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これ以上はない事実だった。
なるほどそれならばお兄ちゃんが熟れていて当然だ。
同時に、やっぱり聞いてはいけない質問だったと後悔が滲む。
なにしろ新たに生まれた疑問に逡巡を隠せなくなってしまった。
――どうして、『妹がいた』と過去形なのか。
「小学校に上がる前に、両親の離婚で離ればなれになってな」
わたしの逡巡を察したのか、真潮の方から口を開いてくれた。
つい先ほどまで軽口を叩いていた表情はすっかり消え去り、思い出の引き出しを慎重に開けようとしているみたいに見えた。
その横顔をどんな風に眺めれば良いのか、わたしの感情のほうが定まらなくて落ち着かない。
「離ればなれになる時の、妹の泣きじゃくる姿がくっきり目の裏に焼き付いてるんだ……。俺は妹のお願いを、お兄ちゃんとして聞いてやれなかったから」
「お願い……、って?」
「まあ、なんてことない子供じみたお願いだな。本当に何でもないお願いだった。だから、その場凌ぎでも、わかったって答えていればそれで済んだ話だったのかもな」
自虐的な笑みを浮かべて、真潮は今ここにはいない別の誰かに話すみたいに抑揚なく続ける。
「なのに、その時の俺は、出来ないって言ってしまったんだ。無理だって。そしてそのまま両親の離婚が決まって離ればなれになった。お願いを聞いてやれないまま」
わたしを見ていない真潮の独白にどう反応すれば良いのかわからなかった。
「離婚って言葉の意味がわかってなくて離ればなれになるなんて思ってなかった。次の日になれば、これまでと同じ毎日が当たり前に続いていくものだって勝手に思い込んでたんだ。けれど、妹とは離ればなれになって何もしてやれなかった後悔だけが残った」
「……そのお願いって、今から叶えてあげることは出来ないの?」
沈痛な面持ちで視線を落とす真潮に思い付いたままの提案を投げかけてみるが、
「無理なんだ。叶えようがないんだ」
ゆるゆると力無く首を横に振って吐息を漏らした。
子供じみたお願いで、その場凌ぎでもわかったと答えていればと言っていたくせに、今からそれを叶えることは出来ないと言う。
ああ、これは本当に触れてはいけない話題だったのだ。
真潮の含みのある答え方を前に、さすがのわたしだって感付いてしまった。
――もしかして、妹さんは亡くなっているのでは。
喉元まで出かかったその疑問を辛うじて飲み込む。こればっかりは本当に何の気ない調子で馴れ馴れしく踏み込んでいいことでは絶対にない。
歩道をのろのろと歩くわたしたちの間にしばしの沈黙が流れる。
時折、道路を走り抜ける車のエンジン音がいやに耳についてしまう。これ以上、妹さんのことを聞き出すのは良くないと思いつつも、全く関係のない話題を突拍子もなく切り出すのも躊躇われてしまう。
「だから俺は――」
意を決したように真潮が沈黙を押しやり、
「妹のお願い、わがままには極力応えたいんだ。もう、あんな思いをしないためにも。もし万が一、明日この関係がいきなり終わりを迎えたとしても二度と後悔しないために」
宣言を終えた真潮は不意に、ここにはいない誰かを見ていた眼差しをわたしへと注いでくる。
完全に油断していた。あまりに迂闊だった。
そのまっすぐな視線に為す術もなく簡単に射竦められてしまった。
「お前は嫌かもしれないが、なにかあれば力になってやりたいし、お願いは一番に叶えてやりたい。そんなのは自己満足でしかないってわかってる。それでも兄妹になってしまったからには、俺はもう二度とあんな思いはしたくないんだ」
言い淀むことさえなく一息に言い切った真潮の言葉は誠実だった。
少しだけ低くて男性らしい重みを感じさせる声が、わたしの鼓膜を震わせお腹の奥底までずしりと響き渡った。
使命感でもなければ悲愴感とも違う、ある種の覚悟のようなものが伝わってきた。
「……き、キモ」
それなのにわたしは、そんな風に誤魔化すことしか出来なかった。
だって、真潮の覚悟を受け止めきれる自信がないのだ。
そんな重大な覚悟を、親の再婚で兄妹になっただけのわたしが、はいそうですかと受け止めていいのか判断に困ってしまう。
「けど、気持ちはわかったわ。要するに、わたしのわがまま聞いてくれるってことよね?」
だから、そんな風につんと澄まして茶化してやり過ごすしかないじゃない。
「話聞いてたか……? けどまあ約束する。俺は何があっても妹の味方だ。妹に何かがあれば絶対に助ける。それこそが兄妹の絆だと思ってる。――だから安心しろ」
わたしの揺れて落ち着かない心の有様を見透かしているのだろうか、安心しろと言って聞かせる真潮の声は、道理や理屈を飛び越えて無条件に安心できる頼もしさが滲み出ていた。
そんな歯の浮きそうな台詞を前に、わたしは視線を逸らすついでみたいな仕草で小さく頷いて返すのが精一杯だった。
「そうだ、シャンプーがなくなりそうだったな。買って帰るからお前は先に帰ってて良いぞ」
深刻な雰囲気を断ち切るつもりなのだろう、真潮はいやに不自然に話題を変えた。
「シャンプー……? 買い換えるの!?」
そこまでして露骨に話題を変えてくれたのだったら乗ってやるのが礼儀というものだ。
「確かそろそろなくなりそうだったからな」
「あの量り売りみたいな安物のシャンプーからついに買い換えるのね!?」
「おい……、シャンプーの量り売りなんてあるのか……!?」
真潮の目がギラリと見開かれる。
不意にお得な量り売り情報を耳にしたからなのか、スーパーで野菜を吟味していた時と同様の理解できない気持ち悪さを滲ませる。
「いや知らないけど、量り売りに興味を示さないで!? わたしもついて行くわ! いまのよりもっと良いシャンプー選んであげるから!」
「なんだ量り売りシャンプーはないのか、期待させやがって。ああ、それとついて来なくていいぞ。どうせわけのわからねえ成分だかが入ってるクソ高いやつ選ぶ気だろ?」
「わけわかんなくないし!? って、ちょっと待ってよ! 今まさにわたしのわがまま聞いてくれるって言ったばっかりでしょ!?」
「言ってねえよ」
「良いじゃんシャンプーくらい! わたしの癖っ毛のこと知ってるでしょ! 買い物にも付き合ったんだからそれくらい良いでしょ!?」
「お菓子買ったじゃねえか」
「くっ……、は、半分こしよ! 半分食べて良いから! ねっ? ねっ?」
「めっちゃ譲歩してたった半分かよ、交渉下手すぎだろ」
こっちを見もせず呆れた口調で真潮が歩調を速める。
置いていかれてなるものか! わたしは勉強はちょっぴり苦手だけど、足はそこそこ速いんだから!
そうしてたどり着いたドラッグストアで店内の視線もはばからずに駄々っ子のように食い下がって、わたしオススメのちょっと良いシャンプーを押し付けて根負けさせてやった。
「何のために特売の卵を手に入れたのか意味がわからねえ……」
ドラッグストアを出て恨みがましく愚痴をこぼし続ける真潮の横顔に「ありがとう」と声には出さずに唇だけを動かしてみた。
ちゃんと妹らしくするのがどういうことなのかなんてわからない。
けれど、今日のところはこれで良しとしよう。わたしにしてみれば大きな一歩だし。
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