(第21章 どん底にまで落ちて見た、奈落の光景)
男は強い者には絶対に服従している。だから、父が生きていたら、晴子のために父は命がけで主人を懲らしめてくれたに違いない。晴子の父がいた時は大人しく従順だったのに、亡くなった途端、主人の横暴は始まった。母にもひどいことを言って泣かせた。愛情が無くなって、他に好きな女が出来たら、家族も何もどうでもいいらしい。
男は、すぐに壊す。途中で逃げ出す。暴力で相手をひれ伏せさせ、結婚と共に奴隷としか思っていない奥さんをこき使う。社会的な活躍の場を失い、子育てに奔走してきた主婦には、稼ぐ手段がもうない。レジ係か掃除婦かヘルパーくらいしか、50歳を過ぎた女性には働く場所がない。しかも、毎日一生懸命働いても、10万円台の収入しかない。年収100万円以内なら、扶養家族で保険も払わなくても社会保険の扶養家族として収入から引かれることはないが、下手に収入があると自分で保険をかけなくてはいけないので、手元に残るお金は少なくなる。税金や保険のことを考えて上手に働かなければ、かえって損をする。無我夢中で仕事が出来た独身時代が懐かしい。年老いて、もう好きなことを仕事にする夢は断たれてしまった。毎日くたくたになりながら、時間給千円にもならない仕事で年齢を重ねていく毎日。それなりに人間関係の煩わしさや、ささやかな喜びはあるものの、自分の居場所にいないという不安が押し寄せて来る。誰からも愛されない。子供たちも、親のことなど興味もない。友人とも疎遠になって、年賀状だけの付き合いになってしまった。
留守がちの浮気男との家庭内離婚。せめて自分一人で食べていける収入さえあれば。誰か、この地獄から救ってくれる人がいたら。たくさんの「たら、れば」を想像しても、何も現状は変わらない。一度無くなった愛情が戻って来るはずもなく、どこにも逃げる所がなく、ただただ日々暮らしている。夢や希望、愛をなくしたら生きてはいけない。病気とは気を病むことから始まると言うが、体はボロボロ。心は、もっとズタズタだった。自殺ばかりを考えていた。こんな人生なんて早く終わらせたいと念願していた。
ただ、不幸な状況をどうやって知ったのかわからないが、家にいると宗教の勧誘が多くなっていた。朝起き会や新興宗教やネットワークのお誘いに、寂しい晴子は出かけるようになった。勧誘する時は優しいが、お金を持っていないと分かるとつれないのは、ホストクラブも一緒。お金がないと、何も出来ない。ビジネスも宗教も。遊びも友人とのランチも。引きこもるしかない人生。パートに行っても、お洋服を買ったり、付き合いが多くなって稼いだお金を使ってしまう。しかも、喜々としてやっているのではないので、溜息ばかりが出てくる。そんな暗くて陰キャラな、みすぼらしい晴子に声をかけてくれる人もいなくなった。
ある時、ガラス張りのビルの前を歩きながら、ふと自分の姿が目に入り、びっくりした。ゴムの黒いズボンに黒い服、二重顎には深いほうれい線。目の下のくまに目尻のしわと、すっぴんで出掛けているせいか、しみが目立つ。髪にも白髪が目立つし、どこから見ても老齢の立派なおばさんだった。色気も何もない。皆が避けて通る汚い年寄りにしか見えない。
どんなに公明正大に生きていても、他人のためにボランティア活動をしていても、心に高邁な精神があったとしても意味がない。誰かのせいではない。自分が自分をないがしろにしてきたせいだ。「人は見た目ではない」と言っていたが、こんな姿に落ちぶれてしまったら、誰も相手にしないだろう。最初は浮気をされ、不幸な身の上に同情して優しかった友人たちも疎遠になった。こんな陰キャラで醜い者と友人だと思われたくないのだろうと想像できた。
財布には100円玉も入っていない。何日も、ちゃんとした食事は取っていない。それでも、水道の水さえ飲んでいたら生きてはいける。この太い体には、消費できる糖質やセルライトがたくさんあるのだから。でも、体力はない。ベッドに伏せっている時間が長くなった。離婚しても地獄。しなくても地獄。精一杯頑張ってきたのに、何が悪かったのだろう。最後の20万円を全部使ったら、離婚して生活保護を申請しよう。自分の荷物など、下着と少しの衣類しかどうせない。とはいえ、洗面道具や食器やタオルなどなど。生活に最低限度必要な物を用意していたら、ダンボール2箱はいっぱいになった。どん底まで落ちたら、怖いものなど何もない。
病気的だが痩せてきた体に合った、少し派手目のワンピースを90%オフで買って、髪を少し明るい色に染めてみる。100円ショップで買ったコスメで、何年かぶりに少し濃い目のメイクを施して、安い飲み屋でビールと枝豆をオーダーする。周囲はおじさんばかり。おばさんでも女性一人で飲んでいるのは珍しいようで、声をかけてくる。久しぶりのアルコールのせいか、酔ったみたいだ。毎日のように安い居酒屋に、真夜中、家族が寝静まってから通っていると親しくなる。男友達も何人か出来た。オーナーとも親しくなって、奢ってくれるようになった。女性は学生時代から、近くで飲んでいる男性に奢ってもらえるので助かる。若かりし頃の自分を取り戻して来たような気がした。
晴子の身の上に同情した男性が、「ウチのお店で働かないか?」と言ってくれた。家事を済ませて、働きに行くようになった。小さなお店だったが、常連さんばかりで楽しかった。「親が生きていたら叱られるな」と思った。




