26...関係の変化
貴族の法的成年に関して、男は十六歳、女は十四歳を以て、成年とする。
貴族の婚姻年齢に関して、男は十七歳、女は十五歳にならなければ、婚姻をすることができない。
レガリア法典より抜粋
「繰り返すようですが、エレオノーラ様はたったの十歳ですわよ」
そう口にしつつ、エリザがやや荒々しく法典を閉じる。
たったの、のところに力がこもっていたのは気のせいではあるまい。
レオンハルトは、エリザの紫玉の瞳に映る彼自身が、ゴミ虫以下の存在と見なされていることを自覚せざるを得なかった。
それはすなわち、エリザにロリコンの嫌疑をかけられているということだ。
俺はロリコンじゃない――反射的に反論が口をついて出そうになるが、すんでのところで飲み込んで深呼吸をする。
女に口論で勝とうとしても無駄だ。
心の中で数度復唱したのち、レオンハルトはつとめて冷静を装いつつ、口を開いた。
「あれの年齢のことは心得ているし、俺にそういう趣味はない」
「では、どうしてエレオノーラ様の入宮を許可したのです?」
「頼まれたんだ、公爵に」
「……御冗談を!」
はたしてエリザは一笑にふした。
瞳は一層冷ややかな色を浮かべ、明らかに彼の言を信じていない様子だ。
にべもないが、そこそこ宮廷の事情に通づるものであれば、彼女の態度はさもありなんと感じるであろう。
何せ、レオンハルトの言う、頼まれた相手が悪い。
エレオノーラの父はあのブライトン公爵なのである。
「公爵がご令嬢を溺愛していらっしゃるのはあまりにも有名です。そんな閣下が、好き好んでエレオノーラ様を入宮させることなどありましょうか?」
ブライトン公爵が、煉獄の悪魔も裸足で逃げだすと評判の強面にまるで似合わず、愛妻家・子煩悩であるということは、社交界に出入りする者ならだれもが知る話である。
三度の飯よりも妻と子。
周囲の人間が呆れるほど妻子にぞっこんの公爵が、最愛の娘をおいそれと手放すはずがない。
あまりの溺愛っぷりに、さては娘に入宮命令が下っても、あらゆる手を使って拒否するのではないかとまで世間に言われるほどなのだ。
それだけに、エレオノーラの入宮が取り沙汰されたときには社交界中がどよめいた。
まさかあの公爵がという驚愕の声から始まり、最終的には、公爵とて王命に逆らえず、泣く泣く娘を入宮させたのではないか――という結論に落ち着いた。
つまり世間も、王の性癖を疑っている節があると言うことだ。
無論、あまりに不敬であるため、ことしめやかに流れた噂ではあるが。
「だが、世間にはそんな馬鹿な話が実在するんだ」
決して表立って言われはしないものの、世間からそこはかとなくロリコン扱いされているレオンハルトは、どこか哀愁を漂わせながら弱々しく首を振る。
「あのバカ――もとい公爵は、娘を溺愛するあまり、“性的倫理の逸脱を未然に防ぐ男女の節理ある隔離”を求めてきたんだよ」
「性的倫理の……なんですって?」
思いもよらぬ文字の羅列をうまく噛み砕くことができない。
目を白黒させるエリザに、幾分か憔悴した風のレオンハルトが噛み砕いて説明する。
「世の中には、娘は誰にも嫁にやらないと言う父親がいるだろう?」
エリザはうなずいた。
言わずもがな、ブライトン公爵はそういうタイプの父親だ。
「まあたいていは口だけで、最後は泣く泣く娘を嫁に出すものだが――残念ながら公爵は、良くも悪くも有言実行の人だった。加えて、家柄も地位も高いから、なまじ権力だけはある。俺としても、敵に回すのはできるだけ避けたい相手だ」
建国より連綿と続く公爵家は、国でも一二を争う由緒正しき高貴な血筋だ。
その歴史の中で、何人もの正妃を輩出したり、反対に降嫁があったりするので、王家への影響力はいたって強い。
さらに、公爵は軍を統率する将軍の位を賜っている。
国の兵力が彼の元に集束されているのだ。
騎士たちの信望厚い公爵は、味方としてはまたとなく頼もしいが、敵に回すと被るリスクが大きすぎる。
「つまり、公爵が立場を盾に、陛下を強請ったということですの?」
「強請ったとは……人聞きが悪いな」
エリザの言い分があながち間違いでもない分、レオンハルトは頬をひきつらせた。
公爵が娘を入宮させてくれと頼む様は半ば脅迫だった、と彼は思う。
「でも、いくら相手が公爵とはいえ、その頼みを断れぬ陛下ではありませんでしょう?」
「公爵もそこらへんはぬかりなくて、俺の即位後まもなく打診してきた」
レオンハルトの即位後といえば、まさに宮廷の動乱期ただ中である。
幼い彼を傀儡として権力の甘い蜜を啜ろうとする者や、彼を弑して己の与する王族を王位に挿げ替えようとする者などは当たり前で、逆臣は宮廷のあちらこちらで蠢いていた。
そうした情勢の中で、腐敗した宮廷を掃除しようとした彼が、強力な手札となりうる公爵を、まざまざ逃すはずがない。
「結局、俺にとっても公爵にとっても、渡りに船だったわけだ」
エレオノーラは公爵家の令嬢であるからして、いつかは否応なく後宮に入ることが決まっている。
なれば、彼女をいつ入宮させるかということは、レオンハルトにとってさしたる問題ではなかった。
