第4話
ぶっきらぼうにそう言い放つ青年は、一言で言うと美男子だった。髪形は長めのウルフカットで、しっかりと黒い眉があり、肌は美咲に負けず劣らずの白さだった。しかし何故かスカートをはぶっきらぼうにそう言い放つ青年は、一言で言うと美男子だった。髪形は長めのウルフカットで、しっかりと黒い眉があり、肌は美咲に負けず劣らずの白さだった。しかし何故かスカートをはいている。
美咲は彼を一目見て、校庭を歩いていた男性だと確信した。しかし何故あの彼がこの家にいるのだろう。名前も分からない。
「あの、そうじゃなくて、あなたは誰ですか? というか何でスカートはいてるの?」
美咲は不審者かもしれない目の前の男に、勇気を出して尋ねた。
「これはスカートじゃない、キルトだ。最近スコットランドの文化に興味があってな、自分でも着てみることにしたのさ」
「はっはぁ」
美咲は自分の事を棚にあげつつ、目の前の男性を危険人物と判断した。・
「キミ、親父さんから聞いてないの? 俺の名前は今井大志、今日から親父共々この家に居候になる男だよ」
野菜を刻みながらそう答える大志に、美咲は愕然とした。
今井大志。
その名前には聞き覚えがある。
確か美咲が小学四年生の頃に好きになった男の子と同じ名前だ。
しかもよく見るとその彼に面影がある。
しかし大志は美咲との恋仲になる前に親の都合で東京に転校してしまった。
なんであの今井大志がこの家に住むことになるの?
突然の出来事に軽くパニック状態になった美咲は頭を右手で擦り、台所のテーブルの椅子に腰掛けた。
「おい、スラックス姿の男の子。ちょっと味を見てくれよ」
「男の子って何よ、男って」
「へ? お前女なの?」
そう言って、青年は美咲に近づいてくると、胸と陰部をまさぐり始めたのである。これには堪らず美咲も声を上げ、青年の頬を平手打ちした。
「いてて、ホントに女だ。」
「いきなり何するのよ、変態っ」
「しょうがないだろ、お前の名前を知らないんだから。それに何で女子なのに男物の制服着てるんだ?」
「私の名前は指野美咲、女子高生ですっそれにこれからはジェンダーレスの時代なのよっ」
語気を強めて美咲は大志に言い放った。どうやら向こうは美咲の事を覚えていない様子だった。
無理も無い。
小学校の頃の美咲は内公的で社交性に欠ける女生徒だった。
クラスでも目立たない存在だったため、クラスのヒーロー的なポジションの大志をいつも遠くから見ているだけだった。
しかし、そんな美咲に、ある日大志が声をかけてきたのである。
「お前って、男装とかしたらカッコよくなりそうだな」
美咲は初恋相手にそう言われ、以来男装に目覚めたのである。また、今井がよく海の生物の話を友達としていたことから海洋生物に興味を持ち、アノマロカリスに行き着いたのであった、
「そっか、じゃあ俺と同じ年だな。今日から暫く宜しくな。」
「宜しくな! じゃない。早く台所から出て行きなさいよっ」
「今ポトフを作ってるんだ。美味いぞ」
「人の話を聞いてってば」
「聞いてるよ、今はポトフ作りに夢中で手が離せないんだ、話なら後にしてくれ」
「もうっ今日はコロッケを作る予定だったのに~」
「そうか、だからジャガイモが沢山あったのか。」
「もうっいい加減に出て行って」
「だから手が離せないって言ってるだろ。お前もしつこいな。そんなんじゃせっかくの綺麗な顔が台無しだぞ」
綺麗な顔。
そう言われた美咲は言葉を詰まらせてしまった。
