↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十八話

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
104/132

長い夜と雲の影 ⑤

 獣医師がやってきた。


 天道は、挨拶をして、ファーストステップの馬房へ通した。


 空は皮肉なほどに青く澄み渡っている。


 厩舎に入ると、久瀬が、柵から顔を覗かせているファーストステップの鼻面を撫でているところだった。

 久瀬は獣医師に目礼し、馬房の入口を開いた。


「悪化しています」


 ファーストステップの右前肢を診て、獣医師が言った。


「やはり、そうですか」


 ファーストステップが右前肢に蹄葉炎《ていようえん》を発症したのは六日前だ。


 応急処置をし、経過を観察してきたが、芳しくなかった。


 天道も、馬の病気についてはかなり勉強している。

 調教師試験の学科項目に含まれていたからだが、調教師になって、知識は絶対不可欠だと思い知った。


 勉強は、日々、続けている。


 特に獣医学に関しては、人の医学と同様に日進月歩で、学ぶことを怠るとあっという間に置いていかれる、という恐怖がある。 


「どうしても、骨折した左前肢を庇ってしまうのでしょう」


 蹄の中を通っている血流の、循環不良が原因で発症する病気である。


「ご存知でしょうが、脚を故障した馬が、術後しばらくして蹄葉炎を発症するケースは、少なくありませんので」

 獣医師が続けて言った。


 馬は、人間の数倍の体重がある。そのうえ、四肢の一つに故障を抱えれば、他肢にはかなりの負担がかかることになる。


「手立てはありますか」


「これ以上は。かりに治療をしても、苦しませるだけかと」

 獣医師が目を伏せた。


 馬房の外に立っている久瀬を振り返る。久瀬が、顎を引くようにして頷いた。


 改めて、馬房の中を見渡した。


 ファーストステップが暴れた痕跡が残っている。毛並みの艶は失われ、ところどころに裂傷を負っている。


 頭も打ちつけたのだろう。額に傷があった。額の雲の影の模様は、千切れたようになっている。


「楽にさせよう」

 言っていた。


 苦しむファーストステップを、これ以上見たくない、と思った。


 ほんとうに、そうだろうか。


 楽になりたがっているのは、自分ではないのか。


 考えて、やめた。久瀬を残して厩舎の外に出て、決めるべきことだけを、獣医師と話し合って決めた。


 診療所に戻る獣医師を見送り、天道は空を仰いだ。吸い込まれそうだ、と思った。


 久瀬が外に出てきた。


「ファーストステップは?」


「横になって、目を閉じている。あのまま、しばらく眠ってくれるといいのだが」


「夕方のミーティングで、僕から話をします」


「頼む」


 厩舎の敷地の片隅に、沼倉の飼い犬が繋がれていた。あいの体軸を鍛えるトレーニングのパートナーである。

 拳大のバランスボールを両足で踏み、土嚢を抱えて立つ。その手首に、犬のリードを巻くのだ。


 意図しない力を加えられても、バランスを崩さずに耐える。

 方法は違えど、ほとんどの騎手が同じ趣旨のトレーニングはしている。


 沼倉の飼い犬は、よく躾けられていて、普段は大人しいものだった。ただ、散歩用のリードに繋ぎ変えると、喜び勇んで駈け回るのだ。


 トレーニングのあとは、あいが散歩に連れて行っている。犬にとっては、褒美のような時間なのか。


「藤刀には」


「僕から伝えますよ」


 沼倉の飼い犬を見て、久瀬の頭にもあいが思い浮かんだようだ。


「あいつ、ファーストステップに懐いていた。人見知りしがちなファーストステップも、心を開いていた」


「あいは、幼少から牧場に通い詰めて、そこの馬の一頭と、姉妹同然に育ったんです」


「そうなのか」


「その馬が、ファーストステップと同じ、葦毛でね。その馬は牝馬でしたが」


「ファーストステップに、面影を重ねていたのか?」


「どうかな」


「当日は、藤刀には休みを与えて」


「久瀬さん、僕はあいに決めさせたい」

 天道が言葉を遮って言うと、久瀬も異論は挟まなかった。


