研鑽と冷雨 ⑤
コース内際の芝は、前走のレースですでにかなり荒れていた。朝方から降り始めた小雨の影響もある。
芝二千。緩やかな上り坂を越え、零はファステラウンをあえて馬群の外側へ出していった。走行距離は延びるが、荒れた足元で集団に揉まれるより、かえって消耗は少ない、と判断した。
第三コーナー。中団がややばらけた。手前の下り坂で、先頭の馬が加速した。それに引っ張られた馬が数頭いて、ややペースが乱れたのだ。
零は、ペースを維持した。西暢は零の左前方でポジションを堅持している。一頭が後ろから抜いていくが、慌てることはない。
第四コーナーが迫った。外を回った。先ほど抜いていった馬の尻は捉え続けている。ファステラウンは十分に脚を溜めている感じがある。
ファーストステップが、後方から猛然と追い上げてきた。直線を見据え、内側を抜いていく。
泥が匂った。コーナーを抜け、西が仕掛ける。先頭がつくった、三馬身半のリードを削ぎ落としていく。
馬首の後ろを押す。ファステラウンが集団を抜け出し、ファーストステップの後方につく。さらに前方で、先行が西に入れ替わる。
第三コーナーで前に上がった馬が、直線に入っても伸びずにいる。沈む。ただそうなればいいものを、外へ寄って来た。
偶然か、無意味な意地か。わからないが、外から上がりつつあるファーストステップとファステラウンは、このままだとさらに外へ押し出されるかたちになる。
それを察知した熊谷は、一呼吸早く対応し、ファーストステップのペースを上げた。余地を確かめて邪魔な馬を躱し、直線を駈け上がっていく。
ファーストステップの後方につけていた分、零とファステラウンは一拍遅れた。垂れてきた馬が、山の影のように覆い被さってくる。
エマ。彼女は、不動の山そのものだった。
道着を与えられ、稽古場で対峙し、散々にうちのめされた。立ち上がっては投げられ、畳に打ちつけられた。
畳に這いつくばって、こんなことになんの意味があるのかと考えかけると、蹴り起こされた。
つべこべ考えるな。立て。そう言われ続けた。
立っている限り、負けではない。自分に負けないことを、エマに叩きこまれたのだと、いまならわかる。レースでの勝敗は、ある種、ときの運だ。
エマとの稽古の記憶が蘇ったのは、一秒にも満たない、わずかな時間だ。時間というより、光だった。
馬の肩と肩がぶつかった。譲らず、零は、雄叫びをあげた。ファステラウンが反応する。それで、よれかかってきた馬は弾かれたようになった。
道が開いた。ファーストステップを追った。
先行する西の馬が限界に達していた。馬の質の差。距離はみるみる縮まっていく。
上がり三ハロン。ファーストステップを躱す。西の背中。手が届く位置だ。
冷たい雨が、ゴーグルに当たって弾けた。音。なにかが折れるような、鈍い音が聞こえた気がした。
なにが起こったのか。
ファステラウンではない。視界の隅で、零に食らいついていたファーストステップが、ふいに消えた。
後ろを振り返る余裕はなかった。西の馬と横並びでゴールした。
「担架だ、担架を持ってこいっ」
怒声が聞こえた。
馬上で振り返った。天道陣営の年嵩の調教助手が、鬼のような形相でコースに飛び出してきた。
すでに他の馬もゴールし終えていた。コースの内ラチの傍に、ファーストステップが片足を上げて立っている。
足が、別のもののように揺れた。
熊谷が、芝コースの隣のダートに倒れていた。そちらにも救護スタッフが急行する。
助け起こされた熊谷は、意識はしっかりしていて、自分の足で立ち上がってファーストステップの傍に歩いていく。
起こったことが、次第に理解できてきた。
ファーストステップの前肢の片方が折れた。そして、内ラチに激突し、その衝撃で鞍上にいた熊谷は隣のダートに放り出された。
あるいは、ファーストステップは、熊谷を庇ったのか。
零が抜いた段階では、ファーストステップは内ラチに寄ってはいなかった。もしそこで熊谷を落としていたら、後続の馬群に踏みつけられていたはずだ。
そうなることを避けるために、自ら内ラチへぶつかりにいって、熊谷をダートに逃がしたのか。
わからない。ただ、ありえないことではない、という気はした。
天道もコースに出てきて、年嵩の調教助手とともにファーストステップの傍らに膝をついた。傷の状態を確かめ、集まってきた救護班となにか言い交しているが、零の場所までは聞こえてこない。
緑の十字が印刷された救護車が回され、担架に乗せたファーストステップを、十数人がかりで荷台に運び入れた。
ファーストステップが搬送されるまで、十分とかからなかった。
観客は目前の出来事に騒然としている。
コース傍で控えていた報道陣の中に、あいが立っていた。
報道陣は雨具を着ているが、屋内のモニタールームから天道と駈けつけたであろうあいは、傘すらさしていない。
あいは、零の視線に気づくことなく、救護車が走っていった方を茫然と見つめていた。
ウィナーズサークルでの口取り式をし、検量所に入ると記者たちが待っていた。GⅠ初勝利の感想を求められた。
「まだなんの感慨もありません。ファステラウンは強い馬でした。ただ速いというだけでなく、途中で危うい場面もあったけれど、押し負けない強靭さがあった。だから勝てた。それに尽きると思います」
丁寧に伝えたつもりだったが、いま一つ反応の悪い記者の顔が目の前に並んでいた。欲しいコメントではなかったのか、とぼんやり考えた。
「もう一つ、質問よろしいでしょうか。骨折して搬送された、ファーストステップについてなのですが」
やはり骨折だったのだ、と零は思った。同時に、そんなことを訊いてくる記者に、苛立ちを覚えた。
口を開きかけた零の前に、松田の背中が割りこんできた。
「すみませんが、そのことについてはなにもお話しできません。これ以上のインタビューも、また後日、改めてお願いします」
松田はぴしゃりと言い、零の手を引いて記者の前から連れ出した。
「ありがとう、松田さん」
「あんなこと聞かれたって、零は答えようがないって、考えればわかるじゃんね」
あの瞬間、自分はなんと言おうとしたのか。
松田が現れなければ、きついことを言っていたかもしれない。
「松田さんがいてくれてよかった」
本心から、そう思った。