自分の事をそんな風に言ってくれる男性に彼女は出会ったことが無いからだ。
実際美咲は顔立ちは非常に良く整っていた。卵顔で顔も小さく、目、鼻、口が黄金比になっている。眼鏡をかけていること、普段学校ではメイクをしていないために見過ごされがちだが、美咲は藤堂に負けず劣らずのずば抜けた美人であった。
そんな彼女の魅力に一瞬振り向いただけで気が付いた大志の洞察力は刑事の父親譲りのそれであった。
「きっ綺麗な顔って、私のこと」
「ああ、そうだよ。もっと髪型をおしゃれにしてきっちりメイクして男装を止めれば、立派な美少女になると思うぜ。」
「そっそんなこと、唐突に言われても全然うれしく無いんだから、やめてよね」
「何なら俺がお前を変えてやろうか」
「え、どういうこと?」
「俺がお前を美人にしてやるって言ったの。ポトフもあとは煮込むだけだし、その時間で変えてやるよ」
大志は振り返ると、美咲に向かって一直線で歩いてきて、顔を近づけてきた。美咲は突然の状況に心の中は狼狽していた。
「この部屋じゃなんだから、鏡のある部屋へ行こうぜ。案内してくれよ」
「ああ、うん」
美咲は綺麗な顔と言われたのがよほど嬉しかったのか、いつの間にか大志の従順な犬のように彼の言う事を聞くようになっていた。
言われるがまま、美咲は鏡のある和室に今井を案内し、彼にその身を委ねた。
「しっかし、幾ら北海道が田舎だからって、その制服姿はないだろう。女なんだから少しはお洒落に気を使えよ」
「余計なお世話ですっ」
大志は美咲の髪に触れた。一瞬彼女はゾクッとしたが、すぐに彼の手を受け入れた。
大志は美咲のカツラを取り、野暮ったい胸元に纏めた髪のゴムを解くと、トップの高いポニーテールに変更させた。そして残した両方の前髪を編み込み、後ろへ流した。そして前髪を出し、簡単なメイクを施した。
ただそれだけの変更が、美咲を美少女に変更させたのである。
「お前は顔の形が良いから、顔の輪郭が出る髪形にした方が良い」
「おっお前は止めて」
「じゃあなんて呼べばいいんだ」
「みっ美咲で」
美咲は照れくさそうに、やや小声でそう言った。
「わかったよ美咲。じゃあ俺のことは大志って呼べよな」
「わかった、大志」
家に帰ってきてからの突然の展開の激しさに、美咲の心は動転しきっていた。
今井大志という一人の男が自分の目の前に突然現れて、そして自分の見た目を変えてくれる。
そんなドラマみたいな出来事が自分の身に起こるとは美咲は考えていなかったので驚いていた。
彼女はまるで少女漫画の主人公になった気分に浸っていた。
「よし、これで美人になったぞ。残りのメイクと服装選びは自分でやれよ」
「うっうん。わかった」
「じゃあ俺は夕飯作りに戻るから、お前は部屋で勉強でもしていろ、出来たら呼ぶからな」
「はっはい」
大志の一方的な行動の数々に驚きつつ、美咲は生まれ変わった自分の姿を見てほくそ笑んだ。
明日コンタクトレンズ買ってこよう。そうしたら私は生まれ変わることが出来る。
美咲の心は喜びの歌で溢れていた。
さっそく自分でメイクを始め、生まれ変わった自分の美しさに酔いしれ、自分がクラスで孤立している存在であることをすっかり忘れてしまっていた。
この髪型とメイクをして学校に行ったら、皆はどういう反応をするだろう。そんなことを考えながら、美咲は暫く鏡の中の自分に酔いしれていた。
そんな彼女を現実世界に引き戻したのは、ただいま、という父親の帰宅の挨拶だった。
