長い夜と雲の影
ファーストステップは、救護車で美駒トレセンの診療所へ運ばれた。
常駐している医師の診断かろ、予後不良と伝えられた。
ファーストステップが内ラチにぶつかる瞬間を、天道は、検量室の一角にあるモニタールームで見ていた。
真っ先に久瀬が飛び出して行って、僅かに遅れて天道も続いた。あいが付いて来ていたのだと気づいたのは、後になってからだ。
ファーストステップは三年前に一度、前肢の靭帯の炎症を起こしかけたことがある。
その際は、早期に発見し、遠野の判断でしっかり休養をとらせ、大事には至らなかった。
だが、健脚な方ではなかったので、過度な調教は課さず、異常には十分に注意を払ってきたつもりだった。
レース前日も、久瀬がファーストステップの馬体を隈なく触診し、心拍や体温を測り、異常がないことを確認していた。天道自身もそれには立ち合った。
なにか見落としがあったのか。あるいは、雨天で荒れた馬場で、突発的に起こったことなのか。
落馬し、病院で検査を受けていた熊谷から、無事だと連絡が入っていた。
会議などに使われる一室を借りた。
この場にいるのは、天道、久瀬、沼倉、そしてファーストステップのオーナー、四人だけだ。
診療所からここまで移動する間、誰も口を開かなかった。
「すみません、オーナー。すべては、俺の責任です」
部屋に入るなり、久瀬が深く頭を下げた。
「よしてください、久瀬さん。あなたが、誰よりもファーストステップを大切にしてくれていたのは、わかっているつもりです」
「しかし」
「競馬の世界に身を置く限り、どれほど心を砕いても、馬の故障は起こり得る。そうでしょう?」
「だとしても、仕方なかったなどと、口が裂けても言えんです。思ってもならんことだ」
「責任を感じてくださっているのは、わかりました。しかし、ならばオーナーである私にも、責任はある。引退する前に、せめてGⅠを一勝させたい。そう望んだのは私で、あなた方は、その私の望みを全身全霊で叶えようとしてくれた」
「レースで馬を勝たせることが、俺たちの仕事です」
「馬は、レースの勝敗がわかっていると、久瀬さんは思いますか?」
「わかりません。ただ、健気なのだと思います」
「馬の健気さを利用して、我々は競馬をやっている、ということですか」
二人の会話が、微妙な方向へいっている、と天道は感じた。感傷に浸るのはいますべきことではない。
「二人とも話はそのへんで。僕らはここで、決めなければ」
ファーストステップが予後不良と診断された。安楽死という選択肢が、一つ。手術をするという選択肢も、もちろんある。ただ、馬をいたずらに苦しめる可能性はつきまとう。
選ぶのは、二つに一つだ。
「レース中の出来事です。それに動じていては、正しい判断は下せない。誤った判断をして苦しむのは、僕らではなく馬だ」
天道が言うと、オーナーは呻きに似た吐息を洩らした。
沼倉は直立したまま目を伏せ、置物のように動かない。あいと診療所に残してきてもよかったが、沼倉の今後を考えて、同席させることにした。
最終決定権を持つのはオーナーだが、ファーストステップについて一番把握しているのは久瀬だ。
しばし、天道は久瀬と意見を交換した。
沼倉は意見を出すことこそしないが、しっかり耳を傾けているのは、様子で伝わってきた。久瀬も、沼倉に意見を求めようとはしなかった。
手術を受けさせる方向で、厩舎陣の意見はまとまった。それをそのまま、オーナーに具申する。
ファーストステップの怪我の状態と、手術した場合、術後にどういうことが起こり得るか、噛み砕いて説明した。
四人とも椅子に腰を掛けず、立ったままだった。四人で並ぶと、久瀬が一番身長は低い。
窓の外はいまだ小雨が降り続いていて、照明をつけていない部屋は薄暗い。
「どういう手術が、行われるのでしょう」
天道が説明を終えると、オーナが訊いてきた。
「医師の判断にもよりますが、おそらく、骨の代わりに金属を入れ、それと無事な部分の骨をボルトで繋ぐ、といった手術になると思います」
オーナーは決断しかねるように、視線を宙に彷徨わせた。
「手術が成功し、順調に回復したとしても、もと通りに駈けられるようにはならないのでしょうね」
「いまのファーストステップは、もう競走馬ではありません。速く駈けることは、考える必要はないかと」
天皇賞で引退させると、オーナーには承諾を貰っている。
「わかります。が、引退後のファーストステップが、牧草地でのびのびと駈ける姿は、どうあっても見られないのですね」
生き延びさえしてくれればいい。言いかけ、天道は言葉を呑み込んだ。
「俺は、立っているあいつの顎を、もう一度撫でてやりたい」
しばらく黙っていた久瀬が、ぽつりと言った。
オーナーが頷き、手術を決定した。
傘を差して診療所に戻った。
診療所の前にある、馬の目に入った泥を洗い流す水場に、あいがいた。
水場と同じ屋根の下には、検診する馬が身動ぎしないよう繋ぎとめておく柱がある。柱は四本あり、馬体を傷つけないように緩衝材が巻かれている。
「手術をすることに決まった」
天道が言うと、あいは安堵の表情を浮かべた。あいの頭にも、安楽死はちらついていたはずだ。
天道は一人、扉で仕切られた診療所の奥の部屋に入っていった。
奥の部屋は、内科と外科で、さらに二つに区分されている。
ファーストステップは外科治療用の寝台に寝かされていた。麻酔が効いていて、夢とうつつの狭間にいる状態だった。骨の折れた左の前肢は、副木を添えて固定してある。
動物用の心電図モニターの前に立っていた医者に、手術の意向を伝えた。
「難しい手術になりますが、できるかぎりやってみます」
「人手は、どのぐらい必要になりそうですか」
遠野厩舎で調教助手をやっていた頃、脚の怪我をした馬の治療に、特別な医師団を編制して当たっていたことを思い出し、天道は常勤医師に尋ねた。
「執刀医は三名、それを介助するスタッフが少なくとも二十名は必要になると思います」
「わかりました。CRA(中央競馬協会)にかけあってみます」
それから治療までの段取りを話し合い、部屋を出た。
あいは所在なさげに、まだ目洗い場のところで待っていた。
「いつまでも濡れたままでいたら、風邪をひく。調整ルームかどこかで、シャワーを借りられないか聞きに行こう」
「はい」
「そのあと、なにか軽く食べに行こう」
天道が笑いかけると、あいはぎこちなく、ささやかに笑い返した。
あいを同じ傘に入れ、冷たい雨の中を歩き出した。




