第12話 父への決着
――父の執務室の前。
父は、数時間前に帰ってきてからずっと閉じこもっていた。
そろそろ落ち着いてきたらしい。
扉の向こうで激しく暴れまわる音が止み、ようやく静かになった。
「行きましょうか?」
「ええ。……覚悟はできているわ。行きましょう」
ポケットの中で、刺繍入りのハンカチを握り込む。
昔は、これが心の支えだった。
狭い世界で生きてきた私にとって、姉が残したものだけが手元に残ったと思っていた。
でも違った。
祖父は、色々なものを遺してくれていた。
人の縁も、祖父の思想も。
大切なものは、最初からずっとここにあったのだ。
しかし扉をノックする音のリズムが、わずかに崩れた。
一度深呼吸をして、部屋の中へと入る。
目の前には、窓際の椅子に座った父の姿があった。
暴れたせいか。
それとも、精神的な疲れのせいなのか。
先ほどよりも少し小さく見えた。
「こちらの売り上げをご覧下さい」
私は父の前に、万年筆の売り上げを書き付けた帳簿を開いた。
「先見の明がある貴族や商会からは、既に投資も受けています。これを男爵家主導に移すためには、新しい風が必要だと思いませんか」
「……それは」
一方的に突きつけるだけでは意味がない。
父自身が現状を理解し、決断できるように話を進める。
「お父様が手を付けなかった鉄鉱山と工房です。ちなみに、私が主導しているのでお父様には権限がございません」
じわじわと理解が及ぶように。
自分で納得できる時間を与えられるように、ゆっくりと迫っていく。
「――ご決断を」
私は、一枚の書類を机の上に乗せた。
当主を譲る旨が記載され、宰相閣下の承認欄には既に署名がある。
その上に、そっと、万年筆を置く。
「サインをお願いします」
父の指が、わずかに震え、そっと万年筆を手に取った。
ペン先が紙に触れ、ゆっくりとインクが染みる。
そして、さらさらと流れる音が続いた。
「……書きやすいな」
「ええ。一つとして無駄なものなんてなかったんですよ。お父様。これが、その証です」
サインを書き終えた父が、その書類を破かないうちにさっと手元に寄せる。
「……これから、俺はどうなる?」
私は、わずかに考えるふりをした。
「どうしましょうか。人を商品としてしか見ていない人間ですし……」
「………。」
父は、椅子に体を預け目を閉じていた。
中央に入り浸り、洒落た服を身に着け――。
しかし、他には何も持たない人になってしまった。
「大丈夫ですよ。最低限のお金も使用人も出します。……もう、無駄使いはできなくなりますが」
幼い頃のこと、祖父の顔、さらには嫁いだ姉を思い出した。
それを押しやり、足を前へ進める。
父にも時間が必要だろう。
もう少しだけ、あの椅子に座っていてもいい。
最後に父の姿を一瞥して、執務室から出る。
「お疲れ様でした」
部屋の前で待っていたらしく、ノアが私を労った。
ノアに視線を向ける。
「……ここからが本番ね。頼りにしているわ」
「どこまでもお供すると申し上げました。どうぞこき使ってください。マリエッタ様」
そこには頼もしく頷く、見慣れた相棒の姿があった。
◇◇◇
一年後。
マリエッタは商談の為に夜会に参加していた。
彼女の周囲に人集りができ、順番を待つ貴族や商人の輪ができている。
もう彼女を侮るものはいなくなっていた。
「マリエッタ」
そんなマリエッタに、輪の外側から声を掛ける人物がいた。
たった今、彼女と話していた男性が眉をひそめる。
「マリエッタ、僕だよ」
二度も呼びかけられ、『鋼鉄の女』と陰で呼ばれているマリエッタが、ゆっくりと振り返った。
「挨拶もないなんて不躾ですね。どちら様でしょうか?」
「僕だ、サミュエルだよ!幼馴染の!」
十九歳のあの日と変わらないサミュエルの声だった。
しかし、その冷たい声に彼の足が止まる。
かつて、自分に助けを求めた少女の面影はもうどこにもない。
知らず、サミュエルの喉がなった。
マリエッタが手元の扇をパチリと閉じる。
ただそれだけの仕草にも、気軽に声を掛けることさえ躊躇わせる風格があった。
「あら、サミュエルだったのね。万年筆の契約のお話かしら。――貴族にとっては、信頼と契約が一番ですものね」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
もし物語を楽しんでいただけましたら、
評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