美咲は勢いよく立ち上がり、玄関へ駆け込んだ。
生まれ変わった娘の姿に彼女の父、指野猛は一瞬自分の娘だと気づかず、どちら様ですか、と問いかけた。
「あなたの娘です」
美咲がそう言うのと同時にドアが開き、恰幅の良い男性が家に入ってきた。精悍な顔立ちに凛凛しい眉毛をしたその男性は、開口一番、美咲の美しさを褒め称えた。
「これは綺麗なお嬢さんだね。猛君、良い娘さんをお持ちじゃないか」
「いやあそれほどでもないですよ、いつもはむさ苦しい髪型をしているのに、美咲の奴、今日に限って色気づいちゃって」
猛は舌先を転がしてうねるように実の娘を貶めてみせた。当然の如く美咲は怒り、父親を捕まえると、一体どういうことなのかと詰問した。
「ここで話すのもなんだから、飯でも食いながらにしよう」
「ポトフできてますよ」
大志の一言に、猛は弾んだような笑みを見せる。それを見た美咲は呆れ果て、もはや怒る気力をも無くしてしまった。玄関の様子を覗いていた美咲の妹で小学生の許斐は何だか賑やかになりそうだと喜んでいた。
結局、今日の夕食は大志が作った野菜たっぷりのポトフになった。
「沢山作ったから、遠慮せずにガンガン食べてください」
大志の一言に猛は感激し、ポトフを腹にかきこんだ。妹の許斐も特に警戒することも無くポトフに口を付けた。
だが美咲だけはポトフに口をつけようとせず、父親が事情を話し始めるのをじっと待っていた。
「いやあこれは美味い。料理はどこでならったんだい」
「我流ですよ。ウチは母親がいないし、父親は帰りが遅いので、自然と料理をするようになって覚えてしまったんです」
「そうかそうか。料理ならウチも美咲も上手なんだぞ。な、美咲」
猛のフリに美咲は咳払いをして答えた。彼女の負の感情を察した猛は、おもむろに事情を話し始めた。
「そういえば美咲達にはまだ話していなかったな。実は今日から今井さん親子がウチで暮らすことになったんだ。今井さんは刑事をやっていて北海道に転勤になったんだが、住むところを探すのに難儀していてね。ならウチに暮らさないかと私が提案したんだよ。ウチは家も広いし部屋も沢山あるからね。というわけで美咲、許斐、お前達も大志君と仲良くするようにな」
父、猛の実に一方的な権力の行使に普段は素直な美咲は腹を立て、沈黙を貫き通した。
「おじちゃんたち、よろしくね」
美咲とは正反対に素直な許斐はさっそく二人を受け入れた。美咲は隣の席の許斐の手を掴み、首を横に振った。
「なんだ美咲、楽しくないのか? 人が多い方が楽しいだろ」
猛の言葉に、美咲は即反発した。
「そういう問題じゃないでしょ。年頃の娘のいる家に男二人も同居させる親なんて、最低だと思うんですけどっ」
「今井君たちは紳士だよ。お前を襲ったりなんてしないさ。まあ自由恋愛なら好きにすると良い。大志君はイケメンだからさぞかしモテるだろうね」
「それほどでもありますけどね」
大志の軽口が、美咲の怒りに火をつけたが、自分を変えてくれた男性でもあるので必死にその激情を押さえ込んだ。
「ということだから宜しく頼むよ、美咲、許斐」
猛の問いかけに許斐は素直に応じたが、美咲は答えを渋った。
「私は納得できない」
「おいおい、美咲」
「お父さんはお人よし過ぎるっそんなんだからお母さんにだって愛想つかされたんじゃないっ」
美咲は地雷を踏んだ。
言った後にそれに気づき、猛の顔を覗き込んだ。
落ち込んだ調子で目線を下に落とす猛を見て、美咲の心は罪悪感で満たされた。
