(第16章 夫への復讐に目覚める邪悪な女の性)
音楽活動も夢も叶えてあげているのは裕子なのだと、彼はわかっていると思っていたのに。
35歳の時の裏切りは、想像すらできなかった。颯斗が浮気するなんて、思いもよらなかった。ツアーに同行しなくなって8年間、颯斗に無関心だったことに気付く。
子供のできそうな時だけ寝て、本能のまま愛し合ったのはいつだったかも忘れてしまった。恋する気持ちがアーティストの想像力の源なのに。「所帯じみて、颯斗を駄目にしていたのは自分だったのかも?」と思えたのは、何年も経ってからだ。ただでさえ親からのプレッシャーに押し潰されそうになっていた裕子には、いつもの優しさなんて失くしていた。最近は、そんな裕子のことを女としては見ていないのに気づいている。何でも我儘を聞いてあげるので、母親の姿を求めているのではないかと思えてきていた。颯斗は、歳を重ねるほどに人間的な厚みが出来て、お喋りも上手くなってきた。仕事も多くなって、現場につきあうことも少なくなった。どこで何をしているのか、連絡がつかないことが多くなっていた。いつも周囲には若い女の子が群がっている。数人の女の子と関係を持っているというのも、耳に入って来ていた。「人気稼業なのだから、ファンサービスの一環で飲みにでも行っているのだろう」と安心しきっていた。淡白で、お酒も弱い彼が裕子を裏切って、浮気なんてする筈がないと信じていた。
ある日、彼に内緒で、泊まっているホテルにサプライズ。驚いたのは裕子の方だった。ノックをしても、下から電話をしても出て来ない。仕方ないので、ホテルの人に「中で倒れているかも知れない。スペアキーで開けて下さい」と頼み込んだ。しかし、ドアを開ける前に彼が出て来て立ちふさがった。そこから騒ぎ出して、部屋にいる若い女性と対面することとなった。彼女は、まだ10代。お腹には彼の子供がいるという。結婚していることを告げると泣き出した彼女は「もう、下ろせる時期ではないの。生まれたら認知だけして下さい。女一人で立派に育ててみせます」と言って泣いた。同情した裕子は、生まれるまでの生活費やら慰謝料として、後日300万円を渡した。生まれたら、養子として育ててもいいとさえ思っていたのに。数日後、知らされた事実に心が凍る。不妊治療のために行っている医師から「ご主人様は精子に異常があって、子供はできない無精子症だとわかりました。これから、子供がどうしても欲しいという方には、精子バンクもご紹介していますが、どうされますか?」と聞かれた。
「ということは、あの女のお腹にいる子供は? 彼の子供ではないことになる」
無性に腹が立って来た。彼と、その女に、どんな復讐をしたものか。考えあぐねて、「女の子供が出来たらDNAの検査をさせて、詐欺罪で訴えてやろう」。300万円を騙し取られたのだ。許せない。優秀な弁護士を捜し、綿密に計画して、その日を待とうと思っていた。
颯斗の浮気が暴露された後、裕子は数人の男と寝た。寂しくて、誰でも良かった。愛して欲しかった。颯斗は「子供は、いらない」と言っていたのに、「赤ちゃんができた」と聞いたら、あの豹変ぶり。騙されているとも知らないで。
こんな状況になって、昨年の女子会の時の知恵の憎しみが、はじめてわかった。颯斗を愛しているから、殺してやりたいくらい憎らしい。あの嘘つきの女ともども、地獄に落としてやらなければ気が済まない。自分の中に夜叉が棲みついているのがわかる。自分の身体も汚してしまいたい。心は颯斗にあるのに、好きでもない男たちと寝るのは自虐行為そのものだった。自分を愛してくれる男に抱かれていないと、心が空虚になっていく。しかし、そんなことは気にしていられない。35歳の裕子は焦っていた。あの若い愛人に負けるわけにはいかなかった。まだ颯斗を愛していた。子供さえできれば、自分のところに帰って来てくれると信じていた。自分なしで芸能活動だって、できる筈もないのだから。
無精子なのだから、愛人のお腹にいるのは颯斗の子供ではない。それがわかれば、騙されたと気づけば戻って来るに決まっている。でも、それまでのんびり待っているなんて我慢できない。だったら、自分にも子供が出来たら? すぐに颯斗は戻って来るのではないか。不妊治療のために取った颯斗の精子を使って妊娠したことにすれば、わからないだろう。
