長い夜と雲の影 ②
頭が冴えてしまっていた。
時計を見ると、二時間くらいは微睡んでいた。
夏季期間の始業より、さらに一時間早いが、眠り直せそうになかった。
あいは、作業着に着替え、その上からダウンジャケットを着て天道厩舎に行った。
月は低い位置まで降りてきているが、外はまだ夜の暗さである。
厩舎の一角にある事務所の窓から、光が漏れ出ていた。カーテンが閉められていて、その隙間から漏れる光なので、線のように細い。
「天道さん」
中に入ると、天道がデスクに向かって仕事をしていた。
「早いな、あい。いや、早過ぎるよ、さすがに」
「天道さんこそ」
「たまたま目が醒めて、もう寝れそうになかったから」
「私もです」
あいがくすりと笑うと、天道も優しい笑みを浮かべた。
「おいで。ストーブをつけようか」
天道が自分のデスクの近くまで電気ストーブを引っ張って来て、スイッチをつけた。あいは適当なパイプ椅子を持って、天道の傍らに座った。
身も凍る寒さの中、天道は暖房をつけずにいたのか。
「なにをしていたんですか?」
なぜ暖房をつけずにいたのかも疑問に思ったが、口を出たのは別のことだった。
「うちの馬たちの、来年の出走スケジュールを考えていたんだ。草案といったところかな」
「見ても、大丈夫ですか?」
「他所で話さなければ」
「なら、やめときます。話さないですけど、部外者が見たらあまりよくないものなんですよね。私はまだ、ここの一員じゃないから」
「あと一年半か」
一年半後には、天道厩舎所属の新人騎手としてデビューしている。トレセン実習を通して、騎手になったあとの自分を思い描けるようになった。
その前に、模擬レースで零と競走する。
一年生のはじめに交わした約束は、目標であると同時に、新しいスタートラインになりつつある。
「すみません、仕事の邪魔ですよね。私、馬具庫で銜を磨いてます」
「一緒に行こう」
「え、でも、いいんですか?」
「ああ、草案はだいたい完成した。行こう」
点けたばかりのストーブのスイッチを切って、馬具庫に移動した。
馬具庫は、錆や黴を防ぐため、常に空気の通りがよくされている。夏用の冷房機具が付いていないことを除けば、馬房と同じで、部屋の隅々まで掃除も行き届いている。
天道とベンチに並んで腰かけ、銜を磨きはじめた。
始業前に銜を磨くのは、久瀬との習慣だが、昨日、久瀬はここへ現れなかった。
「天道さんはどうして騎手になろうと思ったんですか?」
「そういえば、話したことなかったね」
「これまで、いつも私の話を聞いてもらうばっかりだったので。私も、天道さんのことが知りたいって、ずっと思っていたんです」
「そうか。ちょうどいい機会かもしれないな」
銜を磨く布を使いながら、天道は言った。
「月並みな理由だけどね。馬が好きで、騎手に憧れた。死んだ祖父さんが騎手だったんだ。けれど親父は、馬のことばかりで家族を省みなかった祖父さんと、騎手という職業を疎んでいてね」
「反対されたんですか?」
「はじめはね。ついには見放された。祖父さんの口添えがなければ、入試の面接は通らなかったかもな。いまだに、親父とは会ってもろくに口をきいてもらえないんだ」
「そんな」
「ま、しかたない。妹がいてね。その妹が、僕の代わりも孝行してくれている。おかげで、いくらか救われている、というのはあるな」
天道が身内の話をしてくれているのは嬉しいが、素直に表情に出すわけにはいかなかった。
「目を病んで、騎手の道を閉ざされた時に、考えた。競馬の世界から身を引いて、親子の縁を修復できるかも、って」
「天道さん」
「結局、遠野さんに差し伸べられた手を取ったんだけどね」
「遠野さん。前に亡くなられた、調教師の方ですよね」
「ああ。調教に関して、僕の師匠だった」
「騎手時代にも、いたんですか? 天道さんにとっての師匠みたいな人」
「そうだなぁ。しいて言うなら、暢さんかな」
「西暢さんですか。最年長で現役の」
「そう。騎乗スタイルは違ったけど、騎手の心構えなんかは、デビュー後、あの人を見習った気がする」
天道が曇り一つない銜を壁掛けに戻し、次のものを手に取った。あいもそうした。
「あいは、まだ西さんに会ったことないか。会いたい?」
「はい、会いたいです」
「今度、ラクシャに乗ってもらおうと考えてる。騎乗依頼を受けてもらえたら、会って話すタイミングもあるかもね」
「ラクシャは、天道さんが乗ったことのある馬の子どもなんですよね。北本さんが教えてくれました。すごい馬だったんだって」
「三冠馬だった。ラクシャは、僕の方から付き合いのある馬主に頼んで、オークションで競り落としてもらったんだ。高い買い物をさせた分、結果を出せなきゃ、締め上げられるかも」
茶化すように言ったが、まるきり冗談でもないのだろう。
「予後不良になった馬が、二頭いた」
ふいに、天道が言った。冷たい手で、心臓を鷲掴みにされた気分に、あいは襲われた。
「現役時代に僕が騎乗した馬でね」
「その、馬たちは?」
「死なせるしかなかった」
指先が震えた。天道は、銜を磨き続けている。しばらくの沈黙のあと、あいも磨くのを再開した。
無事に引退したとして、セカンドキャリアを歩める馬が、ごく一部なのだということは、トレセンで見えてきていた。
「馬を死なせるたびに、夜が長くなる」
呟くように、天道は言った。
返す言葉は見つからなかった。
競馬では、馬が死ぬことは起こり得る。
その現実に直面してもなお、騎手になりたいという気持ちが揺るがない自分に、あいは気づいていた。
馬郷で、山南に借りたビデオを、テープが擦り減るほど繰り返し見た。現役時代の天道の騎乗を映した映像で、こんなふうに強く生きたいと、憧れを抱いたのが原点だった。
そして、零に出会った。
零のように、自分のすべてを振り絞り、ぶつけるような闘いをしてみたい。他のことでそれができるとは、どうしても思えなかった。
ただ、馬の死に、なにも感じない人間にもなりたくなかった。
昨日、美駒トレセンから御園トレセンに移送されたファーストステップに会うために、熊谷が来た。
天皇賞でファーストステップに騎乗した熊谷は、三角巾で片腕を吊っていた。御園トレセンの診療所の寝台に横たわるファーストステップに会うと、涙を流しながら、すまない、と繰り返した。
レース中、熊谷がファーストステップを責めすぎたようには見えなかった。しかし熊谷は、天道が肩を叩くまで、涙を流し続けた。
その熊谷の姿が、鮮烈に心に焼きついて消えない。
「昨日、美駒トレセンの食堂で食べた丼もの、あれ、おいしかったね」
天道が話題を変え、あいはそれに乗っかった。
銜をすべて磨き終えるまで、他愛ない話を続けた。
「天道、そろそろ」
馬具庫の外から、嗄れた声がかかった。久瀬だった。
「時間ですか」
天道が腰を上げた。三人で厩舎の外に出た。東の空が白んでいる。
医師団を出迎えに行く二人を見送り、あいは乗馬のための身支度に取りかかった。