「ごめんなさい。少し言い過ぎた」
「いいんだ。本当のことだから。確かに父さんはお人よしかもしれないな、あはは」
乾いた笑いで猛は必死に場の空気を和まそうとしたが、室内は不気味なほどに静まりかえった。
「おいおい、穏やかじゃないな。猛君が奥さんに逃げられたのは聞いていたが、それは猛君だけの問題では無いだろう。」
「そうそう、不倫する方が悪いんですよ」
今井親子が必死にフォローをする。そのフォローがまた猛の心の傷口をえぐった。
「何であいつは俺達を見限ったんだろうな」
誰に問いかけるでもなくそう呟く猛に、美咲は言葉を詰まらせた。
美咲の母親は彼女が中学二年生の時に牧場の従業員と不倫をして家を出て行った。その後離婚が成立し、親権は猛が持つことになった。美咲の母親は妻でいるよりも女として生きる道を選んだのである。
猛は実の妻に裏切られたにも関わらず、愛した女を責めることはしなかった。全ては自分の責任だと思い込み、腹に抱えて生きていこうと心に決めていた。
一方、美咲は自分勝手に家を飛び出した母親を恨んでいた。
元々家事もまともにせず、牧場の手伝いも気が向いた時にしかしなかった母親の照子に美咲が好意を持つことはなかった。何か嫌なことがあるとヒステリックに美咲に当り散らし、妹の許斐を溺愛していた。
美咲はそんな母親を愛せず、甲斐性のない父親に不満を持ちながら成長していった。そのためか、綺麗な心のどこかにうっすらと影が出来た女性に育ってしまった。
自分でも気づいている内なる靄の存在に、美咲は向き合うたびに苦悩していた。
「はは、なんか変な空気になってしまったね、申し訳ない。改めて自己紹介しようか。」
重たくなった場の空気を和ませようと、今井の父は行動を起こした。
「私は今井哲夫。刑事だ。東京で仕事をしてたんだが、この度また北海道に転勤になってね。家を探していたんだが、キミのお父さんに相談したら住まわせてもらえると言われたんで好意に甘えることにしたんだよ。しかし猛君にこんな美しいお嬢さん達がいるとは聞いていなかったから驚いたよ。いや、全く本当に猛君は幸せ者だね」
「いや、それほどでも。美咲の奴、今日になって突然色気づいちゃって。いつもはもっと男っぽい髪型をしているんだよ」
「そうなのか」
哲夫の問いかけに、美咲は笑顔で応じた。
「さっき、大志君に髪型を変えてもらったんですよ。こっちの方が似合うって言われて」
「そうだったのか、大志、お前も隅に置けない奴だな」
「俺は単に美しい物を美しくしただけだよ」
「あら、大志君。私のことを美しいだなんて、どうしてそう思うわけ?」
「東京で散々女を見てきたからな。良い女は直ぐに分かる。女を見る目だけは自信があるんだ。許斐ちゃんも将来は美人になるぞ」
「ホント、嬉しい」
「ははは、大志は本当に口が上手いな」
「それほどでもあるかな、はは」
今井親子の連携プレイで凍り付いていた場の空気は少しだけ暖かくなった。
自分の女性としての容姿を褒められたことが無い美咲は、今日自分に起こった変化に対応しきれず、イマイチ喜べずにいた。
本当に私は美人になったの?
髪型を変えただけなのに?
私は元々美人だったの?
嘘よっ。
小学生のときも、中学生のときも、誰も男の人は私に声を掛けてくれなかった。
私が美人なんて、そんなことあるわけない。
でも目の前の男二人は私のことを美人と言ってくれる。
本当に、私は美人になったの?
