雄の蜘蛛
初夏の暑い日。ガラス張りのアトリエは風を通すため、窓が少し開け放たれていた。
建物の周りにはミモザやらユーカリ、ニセアカシア、バラなどが鬱蒼と植えられており、道路などの外からは中の様子がまったく見えなくなっている。
俺は木陰に隠れ、そっとアトリエの中を覗き込んだ。
モデル台の上では、初音が静かに眠っている。妊娠すると酷く眠くなるそうだが、雨宮も無理に起こそうとはせず、ただじっと初音の寝顔を眺めていた。
――ここまでは良かった。
だが次の瞬間、奴は初音が身につけていた黒いレースの服をそっと剥ぎ取り、あろうことか初音の裸を鑑賞し始めたではないか!
「何しやがんだ、てめーっ!」
俺は血相を変えてアトリエに踏み込んだ。
すると雨宮は慌てる様子もなく、手元にある『父親の描いた絵』と初音の裸体を静かに見比べている。
「おい! 見るだけなら良いと思ってんのか? さっさと服を着せろ!」
俺が怒鳴り込むと、雨宮はふっと笑い、「やっぱり来た」と、俺が踏み込んでくることまで計算していたかのように言った。
雨宮は初音の体にそっと上着をかけてから、「……お願いがあるんだけど」と、先ほどのスケッチブックを俺に差し出してきた。
「父の心を、君の能力で読み取ってほしいんだ」
「何が知りたいんだ?」
俺が警戒しながら問うと、雨宮は少しだけ表情を落とした。
「この絵を最後に、父は一切絵を描かなくなったんだ。構想の下描きだけで終わった。あれほど『この人だ!』という妊婦のモデルを探し出して、あんなに意欲を見せていたのに」
「しかも、あとは坂を転がるようにアルコールに溺れ……結局は、死んだ」
最初から能力を使わせるために俺を煽ったのか。
「……しょーがねーなー」
俺は渋々スケッチブックを受け取り、そこに残された残留思念を読み取った。
――流れ込んできたそれは、雨宮にとって決して良いものではなかった。
「知るためには、覚悟がいるぞ?」
「うん。覚悟できてるよ。……なんだったの?」
「妊婦が、雌の蜘蛛に見えたんだとさ。蜘蛛も妊婦も、お腹がぷっくりしてるだろ?」
「……それだけ?」
「蜘蛛って、交尾をする前や後に、雄を食べて栄養をとるだろ? お腹の卵のため……つまり、子供のために」
「…………雄の命なんて、次の世代のための糧でしかない……か」
俺は重い事実を、そのまま雨宮に告げた。
「親父さんは、お前という『才能』のために、自分はただの踏み台だったと思ってしまったらしい。世間に評価されたのも、結局は息子が描いた絵の方だったからな」
「……あぁ、だからパッタリと描かなくなってしまったんだ……そっか……」
雨宮は力なく呟き、スケッチブックを見つめた。
少しだけ同情した俺は最後にこう付け足した。
「親父さんが描けない時、お前が代わりに描かなければ、親子で食べていけなかったんだから……仕方ないよな?」
なんの慰めにもならないと思いながらも、こう言わずにはいられなかった。




