長い夜と雲の影 ④
西が手綱を引き、芝コースのスタート地点でラクシャを止めた。
三頭立ての併馬で、一周してきたところだった。
天道は、西に馬を寄せた。沼倉は遠慮してか、ついて来ようとしない。
「なにを見てるんです?」
「あそこの馬場で、裸馬に乗ってる子ども。あれが噂のか」
芝コースから見て、ポリトラックと長距離用ダートコースを間に隔てて、その外に角馬場がある。六種類あるコースの幅は、およそ十五メートルほどだ。
角馬場で鞍を着けずに天道厩舎の馬に乗っているのは、あいだった。
「あれで、バランスを崩した馬の修正ができるとは、ちょっと信じられないな」
「でも、事実ですよ。あの馬は、ただ運動させているだけですけどね。昨日は強い調教をさせたんで、今日は軽めでいいと言ってあります」
「鞍を載せない分、馬にストレスを与えずに運動もさせられるか。乗る人間に、鞍がなくとも乗りこなせる技量があればの話だが」
「どうですか、暢さんから見て」
「まあよく折り合えている」
西が目を細めて答えた。
「話してみませんか?」
「興味はあるな。しかし、急に俺に会わせられたら、迷惑じゃないか?」
「あたふたするときのあいは、見ていて可愛いですよ」
「お前なあ」
西は呆れるように苦笑した。
天道と西は馬を降り、調教スタンドの方へ歩いていった。
調教コースの外で、北本が待っていた。西は北本にラクシャの手綱を返し、天道は沼倉に馬を預けた。
北本と沼倉は、三頭の馬を連れ、先に厩舎に戻った。
「あい」
馬場の囲いの外から声をかけ、手招きをした。
天道の姿を認めると、あいは馬首を巡らせて駈け寄って来た。柵の前で馬を止める。
そこまでの動作で、ほとんど手綱を使うことはなく、すべて腿の引き締めや重心の使い方で馬を操作していた。
「紹介したい人がいてね。少しいいかい」
「はい」
あいが馬の背から飛び降りた。馬があいと離れ難そうに服の裾を食んだ。
あいが馬の鼻面を撫で、待っててね、と話しかけると、馬は素直に咥えた服の裾を放した。
柵を潜って外に出てくると、あいはすぐに、天道の横にいる人物の顔に気づいた。
あっ、と声を上げると、赤白の帽子を脱ぎ、背筋を伸ばして直立した。
「騎手課程二年の、藤刀あいです」
「騎手の西暢です」
「この前、話したいと言っていただろう。コースからあいが見えたからさ、来てもらったんだ」
天道が言うと、あいは、こくこくと激しく首を縦に振った。
「ね、可愛いでしょう」
西に笑いかけると、脇腹を軽く肘打ちされた。
「噂では聞いていたけど、ほんとうに鞍を着けずに乗馬しているんだね」
北本に動いてもらい、あいの噂をトレセン内に広めた。その効果もあって、あいの噂は現役の騎手にも聞こえているらしい。
「どこでその乗馬を身に付けたんだい?」
「馬郷です」
「うまごう?」
「あ、実家の近くにある牧場で」
「ほら、山南が譲り受けた牧場、あったでしょ」
「ああ、あそこか。ということは、彼とも面識があるのか」
西が視線をあいに戻すと、あいは再び赤べこのように首を振った。
「山南の牧場で乗馬を覚えて、小早川のいる競馬学校で学んで、いまお前のところで実習を受けているのか。めぐり合わせだなあ」
西はしみじみと言った。
「この前、あいに暢さんの話をしたんですよ」
「なに、悪口じゃないだろうな」
「違いますよ。調教師としては遠野さんに育ててもらって、騎手の心構えなんかは暢さんから学んだって教えたんです」
「お前が、俺を? 嘘言うなよ」
「ほんとうですよ」
「なんにせよ、遠野さんと並べられるとは恐縮だな」
「何言ってるんです、若い子にとっちゃ、暢さんは生きる伝説ですよ」
