあるが、荀子の言いたことは、何なんだろう」

 青蘭は、勧学篇を開きながら肘をつくと、小首をかしげた。

 慌てて目を伏せた長恭は、拡げている『孫子』の書冊から目を離すと、前を見た。

「文叔よ。『耳より入れば』とは学問全般を言うが、『口より出づ』とは、どんな場面を言うのだと思う?」

 青蘭は、顎に手を当ててしばし考えた。

「昔の、曲水宴の清談だろうか?」

士大夫は、人物評をするときにも、知識を競うのである。

「確かに曲水の宴のときも、『文選』の教養は必要だ。そして、国政を論じるときも、学問は欠くことができない。ここで荀子が言っているのは、志無く自己の栄達のために学問を利用するなということだ」

「己の利益のために、学問を利用してはならぬと・・・」

 青蘭は、清澄な瞳を見上げた。師兄はいつも分かりやすい形で、青蘭を導いてくれる。

「かつて、荀子の門弟である韓非子は、書を表し、李斯は、始皇帝に仕えた。つまり、行動に表したのだ」

 長恭は、持参した水筒を取り出すと、青蘭に勧めた。

「その後、二人はどうなったか知っているか。・・・韓非子は、秦王にその才を見込まれたが、李斯の策にはまって殺された。そして、李斯は、・・・甘言を弄して始皇帝に仕え詐術を用いて秦を二代で滅ぼしたのだ」

 長恭は、虚しさを噛みしめるように美しい唇を結んだ。

「李斯は、なぜそうなったのだと思う?」

 朝堂の政に疎い青蘭にとっては、予想も付かない。

「それは、権力のせいだ。人は権力を握ると、初心を忘れ変わってしまうのだ」

 長恭は苦虫を噛んだように吐き捨てた。長恭は、初心を忘れ、人間性が変わってしまう数多の廷臣を目の当たりにしてきたのだ。


「見事に生きるのは、難しいな」

 長恭は、かみしめるようにつぶやいた。

 そして、さりげなく横にいる青蘭の肩に手を置いた。それは、親しい兄弟弟子としての自然な仕草だ。

「春分には、西門豹廟に行ってみないか?そして、廟の前で義兄弟の契りをしたいのだ」

 義兄弟という言葉に、青蘭は耳を疑った。情けない自分に失望して、義兄弟の約束を忘れてと思っていたのだ。

 男子の長恭と女子の自分が、神の前で誓って義兄弟になるなんてことが可能だろうか。

「師兄、義兄弟なんて、だめだ」

 青蘭はたまらず頭を激しく振った。

「お前と一生離れたくない。だから、義兄弟の契りを結びたい」

長恭は、必死に青蘭の手を握った。ここで逃したら、きっと一生後悔する。

 青蘭は、唇を噛んだ。長恭と義兄弟の誓いをすることは、今生では師兄との婚儀が望めない自分にとって、夢のようなことだ。

 しかし、梁の将軍である王琳の子供との義兄弟の誓いは、斉の皇族である長恭にとって災いにはならないのだろうか。


「師兄、・・・あの、言わなければならないことが・・・」

自分の出自が分かれば、師兄との友情は終わるかも知れない。

「師兄、黙っていたが、・・・私の父は、・・・梁の王琳なのだ。皇族の義弟として相応しいか・・・」

「知っている」

長恭は、文叔の言葉を遮った。

「梁の王将軍の子息だからと言って、何だというのだ。国や身分など、私たちの仲で何の関係もないだろう?梁と斉の関係は敵対しているわけではない。気にするな」

長恭は、安心させるように頷いて青蘭を見た。

「私は皇族だが、無位無官で何の力も無い。そんな私が、王将軍の息子と義兄弟になっても問題ないだろう?・・・しかし、敬徳は嗣部尚書の高官だ。お父上のことは敬徳には話さない方がいい」


かつて、北斉と北周、後梁と王琳の梁、そして新興の陳の関係は麻のごとく入り乱れていた。しかし、陳覇先が建てた陳国が力を付けてきたため、梁と斉は互いに特使を送りあう関係になっていた。