美咲は内なる自分との対話に終始し、ポトフにほとんど口をつけずにいた。
「おい、お前。せっかく作ったんだからもっと食べてくれよ」
大志の自分に対するお前呼びに、美咲は過剰に反応した。
「お前は止めてよ」
「わかったよ、美咲。ポトフ、自信作なんだ。食べてみてくれよ」
大志の言われるがまま、美咲はポトフに口を付けた。
暖かいスープに柔らかい野菜の数々の食感が微妙に入り混じり、香ばしさすら感じさせた。
一言で言えば上手に出来たポトフだった。
ジャガイモも芯まで火が通っており、ホクホクとしていて美味しい。
キャベツも柔らかく、まるでゼリーのようにすらすらと口の中に入ってくる。
とても食感のよいポトフだった。
「美味しい」
「な、だろ」
「うん」
美咲はこの日、初めて心の底から笑みを浮かべた。
食事を済ませた美咲は後片付けを終わらせて、屋外の見える縁側に座った。
美咲は最近いつもこの縁側に座っている。 北海道の心地よい風が美咲の荒んだ心を癒してくれるからだ。
「そんなところで何やってるの」
美咲の癒しの場に不釣合いな大志がやってきた。両肩にタオルをかけ、タンクトップ姿である。どうやらお風呂に入ったらしい。タンクトップ越しからでも鍛え抜かれた体であることが良く分かる。
「お風呂だぜ、入れよ」
「後で」
「あっそう」
大志はごく自然に美咲の隣に腰掛けた。
なんで貴方が隣に座るの?
と聞くのも疲れるので、美咲は何も言わなかった。ただ流れてくる心地よい風が美咲の心に潤いを取り戻してくれた。
明日も学校か。
亜美奈とは別クラスだし、行きたくないな。
明日も学校に行って藤堂の苛めを目撃してしまうのかと思うと、美咲の心はささくれが出来てしまう。
しかし、自分は困難からは逃げたくない。
「それにしてもお前って酷い女だよな」
唐突にそう話し始める今井に、美咲は動転した。
「それ、どういう意味?」
「今日見ちまったんだよ、お前の学校で。苛めの現場を」
今井は美咲の学校に編入するための手続きで学校に来ていたのである。
そこで彼は美咲が苛めを受けている井上の姿を遠巻きに見ている姿を目撃していたのだ。
「あっあれは、その」
「ったく高校生にもなって苛めかよ。この学校は荒んでるな」
「そうだね。私も助けようと思ったけど、傍観者になってしまったし・・・」
「傍観者も苛めに関わってると、俺は思うけどな」
「私だって何とかしようとしたの。でも私と友達ではどうすることも出来ない。相手が巨大すぎるっならあなたが助けてあげればいいじゃない」
「ああ、そうするつもりだ。」
そう言い切る大志の眼差しは正義感で溢れていた。
美咲は家では気丈に明るく振舞うことに決めていた。そのため家族も従業員も美咲が学校で苦労している等と考える者は一人もいなかった。
「俺も明日からお前の学校に行くんだよ。そこでケリをつけてやる」
「なんですって」
美咲は立ち上がり、大志のタンクトップを鷲づかみにした。
「おい、美咲、苦しいって」
転校生が来るという噂は聞いていたが、まさかそれがよりにもよって今井大志だなんて。
「おい、苦しいから手を離してくれよ」
美咲は言われるがまま手を離した。
「へへ、明日から宜しくな。」
「最悪」
「そんなこと言うなよ。学年には男子は俺だけになるらしいな。ハーレムだぜ」
「地獄を味わえばいいよ」
「女の園のクラスに男が一人か、燃えるシュチュエーションだな。どの子にしようかな」
「どの子にしようって?」
「彼女だよ、彼女。当然学校に行けば可愛い女の子沢山いるだろ、俺は選ぶ権利があるわけだ。そうしたら体一つでは足りないな」
改めて大志の女癖の悪さに美咲は辟易していた。
「ところで、あなた、小学校で私と一緒だったの覚えてる?」
「そうだっけ。ごめん、お前のことは記憶にないな」