「それ、あんまり嬉しくないんだよな。生きた化石みたいな扱いじゃないか、ね?」
西に意見を求められたあいが、しどろもどろする。
ファーストステップの故障以来、こうしてころころと表情を変えるあいは、あまり見られていなかった、と天道は思った。
「駿が俺の弟子なら、君は俺の孫弟子ってことになるのかな?」
「なんだ、暢さんもまんざらじゃないな」
「彼女に訊いたんだ。お前は少し黙ってなさいよ」
天道は首を竦めて一歩引いた。
少し離れたところで、新人騎手が三人、西に挨拶するタイミングを測っているのか、こちらを窺っていた。新人なのは、帽子の色を見ればわかった。
「今度、機会があったら一緒に駈け合いでもしよう」
「お願いします」
「じゃあ、またね」
西があいとの話を切り上げた。目配せされたので、あいに一言かけてから、西のあとについて行った。
「どうでした?」
「これまでの学生には、あまりいなかったタイプだ」
「面白そうでしょう」
「お前ってやつは。まあいい。それより、ラクシャの件だが、引き受けるよ」
西にはラクシャの騎乗依頼を出していた。
十月に新馬戦を終え、ラクシャは目下、競走馬としての身体をつくることに専念していた。
「次の出走は、来年の二月を予定しているんだったか」
「ええ」
「新馬戦から随分間をあける。それだけ期待を懸けられる馬ではあったが」
「来年はラクシャと、日本ダービー、ジャパンカップあたりを狙っていくつもりです」
「わかった。俺も、そのつもりでいるよ」
「よろしくお願いします」
自厩舎の屋根が見えてきた。
「おっと、そういえば事務局に用事があったんだ」
「そうですか。じゃ、ここで」
「ああ」
西が踵を返しかけて、立ち止まった。
「駿、ファーストステップはどうだ」
「様子を見つつ抗生剤を投与して、傷の化膿は防げました。経過は、今のところ順調です」
「そうか」
「ただ、ストレスが溜まっているのか、馬房で嘶きを上げる頻度が増えています。久瀬さんの話では、深夜に馬房の壁に体当たりをしていた日もあったと」
「難しいな」
「できるかぎりのことをします。オーナーは、治療費に関して、糸目はつけないと言ってくれていますし」
目立った戦績を上げられず引退したファーストステップの、種牡馬としての価値はあまりない。
オーナーは、それとは無関係に、ファーストステップの余生の安息を祈っているのだ。
西は微かに頷いて、事務局の建物の方へ去っていった。
厩舎を覗くと、ファーストステップの馬房の前に久瀬がいた。
久瀬は草津市内に家を持っていて、そこから通勤していたが、ここ半月はほぼ厩舎に泊まり込んでいた。
安定していたと思っていた馬の傷病が、一夜で急変するということは、しばしば起こる。
目が離せないのは確かだが、久瀬が一人で背負う必要はなかった。
持ち回りで、宿直の人間はいるのだ。なにか異常があれば、宿直がすぐに気づく体制は、遠野厩舎の頃から引き継いでいる。
「久瀬さん、少し休んできなよ。その間、僕が代わりにここで見ているからさ」
「天道」
「今夜も泊るんだろ」
「いろいろと、すまんな。二時間したら、戻る」
久瀬はのっそりと立ち上がり、厩舎を出て行った。
泊まり込みを止めろと言ったところで、久瀬が聞き入れるとは思えなかった。そこはすでに諦め、久瀬の気の済むようにやらせようと肚をくくっていた。
ファーストステップは、床に敷き詰められたウッドチップの上に横たわっていた。目を閉じているが、眠ってはいない。
馬にとって、横臥は決して楽な姿勢ではなく、熟睡するときなどはむしろ立ったままだったりする。
ファーストステップの額にある、雲の影のような模様が半分、ウッドチップに埋もれていた。




