香り
久しぶりに踏み入れた病院は、酷く静かだった。
私達が歩いているのだから、足音は聞こえているのだけれど、それだけだ。
声なんて全く聞こえない。看護師さんも、一言も話すことなく歩いている。
それは病院内にいるからか、それとも別の理由があるからか、それはわからないけれど、わざわざ気にすることでもない。
病院に入ると、ずっと感じていた懐かしさをより強く感じた。
多少新調されてはいるものの、ほとんどが何も変わっていない。
そんな風に感じられるのも、私が毎日のようにここに通っていた影響なのだろうと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
だとしても、ここまで懐かしさを感じるとは自分でも思ってはいなかったから、驚きはある。
廊下に掛けられている絵をちらりと見る。
たくさん掛けられているけれど、どれもあのときと変わっていない。
果物が入ったかごの絵、空と海の絵──、鮮やかな絵の具が並んでいる中で、私は一つの絵に目を奪われる。
花畑の絵だ。ピンクに、白に、黄色。柔らかい色使いが特徴的な絵。
なんだ、この絵もまだここに残っていたんだ。なんて思いながら、私の頭は結菜ちゃんのことで埋め尽くされる。
結菜ちゃんは、この絵をすごく気に入っていた。
ここの廊下を通る度、微笑んで言っていた。「今日もこの絵は綺麗だね」って。
私はその微笑みを見て、つられて笑うんだ。そして、「そうだね」っていう。
そんな記憶に浸かっている間に、記憶にはない声と言葉が私の耳に届いた。
「そういえば、そうだわ。黒猫ちゃん、貴方、結局なんて言う名前なのかしら?」
そんな問いかけが私の耳に届くと同時に、私は記憶の沼から現実へと引き戻されてた。
そんなつまらない話、したところで意味があるのだろうかと思いもしたが、ここは大人しく答えておくことにする。
「春菜です」
「春菜ちゃんね。素敵な名前じゃない」
「そうですかね」
曖昧な返事をしつつ、私はまた昔の記憶を引っ張り出して眺めていた。
確か結菜ちゃんも、私の名前を褒めていた。
私達の名前はどちらも『菜』がついていて、たった一文字しか変わらないのに、どうしてそんなに褒めるのかって聞いたこともあった。そしたら彼女は、春っていい言葉だからっていった。
もともと彼女は春が好きだったし、彼女は常に誰かを褒めることを心がけていたから、本当に心から褒めてくれていたのかどうかはわからない。
「ええ、とっても素敵よ。可愛らしい響きをしているじゃない」
「私にはよく分からなくて」
「自分のことを褒められても、なかなかわからないものね」
意味のない会話をつなげていく。
なんでこんなに急に話しだしたのだろう、なんてことを考えながらも、私はやっぱり適当に返事をする。
「……実は、貴方のことを知っていたのは、貴方が毎日来てくれていたという理由とはちょっと違うの」
会話の中で、看護師さんがぽつりとそんなことを呟いた。
毎日来ていたからじゃない? だとしたらなんだろう。私は病院の職員と話したことがないはずだし。
そう聞く前に、看護師さんが答えてくれた。
「結菜ちゃんからよく話を聞いていたからよ。実際に貴方のことを見たことがあるのは数回だわ」
結菜ちゃんから、話を聞いていた──?
「ずっと仲良くしてくれる友達なんだって、一緒にいると楽しくて、優しい子なんだって、いつも言っていたわ」
「やさ、しい? 本当、ですか?」
私のことを優しい、とは、本気で言っているのだろうか。
そんなこと言ってもらえるほど、私は優しくない。だって私は、誰になんと言われようが犯罪者だ。
「ええ、優しいんだって言ってたわ。私としても、毎日お見舞いに来てくれるような人は、優しい人だと思うわ」
やっぱりこの人は、人のことをよく見ていない。それくらいで優しい、だなんていえるわない。
結菜ちゃんだって、私のことを上辺だけでしか見ていなかったんじゃないか。優しい、だなんて、そんな感想が出てくるのは、おかしい。
「……私は、そんなこと、ないですよ」
「決めつけるのはまだ早いわよ。自分のことは──」
「いえ、そんなことは、ないんです。結菜ちゃんは優しいので、私のことを美化して伝えたんでしょう」
今、自分はすごく変な顔をしている気がする。
嬉しいような、悲しいような、なんともいえない感情が混ざって、変な顔になった気がする。
「……あ、ついたわ」
そんな話をしている真っ最中、ついに彼女が入院していた部屋についた。
「入っていいわよ」
そんな風に促される。
その言葉に甘えて、部屋に足を踏み入れた瞬間、私の鼻をいい香りが掠めた。
花のような、おひさまのような、なんと例えるのが正解かはわからないけれど、心を落ち着かせてくれるいい香り。
部屋にあるベット、柔軟剤の香りだろうか。いや違う、私はこの香りを知っている。
「結菜ちゃんの、香りだ」
小さいつぶやきで、看護師さんには聞こえていなかったろうけど、私はたしかにそう呟いた。
ありえない。ありえないけれど、結菜ちゃんがいるときにいつも感じた香りだ。
私が、大好きな、香り。




