長い夜と雲の影 ⑤
獣医師がやってきた。
天道は、挨拶をして、ファーストステップの馬房へ通した。
空は皮肉なほどに青く澄み渡っている。
厩舎に入ると、久瀬が、柵から顔を覗かせているファーストステップの鼻面を撫でているところだった。
久瀬は獣医師に目礼し、馬房の入口を開いた。
「悪化しています」
ファーストステップの右前肢を診て、獣医師が言った。
「やはり、そうですか」
ファーストステップが右前肢に蹄葉炎を発症したのは六日前だ。
応急処置をし、経過を観察してきたが、芳しくなかった。
天道も、馬の病気についてはかなり勉強している。
調教師試験の学科項目に含まれていたからだが、調教師になって、知識は絶対不可欠だと思い知った。
勉強は、日々、続けている。
特に獣医学に関しては、人の医学と同様に日進月歩で、学ぶことを怠るとあっという間に置いていかれる、という恐怖がある。
「どうしても、骨折した左前肢を庇ってしまうのでしょう」
蹄の中を通っている血流の、循環不良が原因で発症する病気である。
「ご存知でしょうが、脚を故障した馬が、術後しばらくして蹄葉炎を発症するケースは、少なくありませんので」
獣医師が続けて言った。
馬は、人間の数倍の体重がある。そのうえ、四肢の一つに故障を抱えれば、他肢にはかなりの負担がかかることになる。
「手立てはありますか」
「これ以上は。かりに治療をしても、苦しませるだけかと」
獣医師が目を伏せた。
馬房の外に立っている久瀬を振り返る。久瀬が、顎を引くようにして頷いた。
改めて、馬房の中を見渡した。
ファーストステップが暴れた痕跡が残っている。毛並みの艶は失われ、ところどころに裂傷を負っている。
頭も打ちつけたのだろう。額に傷があった。額の雲の影の模様は、千切れたようになっている。
「楽にさせよう」
言っていた。
苦しむファーストステップを、これ以上見たくない、と思った。
ほんとうに、そうだろうか。
楽になりたがっているのは、自分ではないのか。
考えて、やめた。久瀬を残して厩舎の外に出て、決めるべきことだけを、獣医師と話し合って決めた。
診療所に戻る獣医師を見送り、天道は空を仰いだ。吸い込まれそうだ、と思った。
久瀬が外に出てきた。
「ファーストステップは?」
「横になって、目を閉じている。あのまま、しばらく眠ってくれるといいのだが」
「夕方のミーティングで、僕から話をします」
「頼む」
厩舎の敷地の片隅に、沼倉の飼い犬が繋がれていた。あいの体軸を鍛えるトレーニングのパートナーである。
拳大のバランスボールを両足で踏み、土嚢を抱えて立つ。その手首に、犬のリードを巻くのだ。
意図しない力を加えられても、バランスを崩さずに耐える。
方法は違えど、ほとんどの騎手が同じ趣旨のトレーニングはしている。
沼倉の飼い犬は、よく躾けられていて、普段は大人しいものだった。ただ、散歩用のリードに繋ぎ変えると、喜び勇んで駈け回るのだ。
トレーニングのあとは、あいが散歩に連れて行っている。犬にとっては、褒美のような時間なのか。
「藤刀には」
「僕から伝えますよ」
沼倉の飼い犬を見て、久瀬の頭にもあいが思い浮かんだようだ。
「あいつ、ファーストステップに懐いていた。人見知りしがちなファーストステップも、心を開いていた」
「あいは、幼少から牧場に通い詰めて、そこの馬の一頭と、姉妹同然に育ったんです」
「そうなのか」
「その馬が、ファーストステップと同じ、葦毛でね。その馬は牝馬でしたが」
「ファーストステップに、面影を重ねていたのか?」
「どうかな」
「当日は、藤刀には休みを与えて」
「久瀬さん、僕はあいに決めさせたい」
天道が言葉を遮って言うと、久瀬も異論は挟まなかった。
午後のミーティングで、北本と沼倉、それに他二人の調教を許された厩務員を加え、六人で明日以降のスケジュールを確認した。