颯斗に裏切られて、裕子は狂ったように自分磨きを始めた。母のように。お金に糸目をつけず、アンチエイジングに励み、あらゆる方法を試して、2ヶ月もしないうちに、20代の美貌を手に入れた。そして、昔のように男性たちが好意を示すので、颯斗と結婚して、貢いで尽くして来た10年の年月を取り戻すかのように、次々と気になる男性を誘惑した。
若かりし時、アプローチしてきた男性たちは、久しぶりに会った裕子の見違えるような美しさにデレデレ。年齢を経て、みんな社会で、それなりの地位や名誉を得ていた。結婚もしていたが、優秀な種が欲しかった。自分の身体を冒涜することが、颯斗への仕返しだった。何より、数年前から抱いてもらえなかった裕子の乾いた身体と心を、誰でも良いから慰めて欲しかった。
社会的に地位があり、成功している男たちは遊び慣れていて、セックスも上手かった。復讐のために浮気をしていたつもりだったのに、裕子の熟した身体は、その悦楽にのめり込んでしまった。どうせ颯斗は、あの女性のところに行って、今夜も帰って来ない。両親はドバイに行っている筈だ。家に帰っても、誰もいない。だから今日は、一番気に入っているシルクのワンピースを身に纏い、ブルーのマリのパンプスと、カルティエのバッグで出かけよう。
裕子は、最近、仕立ての良い、肌触りのいい素材を使ったものがお気に入りなのだ。タクシーを降りて、密会場所へと向かう。今日のカラーは珍しく黒だ。どこから見ても清楚な女子大生にしか見えない。相手によって、ファッションはもちろん、髪型もカラーも変える。見つめると、魅き込まれそうになるカラーコンタクトは、碧いブルー。なので、ホテルマンも、同じ人物だとはわからないようだ。
ホテルの最高級の部屋で、年代物のワインやシャンパンを空け、シェフの腕によりをかけたフレンチに舌鼓を打つ。目の前には、東京の夜景が広がる。セレブならではの極上の時。相手は、ずっと裕子にアプローチしていた有名俳優だった。年齢を重ねて渋さが出て、今は映画にテレビに引っ張りだこだ。こんな所が芸能レポーターにでも知れたら、大変なことになるだろう。しかし、長年彼は、こんな風に女と遊んで来たのだろう。慣れたものだ。
ホテル側も常連さんだと態度が物語っている。彼が「いつものものを」と言えば、最高のボトルが次々と運ばれて来るのだから。そんなに経験があるわけではないが、今まで寝た女たちに負けるわけにはいかない。熟女なのに聖女のように恥じらい、ほのかに顔を赤らめる。拒んでじらして、燃え上がるまでのかけひきがたまらない。エステで磨いた美しい肌とビーナスラインは20代の子にも負い目を感じない位、磨かれている。「こんなに柔らかくて吸い付いてくるような肌は初めてだ」と吐息を漏らしているのがわかる。「颯斗しか知らないの。だから、優しくしてね」と囁くと、彼は野獣になった。何度も何度も。若い颯斗に負けないようにと頑張っていた。「なんて、淫乱なんだ。世の中で、こんな君を知っているのは俺だけなんだろうか?」と腕枕をして、煙草を美味しそうに吸っている。「いじわる」と耳元で囁いて、耳たぶを軽く噛んで息を吹きかける。「ああ。また、君の底なし沼に溺れて、もう逃げられそうにない。一週間、この部屋をキープしているから、お願いだ。ずっと一緒に、こうしていてくれないか?」と懇願する。裕子は悪女のように「フフッ」と微笑して、匂わせぶりに目を閉じた。そして、男が目を醒めた時には、裕子の姿は無かった。会員制のスポーツジムに早朝7時に裕子はいた。スポーツトレーナーの今村進が、裕子の姿を見ると、まるで主人を見つけた犬のように、嬉しそうな笑顔で走って来た。「お待ちしておりました。本日のプログラムは、どうなさいますか?」と聞くので「昨夜はフレンチ頂いちゃったし、ワインも飲み過ぎちゃったから、一番ハードなのにして頂戴」と言った。汗で昨日の彼の体臭を流してしまいたい。美しい身体は、毎日の筋肉トレーニングによって得られているのだから。一日たりともジムでのトレーニングは欠かさない。それが、十代の颯斗の愛人には決して負けないという、女の意地だ。
今村進は颯斗のバンドのメンバーのひとりだった。いや、裕子が彼の才能を買って、バンドのベースに入ってもらったのだ。今村は、キーボードもドラムもギターも出来る。あちこちのライブハウスで見かける。そして、急に穴の空いたバンドの助っ人として舞台で演奏している。練習もしなくても、すぐに合わせられる。むしろ、彼が入った時の方が、いつもよりもいい。特に、ベースをやらせたら凄い。調子が上がると海老のようにのけぞったり、ジャンプしたりして観客を熱狂させる。昼間はジムのインストラクターの仕事をしているので身体能力が高いせいだろう。これというバンドに所属しないのに、今村のファンも多い。