「そう、まあ私はあの頃は漫画とアニメに夢中で暗かったから、あなたの眼中に無くても仕方がないよね」
「嘘だよ、覚えてるよ。漫画好きで、三国志とか、はだしのゲンを読んでいたよな」
自分のことを覚えていてくれた。
それは美咲にとってとても喜ばしいことだった。
ちゃんと彼の視界に私は入っていたんだ。
それが美咲の心を緩く弾ませた。
美咲は話題を変えるため、大志の母親のことを尋ねた。
「死んじまった。俺が五歳のときにな」
「そう、ごめんなさい」
「気にするな。もうずっと昔の話だし。母ちゃんのことは容姿以外記憶に残って無いんだよ。でも父ちゃんがいうには俺は母親に似たらしいぜ。こんなイケメンに産んでくれて感謝してるよ」
「自分で自分のことをイケメンとかいう?」
「ははは、事実だからな。今は彼女絶賛募集中だぜ」
そう言うと、大志は朗らかに笑ってみせた。美咲はため息を吐き、そして大志の豪放磊落さを受け入れる努力をしようと心に誓った。
「美咲の母ちゃんは元気にしてるのかな」
それは美咲にとってはとてもデリケートな質問だった。どう答えたらいいのか分からず、美咲はしばし沈黙した。
「どうした?」
「ん? いや、知らない。連絡とって無いし、元気にしてるんじゃない。他の男と」
「しかし男作って駆け落ちとは、お前の母ちゃんは酷いな。ま、ある意味女として生きる道を選択したのだから、堂々としてるとも言うべきか」
「あんな女、死ねばいいのよっ」
美咲は自分を愛してくれず、不倫して一方的に家を出た母を強く恨んでいた。おかげで家は大荒れになり、父親の猛も暫くは寡黙になってしまうほどのショックを受けていた。
「何故美咲の母親は不倫したんだろうな」
「お父さんがああいう能天気で、お人よしな性格だから、愛想つかされたんだと思う」
「そうかな。牧場の仕事が嫌で逃げ出したのかもな」
「確かに牧場の仕事は大変。女でなんてとても居られない。でもそんなときにお母さんを女として見てくれた従業員がいて、不倫したんじゃないの」
美咲にとって母の不倫と駆け落ちは思春期の心の深い傷になっていた。
もう母親とは会うことは無いだろう。
むしろあったら殺してしまうかもしれない。
美咲の中にある影の部分が、彼女を暴力的な回答に導いた。
「ま、離婚も成立したんだし、お前の親父さんも再婚するかもしれないんだから、あんま悲観的にとらえるなよ」
「再婚? 父さんが? ありえない。あんな甲斐性なしの酪農家を好きになる女性なんていないって」
「そんなことないよ。良く見れば男前だし、凄く優しい人じゃないか。女は優しい男が好きなんだよ。仕事に忙殺されて相手が見つからないだけで、意外とモテるタイプだと思うぜ、俺は」
「気持ちの悪くなるようなこと言わないでよ」
「おう、ごめんな。でも可能性はゼロじゃないだろ」
「まあ、確かにそれはそうだけど」
大志の言葉に妙に納得してしまった美咲だが、父親が再婚するとなると、相手はどんな人になるんだろうという疑問が浮かんだ。牧場の従業員の誰かか、それとも全く牧場とは関係ない第三者か。
猛は仕事熱心な男のため、夜に飲みに行ったりもしない。そもそもこの地域には焼き鳥屋とカレーラーメン店以外で、純粋に飲める店は多くない。
キャバクラなど夢のまた夢で、スナックも存在しない場所だ。
そんな何も無い場所で穏やかな一生を終えるはずだった猛は妻の裏切りに遭い、娘二人を養うために家業の牧場運営に忙殺されている。
そんな父親を女に逃げられた情けない男と断罪するのは簡単だ。
でも美咲は妻に逃げられても表向きそれを前面に出さず、自分達の前で良き父親であり続けようとした父に感謝もしていた。
「美咲と許斐ちゃんが結婚して家を出たら、おじさんは一人ぼっちになっちまうんだぜ。そうなったらきっと再婚を考えるさ。まだ四十代だろ? 可能性は無くはないだろ」
