帝国の皇子 -3-
「レイン」
レインがミーアと談笑していると、そのような声がかかった。憎悪がこもったような声だった。その声の方を見たミーアは複雑な表情を浮かべる。そこに表れた感情は悲しみが多く含まれたものであったから、レインはその声の主が誰なのかすぐにわかった。
「敬愛すべき兄を呼び捨てとは、偉くなったものだな、ミスト」
レインは顔だけを向けてそう言った。ミストと呼ばれた少年は顔を大きく歪める。怒りや憎しみ、嫌悪に歪め、レインをきっと睨んでいる。
歳は十四。レインと同じく黒髪黒眼。しかし美貌という点ではレインと比べると見劣りする。今は男性の姿をしているレインであるが、たとえ女性の姿をしていたとしても、その姿の放つ威厳はレインとは比べることができないほどの差があった。それどころか、スノウにすら見劣りしていた。『帝』たる格という一点において、彼の持つものは未熟という他ないほどのものしかなかったのである。
第八皇子ミスト。レインとは正真正銘の姉弟である。父だけでなく、母も同じ。レインに最も近き血を持つ実弟である。
「……侍女。俺と兄貴が話す。退け」
その言葉にミーアはびくっと肩を震えさせ、
「は、はいっ」
と怯えた声を上げる。それにレインは呆れたように、
「ミスト。我が旧友に何たる言葉か。皇族たれば、家臣を慮って然るべきであるぞ」
「侍女如きを庇うなど、皇族たる資格に欠ける」
「貴様如きと我が旧友。どちらを優先すべきかは我が思の網にかく要もない」
レインは一切の余裕を崩さずに言う。この態度は絶対的なまでの格の違いを表していた。同じ母を持つ姉弟である二人であるが、その仲は良好であるとはとても言えなかった。レインとスノウ、レインとルーラーの方がよほど仲が良いと言えた。
「とは言っても、ミーア、我が心の狭き弟を無為に怒らせるのはお前の本意ではあるまい。ここは少し退いてくれるか?」
「お、仰せのままに」
そう言ってミーアはそそくさとその場を離れる。ミーアとしてもミストは苦手な存在であったのだ。そしてレインもそれがわかっていたからこそ、ミーアを退かせようと思ったのである。
それならミストの言葉を無視していれば良かったと思うかもしれないが、それはミーアの精神状態を理解していないと言わざるを得ない。ミストに命令されるがレインにお願いされるかでは受ける印象は大きく違う。その印象こそが重要なのだから、今回のレインの行動には何の間違いもなかったと言える。
しかし、ミーアの精神状態が良くなった分だけ精神状態が悪くなった者も居た。言うまでもなくミストである。彼はレインを睨みつけ、ずんずんと近寄っていく。
「レイン、お前、俺を舐めているのか?」
「見下しているという意味なら無論だ。私からすればこの世の人間ほとんどが『愚民』だ。皇族だからと言ってそこに違いが出るわけもない。血なんてものでこの私が人間を判別するわけがないことはお前もわかっているだろう」
「ああ。お前みたいな奴に見下されると腹が立って仕方ないってことはわかる」
「だろうな。それを意図してのことなのだから」
レインの言葉にミストは冷静を努めて保っていたが、すぐに限界がきた。
彼はレインの胸ぐらを掴み、憎悪のこもった目で睨みつける。そんな視線を向けられて、しかしレインは平静だった。冷たい目でミストを見ていた。
それがさらにミストを怒らせ、彼はそのままレインを壁に叩きつけようとした。が、壁に叩きつけられる寸前にレインの背に魔法術式が展開され減速、同時に魔法が壁に作用する。結果、レインは壁に叩きつけられたが、それは壁にもたれかかった時と同じくらいの衝撃しか生み出さなかった。魔法によって減速したレインの身体と魔法によって素材の一部が変性した壁が衝突してもレインの身体には一切のダメージがない。むしろ変性した壁と、予期せぬ減速により一瞬硬直したミストの腕の筋肉の方がダメージを負っていた。
これはある一つの事実を象徴していた。