 午後のミーティングで、北本と沼倉、それに他二人の調教を許された厩務員を加え、六人で明日以降のスケジュールを確認した。


 ミーティング終わりに、ファーストステップの件を伝えた。


「沼倉、あいはもう寮に帰った?」


「いえ。多分、ウチの犬の散歩中かと」


「そうか」


 解散してから、天道は事務所で待った。沼倉も残った。

 二十分ほどして、あいが犬と戻ってきた。


「あい、話がある」


 沼倉はあいから犬を引き取り、帰っていった。


 厩舎を出て、あいを連れ、丘がある方へ歩いていった。


 整地された頂上に上った。陽が沈んでいく。あっという間に辺りは暗闇に包まれた。


 四阿《あずまや》の屋根の下に入り、ベンチに隣り合わせで座った。


「ファーストステップが蹄葉炎になった。蹄葉炎は、わかるね?」


「学校で習いました」


「死なせることにした。五日後だ」


「え」


「立ち合うかどうか、決めてほしい」


「待ってください、急にそんな」


「いまここで決めなくてもいい。けれど、五日後だ。それまでには決めてくれ」


「そんな。ほんとうなんですか」


「性格はいい方じゃないけどね、冗談でこんな話はできないな」


 あいが黙りこんだ。


 天道は夜空に目を向けた。まだ月の位置が低い。だからか、空の高い位置にある星の小さな瞬きが、霞まずによく見える気がした。


 あいは、いま、自分にどういう感情を抱いているのだろうか。


 嫌われる覚悟はしていた。

 どう思われようと、あいを騎手に育て上げるという意思は変わらない。それも強い騎手、勝てる騎手に、だ。

 そのためなら嫌われることも厭うつもりはない。


 なぜ自分がそこまであいに懸けるのか。説明はできなかった。

 理屈ではなく、心が決めたことなのだ。


 そこまで思える相手は、おそらくそういないだろう。しかし、出逢えた。理由は、それで十分だった。


 あいが、立ち合いたいと言ってきたのは、施術の二日前だった。


 天道はただあいの意思を受け取った。



 二日が経った。


 施術場所に、砂場を久瀬が希望した。ファーストステップは、砂にまみれるのが好きだった。


 しかし、さすがにトレセンの砂場で施術することは憚《はばか》られた。そこで、ファーストステップの馬房に、砂を運び込むことにした。


 砂の運搬に、厩舎で人を募ると、予想以上の人数が集まった。


 一人がバケツ一杯分の量を運び、厩舎の床に砂を敷き詰めた。その作業には、あいも参加した。


 獣医師が、四人の助手を伴ってやって来た。


 立っているファーストステップの首に、カテーテルが取り付けられる。


 その様子を、あいと、厩舎の廊下で見守った。


 久瀬は馬房に入り、四人の助手とともにファーストステップの身体を支えた。

 麻酔薬が注入され、ファーストステップの力が抜けていく。急に倒れて痛みを与えないように、五人がかりで、少しずつ横たわらせた。


 獣医師が、ファーストステップの気道を確保し、口に管を咥えさせた。そこから、別の種類の麻酔ガスが流し込まれる。ここまでは、普段の馬の手術でも行われる手順だ。


 ファーストステップの視線が、なにかを探すように宙を彷徨った気がしたが、やがて空《うつろ》になった。


 馬を死に至らせる方法としては、高濃度の筋弛緩剤が用いられる。


 筋肉の塊である心臓の動きを薬で止める方法が、もっとも馬を苦しませずに済む、とされている。


「ファーストステップの心拍、止まりました」


 モニターを確認する獣医師が言った。


 久瀬がファーストステップの顔に布をかけようとした。その布が、管を外されたファーストステップの口の前で、微かに揺らいだ。


「まだ息が」

 あいが咄嗟に言った。


「呼吸中枢と、心臓は別なんだ。だから、心臓が停止しても、僅かな間、呼吸だけ続くことがある」


 首の血管から、カテーテルが抜かれた。血は出なかったが、久瀬が、労わるようにそこへ掌を当てた。


 あいがふらふらと出て行った。


「天道さん、藤刀が」

 沼倉が中へ入ってきて言った。


「放っておくんだ」

 冷たい物言いに感じたのか。沼倉は一瞬、天道を鋭く睨み、あいの後を追っていった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。