 しかし、文叔が王琳将軍の息子であると不用意に明かせば、政治状況の変化によっては命の危険にさらされる恐れがあるのだ。

「義弟のことは、私が守る」

長恭は文叔の肩に手を置くと、その瞳を覗き込んだ。


      ★     義兄弟の誓い    ★


西門豹は、戦国時代の魏の政治家で、孔子の孫弟子でもあった。

 魏の文侯に仕えた西門豹は、鄴の令(長官)に任命された。そのころの鄴は、近くに漳水が流れるも、漳水の水が流れ込まず乾燥した荒野であった。

 農民は迷信に支配され、困窮した生活を送っていた。干魃に苦しんだ鄴の民は、巫女に多くの財物を捧げ、人身御供の少女を漳水に沈めることさえあったという。

 赴任してきた西門豹は、迷信で肥え太る巫女たちを駆逐し、人々の反対の中、黄河や漳水から水を引く灌漑の建設を推し進めた。これにより鄴の農業は大きく発展し魏は大国への道を進んだという。

ほどなく人の妬みを買った西門豹は失脚するが、後世の人々は業績を評価し、各地には大小の西門豹廟が建てられ、南北朝時代の当時でも、厚い信仰を集めていた。

ちなみに、西門豹を崇拝していた曹操は、西門豹廟の西に自分の墓陵を建設するように遺言を残したという。


漳水沿いの灌木の林を過ぎると、草叢の中に小さい石の祠が見えた。

「あれが、西門豹廟だ」

 長恭と青嵐は馬車を木の傍で待たせると、草叢の中の道を進んだ。思ったより小さな祠である。

「西門豹は、孔子の孫弟子で私財を投じて灌漑事業を行い、鄴の民を救った。学問を行動に生かした素晴らしい先達だ」

 学んだことを実際の政治の中で実践し民を救った西門豹は、長恭にとって理想の政治家に違いない。

「私も学問を生かして、民のために尽くせるような人間になりたい」

文叔は、弟弟子の眼差しで長恭を見上げた。

「ああ、世のためになってこそ、学問の本分だ」

 荀子は、学問を単なる机上のものとせず、実戦することが重要であると説いている。

 長恭と共に大志が実現できれば、どれほど幸せなことだろう。


 廟の正面には、民が供えたのであろう心づくしの物が竹篭に乗せて供えられてある。

長恭は持参した献げ物を廟の前に置くと、赤い毛氈を前に敷いた。簡単な祭礼の場だ。

 

 長恭が左に、そして隣には青嵐が座った。

身分も国も違う長恭であったが、いつまでも一緒にいたいという願いは、青蘭も同じであった。夫婦として結ばれることが無理なら、せめて義兄弟としての契りを結びたい。

 西門豹への礼拝が終わると、二人は右手を挙げた。

「私、高長恭は、王文叔と義兄弟の契りを結びます。違う時違う所に生まれても、志を同じくし、同じ時同じ所で死すことを望みます」

長恭は青蘭に振り向くと、早くと長恭の唇が促した。

「私、王文叔は、高長恭と義兄弟の契りを結びます。違う時違う所に生まれても、志を同じくし、同じ時同じ所で死すことを望みます」

青嵐は右手を挙げると、長恭の後に続いた。二人がそろって三拝する。

 青蘭の目から自然と涙がにじんだ。


 女子なのに、とうとう義兄弟になってしまったのだ。

 身分や立場を越えた義兄弟の契りは、精神的なものだけにむしろ婚儀よりも重い。これは師兄が自分を男としてしか見ていないことの現れだ。これでいい。そう思いながらも、なぜ涙が出てくるのだった。


青嵐は立ち上がると袖で隠して涙を拭った。

「文叔、一緒に昼餉を取ろう」

 長恭は御者の所から食盒を受け取ると、漳水を望む岩の上に出た。二人は昼餉の料理を毛氈の上に広げた。

「本当なら、酒楼を貸し切って宴を催すのが普通だが、・・・宣訓宮の御膳房に、そなたの好きな物を作らせた。食べてくれ」

長恭は、青蘭の皿に羊の煮込みを取り分けた。

「今日から我々は義兄弟だ。何か困ったことがあったら言ってくれ」

 長恭は精美な微笑みを青蘭に向けた。

 今日の師兄は、以前にも増して優しい。ふっと恋心に傾こうとする自分を、青蘭はやっとのところでこらえた。 

「義兄・・・いつまでも師兄に頼ってはいられない。学問も剣術も義兄と肩を並べるようになる」

青蘭は男らしさを示すように、肩をそびやかして笑顔を作った。

「文叔、お前は、まだ年若だ。それほど背伸びをすることはない」

 我々は、儀兄弟だ。

 長恭は、冗談を装って文叔の肩を抱き寄せた。

互いの許されぬ恋心を、義兄弟になることで繋いでいこうとする長恭と青蘭は、共に学問をする中で友情を深めていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