もちろん彼女はまだ婚姻年齢に達してはいないが、入宮は婚姻とイコールではなく、法にも触れない。
加えて当時は、好色な先王や奸臣たちのせいで、後宮自体がある程度の家格と持参金さえあれば入宮の許可が下りる場所に成り下がっていたので、公爵の願いを叶えることも難しくはなかった。
諸貴族は当然文句を言うだろうが、そうした連中の大半はレオンハルトの手によって粛清されるのだから、気を揉むほどの案件ではない。
要は、子娘一人を入宮させ、適当に面倒を見ながら放置していればいいだけのこと。
それで忠臣を一人手に入れられるのならば、レオンハルトにとってそれ以上のことはない。
「ロリコン疑惑は晴れましたが、釈然としない顛末ですわね」
エリザは憮然として肩をすくめた。
これだから宮廷に巣食う人間はいやなのだ。
考えることは自分に利権や保身ばかりで、その影響を被る他者の気持ちなど考えもしない。
「エレオノーラ様も大変ですわね。親の思惑やら陛下の策略やらに転がされるのですから」
後宮は美しい鳥籠、あるいは絢爛たる牢獄にすぎない。
自由と多くの選択肢を奪われ、腹に一物も二物もある他の女たちとの競合を半ば強いられる。
そのような魔窟に放りこまれた幼いエレオノーラは、堪ったものではないだろう。
まだ十歳の、ほんのちいさな子どもなのに。
「だが、エレオノーラはまだ恵まれている方だ」
平坦で静かなレオンハルトの声が、確信をもって言葉を紡ぐ。
「あれには、十分な家格と権力をもつ生家があり、上辺だけではなく本心からあれを慕う侍女や取り巻きがいる。敵対勢力があっても、強い後ろ盾がある限り、あれが本当の悪意にさらされることもない。エレオノーラは、守られている」
「でも、幸せかどうかは分かりませんわ」
思わず吐き捨てるように言い放つと、レオンハルトの眉がわずかに動いた。
エリザの言葉を不快に思っているのだろう。そういういい方をしたのだから、仕方がない。
「申し訳ありません。出過ぎた口をききました」
「いや、謝ることはない。おまえの言うとおりだ」
「え?」
「たしかに我々は、エレオノーラを守ることはできても、幸せにできる保証はないからな」
レオンハルトが、自嘲するようにくちびるの端で笑う。
彼のそういう表情は珍しいから、エリザは思わずその端正なかんばせを凝視してしまった。
「陛下は、そんなことも考えていらっしゃいますのね」
「当然だ。臣民を守り導くのが王の務めだからな。とはいえ、不十分なところは多いが」
嘆息したレオンハルトが、エリザをちらと見る。
「たとえば、エリザ。お前のこととかな」
「私……ですか?」
「知らぬ間に寵妃扱いされて迷惑している、とアデルに散々愚痴っていたらしいじゃないか」
「うっ」
確かに、言った。
後宮に住まう姫君たちから嫌がらせを受けるごとに、アデルには散々愚痴をこぼした。
しかしそれがレオンハルトに筒抜けだったとは聞いていない。
いや、アデルは王の部下なのだから、彼に報告がいくのは当然ではあるものの。
(だからって、何もかも洗いざらい陛下に言わなくたっていいじゃない!)
友人だからと油断した自分が悪いことは自覚しつつも、アデルを恨まずにはいられない。
しかし不満を言おうにも、肝心の本人は既に部屋にはいなかった。
道理で先ほどから彼の軽口が聞こえないわけだ。
よもや状況の不利を察して逃げたのではなかろうかとエリザは邪推した。
しかし、そんなことを考えていても事態が好転するはずもない。
エリザの不平不満のあれこれが王に筒抜けである以上、今から何を言われることか――想像するだけで恐ろしかった。
「何もそんな青い顔をしなくても、取って食ったりしない」
あまりにもエリザの顔が酷かったのか、レオンハルトが少々困惑気味になりつつもなだめしてくる。
そんなことを言われてもすぐに気分が落ち着くものではないが、とりあえずエリザはうなずき、深く息を吐いた。
「失礼いたしました……その、いろいろと」
「それはお互いさまだろう。お前もほとほと無礼だが、俺は俺で残酷なことをした」
「え?」
「すまなかった」
碧玉の瞳が、真摯な光を湛えてエリザを見つめる。
エリザもレオンハルトを見つめ返す。
一瞬の静寂があって、二人はどちらからともなく視線を外した。
「謝罪は結構ですわ。陛下も先ほど仰っていましたけれど、お互い様ですから」
レオンハルトの顔色が曇る。
おおかたエリザの言葉を拒絶ととったのであろう。
いつもは嫌というほど鋭いくせに、どうしてかこういうときだけやけに鈍いひとだ。
エリザは笑いを噛み殺しながら、彼に向かって手を伸ばした。
「私たちの関係なら、これからいくらでも変えていけます。そう思われませんか?」
碧の双眸が見開かれ、エリザをはっきりと映した。
やっとエリザの真実伝えたいことに気づいたようだ。
少し照れくさそうに、レオンハルトの手がエリザの方へと伸ばされる。
「違いない。おま……きみの言うとおりだ、エリザ」
ぎこちなく握られた手はあたたかく、二人に新しい未来の訪れを感じさせるのだった。