ミーティング終わりに、ファーストステップの件を伝えた。
「沼倉、あいはもう寮に帰った?」
「いえ。多分、ウチの犬の散歩中かと」
「そうか」
解散してから、天道は事務所で待った。沼倉も残った。
二十分ほどして、あいが犬と戻ってきた。
「あい、話がある」
沼倉はあいから犬を引き取り、帰っていった。
厩舎を出て、あいを連れ、丘がある方へ歩いていった。
整地された頂上に上った。陽が沈んでいく。あっという間に辺りは暗闇に包まれた。
四阿の屋根の下に入り、ベンチに隣り合わせで座った。
「ファーストステップが蹄葉炎になった。蹄葉炎は、わかるね?」
「学校で習いました」
「死なせることにした。五日後だ」
「え」
「立ち合うかどうか、決めてほしい」
「待ってください、急にそんな」
「いまここで決めなくてもいい。けれど、五日後だ。それまでには決めてくれ」
「そんな。ほんとうなんですか」
「性格はいい方じゃないけどね、冗談でこんな話はできないな」
あいが黙りこんだ。
天道は夜空に目を向けた。まだ月の位置が低い。だからか、空の高い位置にある星の小さな瞬きが、霞まずによく見える気がした。
あいは、いま、自分にどういう感情を抱いているのだろうか。
嫌われる覚悟はしていた。
どう思われようと、あいを騎手に育て上げるという意思は変わらない。それも強い騎手、勝てる騎手に、だ。
そのためなら嫌われることも厭うつもりはない。
なぜ自分がそこまであいに懸けるのか。説明はできなかった。
理屈ではなく、心が決めたことなのだ。
そこまで思える相手は、おそらくそういないだろう。しかし、出逢えた。理由は、それで十分だった。
あいが、立ち合いたいと言ってきたのは、施術の二日前だった。
天道はただあいの意思を受け取った。
二日が経った。
施術場所に、砂場を久瀬が希望した。ファーストステップは、砂にまみれるのが好きだった。
しかし、さすがにトレセンの砂場で施術することは憚られた。そこで、ファーストステップの馬房に、砂を運び込むことにした。
砂の運搬に、厩舎で人を募ると、予想以上の人数が集まった。
一人がバケツ一杯分の量を運び、厩舎の床に砂を敷き詰めた。その作業には、あいも参加した。
獣医師が、四人の助手を伴ってやって来た。
立っているファーストステップの首に、カテーテルが取り付けられる。
その様子を、あいと、厩舎の廊下で見守った。
久瀬は馬房に入り、四人の助手とともにファーストステップの身体を支えた。
麻酔薬が注入され、ファーストステップの力が抜けていく。急に倒れて痛みを与えないように、五人がかりで、少しずつ横たわらせた。
獣医師が、ファーストステップの気道を確保し、口に管を咥えさせた。そこから、別の種類の麻酔ガスが流し込まれる。ここまでは、普段の馬の手術でも行われる手順だ。
ファーストステップの視線が、なにかを探すように宙を彷徨った気がしたが、やがて空になった。
馬を死に至らせる方法としては、高濃度の筋弛緩剤が用いられる。
筋肉の塊である心臓の動きを薬で止める方法が、もっとも馬を苦しませずに済む、とされている。
「ファーストステップの心拍、止まりました」
モニターを確認する獣医師が言った。
久瀬がファーストステップの顔に布をかけようとした。その布が、管を外されたファーストステップの口の前で、微かに揺らいだ。
「まだ息が」
あいが咄嗟に言った。
「呼吸中枢と、心臓は別なんだ。だから、心臓が停止しても、僅かな間、呼吸だけ続くことがある」
首の血管から、カテーテルが抜かれた。血は出なかったが、久瀬が、労わるようにそこへ掌を当てた。
あいがふらふらと出て行った。
「天道さん、藤刀が」
沼倉が中へ入ってきて言った。
「放っておくんだ」
冷たい物言いに感じたのか。沼倉は一瞬、天道を鋭く睨み、あいの後を追っていった。