特に、ベースの依頼が多いのは、音楽性の違いというか、個性を主張しているのがベースなのだ。なので、彼のベースが入るだけで、音楽性が、ぐっと良くなるそれに気がついた裕子は彼をリクルートして、バンドのメンバーとして雇い入れたのだった。「颯斗、帰ってないらしいね」と自転車をこいでいる裕子に話しかける。裕子は作り笑顔でコクリと頷いた。「きっと怖くて帰れないんだろうね」と言って、裕子の手を包むように握って、「なのに、日に日に色っぽくなるのは何故なんだろう?」と耳元で囁くように言う。 汗が噴き出て来る。ブザーが鳴って、終了が告げられる。「ありがとう。毎日、こうやって女を磨いているせいよ」と努めて明るく答えて、次のダンベル運動のところに移動した。今村は、姿勢を正すようなフリをして、さりげなく腰やお尻に手を置く。「明日はジム休みだから個人レッスンしない?」と誘って来る。「こう見えても忙しいのよ。時間が空いたら連絡するから。明日は、父の替わりに政界のパーティに行かないと駄目だから、ちょっと無理かも。朝起きて、行きたくなったら電話するわ」と言うと、今村の目は、嬉しそうに輝いた。
【セックスで美しくなる】という女性雑誌の特集があったが、そういえば最近女としての潤いを取り戻した気がする。男に愛され大事にされる度に、肌もツルツルになって、ウエストラインもクビれてきた。あんなに、ご馳走を食べているのに、カロリー消費が多いのだろうか?ただ快楽に身を委ねているだけなのに。出番が多いと、人に見られると女は美しくなれるものかも知れない。
愛憎とは、よく言ったものだ。知恵が、あれほど美しかったのは、愛人に対する憎悪と、ライバル意識だったのかも知れないと思った。怒りの感情が、熱い情念となって、ただ良い人、真面目だった裕子を変えて行く。汚れて行くと思っているのは裕子だけで、周囲は、その色気にあてられて、まるで、花々に集まって来る蜂のように、男性たちが周囲に群がって来る。生まれて初めて、人の言いなりにならないで、惑わされることなく自立できている感じがした。それは、腹の底から湧き出て来る怒りにも似た思い「もう二度と他人のために尽くさない。自分の思うまま、欲求に蓋をしないで、好きなように生きて行く。誰も自分を支配出来ない。私は自由だ。」男も愛した次の日に棄ててやる。どうせ永遠の愛などありえないのだから。絶対的な愛などという妄想に溺れ、人生の半分を無駄にしてしまった。本当は、悪女なのに、聖女をまとって演じていたのに気づかせてくれた。自分では彼を切ることができないから、あんな性悪女を神様は差し向けてくれたのかも知れない。
それほど、何にも縛られず、好き放題できる毎日が充実しているのには驚いた。何人恋人がいたとしても、浮気男は自分に関心が無いのだから気がつかない。誰にも裁くことなどできない。自分をコントロールする者は誰もいない。お金は、あるから旦那もいらない。お金を産まないどころか消費ばかりする男もいらない。今は、子供が欲しい。できるだけ優秀な遺伝子を取り込んで。本当に愛しあった人との間に、きっと子供が産まれてくる筈だと信じているから。40歳までには必ずつくる。だから、身体を鍛え、好きだと思える男と体を重ねる。できるだけ多く。弁護士には、相手に子供が産まれたら、すぐにDNA検査の結果をもらって、できるだけ効果的に2人を吊し上げようと今から動いてもらっている。女を詐欺罪で訴えただけでは済まされない。それなりの社会的な制裁を受けてもらわなければ、気が済まない。若き弁護士も裕子に首ったけだ。喜々として協力してくれている。明日はパーティの後に、きっと政治家の卵の西井勝と結ばれる筈。なので、病院に行って、若い頃に冷凍保存してもらっていた卵を、入れてもらう予定だ。若い頃の卵の方が、産まれた子供に障害が少ないらしいし、子供が出来る可能性は高いからだ。担当医師も裕子に同情か愛情かわからないけれど、優しい。こんなに世間は、暖かっただろうか?今まで、愛情を受け取らなかっただけなのだろうか?それとも、容姿を磨き上げて、若く美しくなったおかげなのか?どこから見ても、か細く、支えてあげないといけないと思われる儚げな感じなのに。インナーマッスルは、その柔らかくて白い肌の下に、しっかりあった。まるで、見た目は
優し気なのに、芯は強い裕子そのものだった。