大志は床に背中を預けながら話を続けた。
「そういうあなたのお父さんはどうなのよ」
「あれは駄目。仕事人間だから。刑事と結婚した男だよ。再婚なんてひとかけらも頭にないはずさ」
「そうなの?」
「そうだよ。個人的には俺はそれでいいと思うけどね。再婚して出来た母親を受け入れる自信ないしさ」
「何それ、随分弱気なのね」
「しょうがないだろ。男は皆弱いのさ」
「私のお父さんは弱くないわよ」
「どうかな? そんなことより、明日からよろしくな」
大志は体を起こして、美咲を見つめた。その視線の鋭さに、美咲の心は動揺し、頬はかすかに朱に染まった。
今井大志は魅力的な男だった。頭がよく、運動神経は抜群で、性格もすれてない。やや毒舌でサディスティック一面があるが、それも問題ない程度の代物である。
大志に告白されて付き合わない女は居ないだろう。
美咲にとって突然自分の前に現れた大志は白馬の王子様のような存在だ。
しかし彼と一緒になるという映像が頭の中に浮かばない。
大志は魅力的な人。
でも私には縁のない人。
それでも好きになりそう。
でも駄目、きっと振られる。
振られるぐらいなら、何も言わない方が正解。
そう、それでいい。
私の人生には大志は必要ないんだ。
ただの居候として接していけばそれでいいんだ。
そうだ、美咲。それでいい。
美咲は自分で自分を納得させると、大使との視線を外して立ち上がった。庭先に少し前進して、美咲は大きく背伸びをした。
その様子を見た大使も立ち上がり、美咲に近づくと、自らも背伸びをした。
「くあーーー気持ちいい風だな」
「でしょ、ここが私のお気に入りなんだ」
「いきなりまた北海道行く事になったときはどうしたもんかと思ったけど、ここでの暮らしも悪く無さそうだな。」
「自然に囲まれた生活は素敵よ」
「そうだな」
それから美咲と大志は上を向き、夜空を眺めた。光化学スモックに汚染されていない夜空には、沢山の星々が散っていた。
美咲には見慣れた風景だったが、大志には珍しいらしく、彼は夜空の美しさに素直に感動していた。
「綺麗だな」
「そうだね」
「死兆星が見えなくて良かった」
「何それ」
「死兆星を知らんのか。全く最近の若い女は」
「そんなこと知らなくても、充分生きていけますし」
「ま、それもそうだな」
大志はゲラゲラと声を出して笑った。彼のその明るさは今まで感じたことのない感情を美咲にもたらした。
今井大志か。
不思議な魅力のある人だな。
もしかして、私、恋愛感情が再燃し始めている?
いや、駄目よ美咲。
恋なんて、自分が傷つくだけなんだから。
美咲は中学生の時に一度だけ好きになった男子に告白したことがある。しかし、男装趣味とアノマロカリス信仰から危ない女と思われ、けんもほろろに断られ、美咲は家で号泣したのである。
嫌な記憶。
忘れたいのに、忘れられない。
どうせ私は芋だから。
付き合うなんて早すぎたんだ。
「どうした、美咲。ボーっとして」
「ううん、何でもない。ちょっと昔の事を思い出したの」
「何を思い出したんだ」
「失恋したこと」
「夜空を見て思い出すのが失恋かよ。お前って中々にひねくれてるな」
「そうかもね」
美咲は大志の言葉を素直に受け入れた。それに驚いた大志は、。
「おい、冗談だよ。お前はひねくれてない。俺だって失恋ぐらい経験ある。チャライ男嫌いって言われてさ。家で号泣しちゃったよ」
「あなたも?」
美咲は大志の言葉を受けて、クスクスと笑った。
「美咲も号泣したんだ」
「うん。泣いた」
「失恋すると、やっぱり泣いちゃうよな」
「そうだね、泣いちゃうね」
「次の恋は慎重にやることにするわ」
「うん、私も」
こうして、二人の夜は更けていった。




