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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十八話

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長い夜と雲の影 ③

 ファーストステップの折れた左前肢の手術は、無事成功した。


 他所の厩舎の馬に乗馬しに行っていて、あいがそれを知ったのは、正午を回って天道厩舎に戻ってからだった。


 乗馬中はなるべく考えないように心掛けていたが、やはり気持ちはずっと張り詰めっぱなしだった。


 沼倉から手術が成功したと聞いて、あいはその場にへたりこみそうになった。


「よかった。これで、ファーストステップは助かるんですね」

 あいは安堵の息を吐いた。


「だといいんだが」

 沼倉は歯切れ悪く言い、仕事に戻った。


 手術から三日が経ち、ファーストステップが天道厩舎の馬房に戻された。


 ファーストステップは自立していた。左前肢には副木を当てて包帯が巻かれているだけで、ギプスで固定されたりはしていない。


 歩くには歩けていたが、痛むのだろう、左脚を庇う歩き方をしていた。


 粉砕骨折をした骨の代わりに、鉄の棒を入れ、無事な部分の骨とボルトで繋いだのだと、天道からは聞かされていた。


 専門的医療知識のない自分にむけて、かなり噛み砕いた説明なのだろう、とあいは思った。


 久瀬はほとんど付きっきりでファーストステップの看護をしている。


 二日に一度、獣医師が診察にきて、術後の経過に関して久瀬と話をした。


 食事や排せつの量、体温、睡眠時間などの他、ファーストステップの時間別の行動まで、久瀬はこと細かにメモを取り、天道や獣医師と共有しているようだった。


 久瀬が他に担当していた二頭の馬は、天道と北本が管理を替わっている。


 角馬場で、歩様の均整を崩した馬を修正する日々が続いた。


 他所の厩舎に呼んでもらえる機会は日に日に増えていて、多いと一日に三つの厩舎を回る、ということもあった。


 限られた時間の中で、フィジカルトレーニングも欠かさなかった。大矢、杉本と集まり、三人で坂路コースを走り込む習慣も、毎日ではないが復活した。


 二人の同期は、すでにコース調教に出ている。コースでは、単独で駈けることもあれば、二、三頭での駈け合いもやる。駈け合いは、併馬《あわせうま》と呼ばれる調教の方法だった。


 コース調教に出させてもらっていないのは、あいだけである。その焦りは、徐々にだが、確実に蓄積していた。


 だがそのことを口にすると、大矢には殊のほか本気で、厩舎の垣根を越えて様々な馬に乗馬していることを羨まれた。


 十二月になり、第一週の週末に向けて、天道厩舎から七頭の馬の出走が投票で決まった。


 レース直前の追い切りが重なる木曜日は、久瀬もファーストステップに付きっきりというわけにはいかなかった。


 金曜の夕刻に、北本が二人の厩務員を連れて関東へ向かった。三頭が、中山でのレースに出走する。その内の一頭は、芝三千六百のGⅡへの挑戦だった。


 あとの四頭は、中京と阪神の競馬場だった。そちらには天道が出向き、沼倉とほか一名の厩務員が随行した。


 あいは、久瀬と共に厩舎に残された。


「藤刀、ファーストステップを砂場へ連れて行きたい。付き合ってくれんか」

「あ、はい」


 馬房の掃除を終えたところで、久瀬に声をかけられた。


 ファーストステップを馬房から引き出す。左前肢を庇うような歩き方は直っていない。


 久瀬と、ファーストステップの歩調に合わせて、ゆっくり砂場まで歩いていった。


 普段の四倍近い時間をかけて、砂場に到着した。


 久瀬に介助されながら、ファーストステップは砂場に寝転んだ。怪我をする前は、砂の上で奔放に寝返りを打っていたのを、あいは思い出した。


「大人しくな。思うさま砂にまみれるのは、傷が完全に癒えたらだ」


 ファーストステップの耳元で、久瀬が言った。ファーストステップが首を上下させた。頷いたようにも見えたが、砂に頬擦りをしただけかもしれない。


 あいはファーストステップの背中の方へ回り、砂を掬い上げ、肩にかけてやった。しばらく、それを繰り返した。


 ファーストステップを連れて厩舎に戻ると、居残っていた厩務員が、久瀬に話しかけてきた。

 久瀬と同じ、遠野厩舎時代から働いている年嵩の厩務員だ。


 阪神のダート千四百のレースに出た五歳牡馬が一着を獲ったと伝えてくる。調教助手と厩務員の立場の違いはあれど、同輩といった空気感だ。


「そうか、勝ったか」

 久瀬はぼそりと言った。


「昨日のステイヤーズステークスと合わせて、今週で二勝だぞ、久瀬」

 久瀬の同輩は、力づけるような口調で言い、久瀬の肩に手を置いた。


「あとの三頭は?」


「一頭は着外だったが、二頭は二、三着と健闘した」


「俺も、老いぼれてはいられんな」


「おう、そうだぞ」

 久瀬の同輩は喜色を浮かべ、久瀬の肩を軽く揉んでから離れていった。


 あいは横で、久瀬の目をじっと見つめた。同輩と話す間も、久瀬の目の暗い光は微塵も変わることはなかった。


 あいの視線に気づき、久瀬が口元だけで笑った。


「どいつもこいつも、俺に気を揉んでどうする」


「でも」


「つらいのは、俺ではない」


「はい」


「もう仕事に戻れ」

 久瀬が、手であいを追い払う仕草をした。


 馬房に戻す前に、ファーストステップの身体についた砂を払い落し、温い湯で湿らせた布で馬体を拭ってやるのだろう。


 手伝いたいと思ったが、人を拒む久瀬の背中に、言い出すことはできなかった。

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