伏魔殿と心を込めた神饌
ハザマとの話し合いを終えて部屋に戻ると、初音は光の傍らに座り、その小さな頭を優しく撫でていた。
「御影様、おかえりなさいませ。ハザマ様とお話しできましたか?」
「ああ。光が食べない理由が分かったよ」
俺はハザマから聞いたことを、そのまま伝えた。本家の使用人たちの嫉妬や陰口といった情念が、料理にまで染みついてしまっていること。それが目に見えない濁りになって、鋭い光の感覚にはひどく不快に感じられるのだということ。
初音は驚き一瞬固まっていたが、それから深く息をついて言った。
「……やっぱり、そうだったんですね。光様が我儘で食べないわけじゃなくて、よかった」
少し考えるように視線を落とし、顔を上げる。
「御影様、私に光様のお食事を作らせてもらえませんか?」
「初音が? でもお前、今は自分の体だって大事な時期だろう
「大丈夫です。無理はしませんから。それに、光様が食べられるものを作れるなら、私、嬉しいんです」
初音はポンと胸を叩いて笑った。こうなった初音は、たぶん止められない。
「……分かった。ただし、しんどくなったらすぐ言うんだぞ」
「はい!」
*****
本家の厨房は、思っていたよりずっと広かった。
初音は隅の一角を借りて、静かに支度を始めた。山の湧き水を鍋に張り、昆布をそっと沈める。火にかけて、鰹節を入れる。
湯気と一緒に、澄んだ優しい香りが立ちのぼった。
離れた場所で下ごしらえをしていた使用人たちが、ちらちらとこちらを窺っている。何か言いたげな視線だったが、誰も近づいてはこなかった。ただ、さっきまで厨房に漂っていたぴりぴりした空気が、出汁の香りで少しだけ緩んだ気がした。
初音は気にする様子もなく、野草を洗い、根菜を刻み、天然塩をほんの少しだけ振る。
俺は壁にもたれて、その背中を見ていた。時々、腰に手をやって小さく息を吐くのが見えて、そのたびに「座るか?」と声をかけると、初音は「平気です」と首を振った。
出来上がったのは、白いお粥と、出汁を張った小さなスープ。それだけの、素朴な膳だった。
*****
「光様、できましたよ。熱いから、気を付けてね」
膳を目の前に置かれても、光はすぐには動かなかった。これまで運ばれてきた豪華な料理には、見向きもせずに顔を背けていた子だ。
けれど今日は、背けなかった。
小さな鼻が、ひくっと動く。
しばらくじっと膳を見つめてから、光は匙を手に取った。お粥をほんの少しだけすくって、口に運ぶ。
初音が、息を止めたのが分かった。
光は何も言わずに、ゆっくりと飲み込む。そして、少し間を置いてから、もう一度匙を入れた。確かめるように。
三口目で、光の目がわずかに見開かれた。
そこからは早かった。匙を持つ手が止まらなくなって、お粥も、スープも、最後のひとしずくまで。膳はあっという間に空になった。
「……完食、してくれた」
初音の声が少し震えていた。それから、手を叩いて笑う。
「良かった! すごいね、光様!」
光は空の器を見下ろして、それからちらりと初音を見上げた。ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
その顔を見て、俺は不覚にも胸の奥が熱くなった。
あれだけの悪意や呪いの中でも、初音の手料理は、真っ直ぐに光に届いたのだ。
やっぱり初音は、俺たち家族の最高の『光』だ。




