(第22章 貧乏のどん底を知って、父の愛に泣く)
「水商売だけはするな」と言うのが父の決まり文句だった。「女は、お金がないと身を崩す。特に水商売をしたらおしまいだ。お金は要るだけ送ってやるから、水商売だけはするな」と、レストランやお洒落なカフェやケーキ屋さんでも「ダメだ」と言って辞めさせた。
父は、なぜか晴子の行動を見ているかのように詳しく知っていた。付き合いだして間もない男性の実家の稼業や親戚のことまで。今考えてみると、興信所を一年に何回でも使えると、よく言っていた。仕事関係の信用調査に使っているのだと思っていたが、実は娘の素行調査に使っていたのではないか?と最近になって気付く。たくさんのバイトをして自立していたつもりだったけど、親の大きな傘の下で守られていたのだとわかって泣いた。『私は愛されていた。誰よりも大切に育てられていた』と、感謝と共に自尊心が蘇ってきた。「親が亡くなってしまって、今頃気付くなんて」と後悔したが、もう遅かった。でも、今も心配顔で近くで守ってくれているに違いない。
親がたくさん愛してくれていたから、周囲の皆から助けられ愛されるのだと、忘れていた方々の笑顔が目に浮かんだ。夫に裏切られ邪険にされ、ボロ雑巾のようにこき使われて人生を駄目にするなんて言語道断。世間体や子供のためだと我慢して、落ちぶれて皆の迷惑になるくらいなら、自分らしく我儘に、以前のように「いつ死んでも悔いのない生き方」をした方がいいような気がした。それもこれも、夜働かせてくれたオーナーや、励ましてくれた飲み屋の仲間たちのおかげだ。人は一人では生きていけない。
シャッターの鍵を閉め、帰路を急ぎながら、ふと空を見る。大きな満月が暗い夜道を照らしているようだった。五月の満月なら一年で一番大きなスーパームーンではないだろうか?スマートフォンで調べると、明日が満月。鞍馬でウエサク祭りがあるのは明日だと気付いた。久しぶりに行ってみたいと、ぼんやり思った。自分の背中を、もっと強い力で押してもらいたかった。
電灯に照らされた自分の姿が、店先のガラスに映っていた。働き出して、外見を気にするようになったせいか、随分痩せた自分の姿が映し出されていた。夜なので、年齢も、ずっと若く見える。細かった頃の昔の洋服は無理だが、娘の洋服が着られるようになったのが嬉しい。
バッグからヴィトンの長財布を取り出し、カード類を抜いて月に向かってサイフを振ってみた。満月は明日だが、これから満つるのだから、明日にはサイフいっぱいに、お金が入ってくれるかもしれないと思って。「お金が、このサイフに入りきれないくらいたくさんに増えました。ありがとう」と言って、シャカシャカと笑顔で長い時間振っていた。
神様などに願い事をする時には、完了形でお願いしなければならないと、最近読んだ本で知った。「神との対話」という本なのだが、神様は願い事を叶えてくれている。「お金が欲しい」とお願いしたら、「お金が欲しい」という貧乏な状況にしてくれるのだと書いていた。だから、お願いする時は、夢が叶った状況をイメージして口に出して言わなければわからない。日本の神様も、できれば自分でできることは願わず、願い事は具体的に日時まで言った方が叶うらしいとも、他の本に書いていた。本当かどうかわからないが、今この情報が手に入ったということは、変わることができるチャンスに違いない。
昔のポジティブで、すぐ行動する素直な自分が帰って来た気がした。きっと、これからは上手くいく。結婚してからの長い悪夢が晴れ渡って、もうどうでもいい過去のことだと思えるようになった。楽しい未来を思い描けるようになったら、『どう頑張っても変えられない過去に惑わされて、今を台無しにするのはもったいない』と思うようになった。
「パパ、水商売も楽しいよ。色んな人と出逢えるし、接客って案外向いているみたい。パパの自慢の娘にはなれなかったけれど、パパの子供に生まれて良かった。幸せだったと思うよ。大好きなパパ。そこにいるんでしょ?見ていて、もう大丈夫。何かのせいにしないで、誰かに責任を押し付けないで、自分のことは自分で決める。もう我慢なんかしない。裏切りも不幸も、いつか笑い話にしてやる。傷ついた分、人にはやさしくなれるはずだから。流した涙も人生の肥やしにして、きっと綺麗な花を咲かせてみせる。お金も大切に愛して、お金から愛される人になってみせる。ごめんね。本当に、お金は自分の価値を測る物差しみたいなものなんだから。結果やご褒美は、これからは絶対にないがしろにはしない。そして、パパやママからもらった命、大切に育ててもらった才能を、ちょっと遅いけれど、これから生かして人一倍楽しんで生きていくつもり」
と、小さな声で囁くように月に向かって話していた。「おぼろ月夜?」と思ったら、目には涙が溜まっていただけだった。
「心配しないで。嬉し涙だから」と言う声は、自分のものではないかのように澄み透っていた。




