隠した憎しみ
近くまで来てよく分かった。この場所は、あの時からずっと変わっていない。
病院はこんな時間でも明かりがついていた。誰か緊急の患者でもいるのかもしれない。
中に入りたいが、私のような部外者が入るのは苦しい。
今この場所に私の知り合いが入院しているわけでもないのだから、仕方がないだろう。
かといって、このまま帰りたくはない。どうにかして入る方法はないだろうか。
そんな事を考えていると、足音が私の耳に届く。
思わずバッと前を見ると、病院から看護師の方がでてきたところだった。かなり年輩の方だ。
ただの看護師さんなら気にすることもないだろう、なんて考えてもう一度思考をめぐらせようとしたその瞬間、看護師さんが声を上げた。
「貴方、黒猫ちゃんじゃない?」
貴方。
黒猫。
黒猫──?
黒猫がなんのことかわからなくて戸惑う。というより、この場所にはその看護師さんと私しかいなかったため、貴方というのはおそらく私を指す言葉なんだろうが、黒猫と呼ばれる意味がわからなくて混乱した。
そもそも、私にまともに話すような関係を持った看護師さんはいない。なんなら、まともに話した人なんて片手で数えられるほどのはずだ。
意味が、わからない。
看護師さんは私の方へ駆け寄ってくる。
「やっぱり、黒猫ちゃんよね? 大きくなって……」
その言葉を聞いて、私の頭はさらに目まぐるしく動き出す。
やっぱり私のこと? でも黒猫って? っていうか、大きくなってってどういうこと?
私が返答に迷っているうちに、看護師さんは慌てたように言う。
「ああ、ごめんなさい。貴方の方から私を知ることはなかったわね」
ということは、一方的に知っていたということ?
私がそう聞く前に、看護師さんが答えてくれる。
「貴方、結菜ちゃんのお見舞いによく来てくれていたでしょう? だから覚えていたのよ」
結菜、ちゃん。
ああそうか、この人はあの時からここにいたのか。そのなかで、私の姿を見かけていたのだろう。
納得さえすれば、頭の混乱は収まっていく。
私は思考を切り替えて、平然そうに告げる。
「そうでしたか。まさか、私のことまで知っていたなんて、びっくりです」
「毎日来てくれていたからね。そりゃあ覚えているわよ」
看護師さんが嬉しそうに言うので、私は偽物の笑顔を貼り付けた。
「勝手に黒猫ちゃんって呼んでいてごめんね。名前がわからなくて……。貴方、綺麗な黒髪をしているし、そう呼ぶのがぴったりな気がして──」
看護師さんはまだ何かを言っているが、私はそれどころじゃなかった。
あの時のことを語る看護師さんの笑顔が酷く歪んで見える。その声ですらも、遠のいていく。
ああ、反吐が出る。
怒りでどうにかなりそうだ。
あの時のことをこんなに嬉しそうに語れる理由が理解できない。
あの時の結菜ちゃんについて何も分かっていない感じが許せない。
──あの時の結菜ちゃんのことを救えなかった奴らが、何を言っているのだろう。
そんなことを心の縁で思いながらも、私は笑顔を貼り付けたまま、話を聞いているふりをする。
「今日はどうしてここに?」
「……久しぶりに見たので、少し立ち寄っただけですよ」
「あらそうなの」
聞かれたことには答える。
「結菜ちゃんがいなくなってからは見なかったからね。なんだか嬉しいわ」
看護師さんは、少しだけ寂しそうに笑う。
それに対して私は、「なに今更寂しそうにしてんだよ」と、悪態をつく。
だいたい、彼女がいなくなってからここに来なくなるのは当たり前だろうが。用もないんだし、私はあんたらが憎いんだから。
そんなことを付け足しておきながらも、口には、態度には出さない。
だって面倒臭いじゃん。いちいちそんなこと態度に出してりゃ、周りが色々いい出すんだもん。ただでさえ何もしてなくても嫌われてるんだから、隠したほうがずっといい。
……私がここまで感情をコントロールできたなんて、自分でも少し驚いたけれど。
「そうだ、せっかくだから、結菜ちゃんがいた病室に行かない?」
突然、頭の中にそんな言葉が響いた。
「へっ?」
かなり突然だったのと、内容がかなり飛んだのと、自分の感情にばかり目に行ってしまっていた代償が襲いかかってきて、思わずそんな声を漏らした。
結菜ちゃんの病室。
いろいろなことが、私の頭を駆け巡る。
「行ける、んですか」
次の瞬間、私はそんなことを言った。
「あの病室、今誰も入っていないのよ。ついてるわね」
そんなことを返された。
行けるのか。あそこに。
痛いくらい幸せだった思い出と、痛いくらい辛かった思い出の、ふたつが眠るあの場所に。
少し、考えた。
答えは、決まっていた。
「行けるなら、行きたいです」
もともと、中には入りたかった。
あの場所には行けないだろうと思っていたけど、行けるならいいんだ。
行きたい。
そこで何か、嫌なことを思い出すんだろうと分かっていた。
それでもその一瞬、私の心は好奇心で満たされて、輝いていた。
「ええ。行きましょうか」
今度の看護師さんの笑顔だけは、憎むこともなく見ることができた。