ミストが怒りをぶつけても、レインは一切のダメージを負わず、ミスト自身が傷付くだけだということを。
ミストが本気でぶつかっても、レインは何をすることもなく、何を感じることもないということを。この一連の行為において、レインは何もしていなかったのである。ただミストに胸ぐらを掴まれ壁に叩きつけられた。それだけだ。レインの魔法はレインが意図して発動したものではない。レインが常時展開している自動防御術式でしかないのである。レインにとっては意識することなく勝手に発動したようなものなのだ。ミストの攻撃など、わざわざ意識して回避や防御する必要はないと言っているようなものなのだ。
実際のところ、レインにそのような意図があったかどうかは別だ。しかしミストはこう言われた思いだった。
『お前が何をやろうとも、私はお前を意識することすらない。お前はその程度の存在だ』
と。
ミストはそれが許せなかった。ミストにとってレインは絶対的な敵だった。憎悪すべき敵だった。許すことが出来ない敵だった。レインは、裏切り者だった。母を見捨て裏切った、最も嫌悪する敵だったのである。
帝国にも政争は存在する。帝国内には様々な派閥があるが、その中でも皇族同士の対立は最も顕著である。皇帝のような存在が側室を持つことは珍しいことではないが、その結果、側室同士で、つまり母と母とで対立することは多い。正確には母と母との対立ではなく、あくまでも皇子や皇女間での対立なのだが、それに母が巻き込まれることは非常に多いのである。
ミストは自分の存在が母の立場に大きな影響を与えることを知っている。だから彼は力を望む。そして、母の立場を悪いものへとしているレインを深く深く憎んでいるのである。
レインの悪名はこの世界に轟いている。それは帝国内でも、この城内においても同じことだ。
そんな皇子を子に持つ母がどのような立場となるのかは明白である。功績だけを見て誇りに思えるような母ならば良かったのだろう。しかし、ミストの母はそのような人間ではなかった。息子が犯した大罪の重さに、今にも押し潰されようとしていたのである。
レインの戦果はすなわち惨劇の果である。
レインの武勇伝はすなわち虐殺の記録である。
非道の記録である。
地獄の記録である。
悪の記録である。
いくつもの戦争で冷酷な手段を躊躇せずにとってきたレイン。それは常人が耐えられるようなものではなく、レイン自身だけでなく、レインを産んだ母をすら苦しめていた。
ミストは覚えている。彼の母が懺悔していた光景。天空の下に跪き、帝国で信仰されている神に向かって懺悔していたことを。私は悪魔を産んでしまったと泣いていた母のことを忘れられない。そんな母を見てきたミストだから、彼は自分の母を泣かせている人間のことを許せなかった。レインのことを、許せなかったのである。
壁にレインを押し付けたまま、ミストはずっとレインを睨んでいた。
しかし、レインの表情が変わることはない。冷たい目で、人を見ないような目で、侮蔑すらも含んでいないような目で、ミストを見ている。侮蔑の感情すらも抱かれていない。本当に、ただ見下されているだけの視線。感情もなく見下されている。床を這いずる蟻を見るかのように、本当にただ『下を見ている』だけの視線。上から下を見る。そこに一切の感情はない。一切の感情が伴わない、ただの『見下す』という行為、『下を見る』というだけの行為。レインの視線はそれだった。レインは、ミストを侮蔑の対象とするまでもない存在としてしか見ていないのであった。
「このっ、悪女がっ」
ミストは言った。激烈な怒りから発せられた言葉だった。ミストはレインが女であることを知っていた。レインはそれを隠していたが、ミストのその言葉に慌てることはなく、ただ目を少し細めただけだった。
「女の、くせに」
レインを壁に押し付ける力が増す。しかしレインの身体に展開された自動防御術式は、圧力が増加したことすらも相殺する。レインが痛みを感じることはなく、その代わりに、ミストの腕が痛み始める。
「いっそのこと、お前を、犯してっ」
そして、『犯す』という言葉が出た瞬間に、レインは笑った。
それをミストは喜んだ。レインは笑った。しかしこれはただの虚勢だ。こいつも女だ。犯すという言葉を聞いて恐怖か嫌悪か何か、とにかく何らかの感情を抱いたのだ。それを隠すために笑ったのだ。そうだ、そのはずだ。なら、こいつはそれを嫌がっているということだ。なら、俺のすることは決まっている。言葉の通り、こいつを、犯せば。
しかし、
「そう、か」
レインは、優しげに、嬉しげに、大切な誰かを想う時のような笑みを、浮かべた。
「やはり、あいつでなければいけないのか」
そう言った時、レインはミストを見ていなかった。その優しげな目は、何かを愛おしむような目は、遠いどこかを見つめていた。
そして、レインは言った。
「感謝するぞ、ミスト。お前のおかげで、再確認できた」
それは、ミストにとって、悪魔の言葉だった。最も聞きたくない言葉だった。最も聞きたくない者から言われた、最悪の言葉だった。
殺したいと願う相手から贈られた、感謝の言葉。
それはミストの意図した正反対の言葉であり、感情であり、だからこそ、ミストは絶望し、レインから、手を離した。
「では、私は行く。お前も侍女虐めから手を洗い、恋でもしてみるといい。人生が変わるぞ」
そう言って、レインはそこから去っていった。ミストはそこから動けなかった。ここから去った時、レインの表情は今までに見たことがないほどに晴れやかだった。そしてそんな表情をさせたのは他でもない自分だった。
あのようなことを言われてミストがどう感じるか、普段のレインならわかってもおかしくないはずだった。
しかし、レインにとってミストはそのようなことを見るまでもない相手だった。
レインの感謝は紛れも無く本心だった。しかしそれはだからこそこれまでになくミストの心を傷付けた。ミストは自分のこれまでのすべての思いを踏み躙られたかのような思いだった。
そしてそれはその通りだったのだ。善意か悪意か。それだけの違い。
これまでその人のためだと思ってやってきたことがすべてその人を傷付けるようなことで、最後にその人から深い憎悪を向けられた。
その逆でしかないのである。
これまでその人を傷付けようとやってきたことがその人を幸せにするようなことで、最後にその人から素直な感謝を向けられた。
そしてこれは行為こそ逆だが、それによって生じる感情は変わらない。
深い悲しみ。
深い絶望。
今までやってきたすべてのことが無駄だったということを知った人間が陥る地獄。
ミストはそこに居たのだ。これからどうするべきかわからなかった。
レインが女だということをバラしても無駄だ。誰も信じないし、信じられたとしても困るのだ。レインを男としたのは、ミストの母だ。レインを幸福にするためには、少しでも皇帝の座に近付けるためには、レインを男とするのが最善だった。それはミストの母の罪だ。もしレインが女だということが知られたならレインを皇位継承の座から遠のかせることができる。しかしそれをしたならミストの母はさらなる窮地に追いやられる。
ミストにはそれができなかった。ミストにとって最優先とするべきはレインを不幸にすることではなく、母を幸福にすることである。最優先とするべきを見失わない程度には優秀だったからこそ、ミストはこのような苦痛の中にいた。ミストにとっては、すべてが母のためだった。皇帝を目指すことも、力を付けることも、レインを不幸にすることも。
そしてそれこそが、ミストがレインの感情を撫でることすらできない原因であった。
確固たらんとしていながら、前提となるものが間違っているが故に。
それ故に、ミストは蟻だった。
しかし、ミストがそれに気付くことはない。
それこそが彼の望みを叶える唯一の手段であるというにも関わらず。




