↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十九話

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
105/132

口伝と再会

 明け方から、雪が降りはじめた。


 積もるような降り方ではなかった。傘を差していても、風に煽られた雪が、顔に吹きかかってくる。


 予定していたコース調教のスケジュールは変更せざるを得なかった。


 事務局に、調教用プールを使用できるか確認を取った。そのほか、空いていた丸馬場も急遽押さえた。


 諸々の手配を済ませ、朝のミーティングを行い、天道は馬の調教に出た。


 どの馬の調教に当たるかは、前日の馬の様子を見て決める。

 世話を担当している厩務員の報告で、気になることがあれば、翌日に自分で乗って確かめることもあった。


 調教ができる人間は、天道も含めて六人いる。週末に出走レースが重なり、手が足りない時などは、手すきの騎手に依頼を出す場合もあった。


 正午頃に雪が熄《や》んだ。


「天道さん、ラクシュを駈けさせてきてもいいですか?」

 丸馬場でランジングをしていた北本が、戻ってすぐ、天道に訊いてきた。


「ああ。重馬場《おもばば》でどれぐらい影響を受けるか、気にしてみてくれ」


 ラクシュが重馬場で力をどの程度発揮できるか、まだデータが不足していた。


 天候に恵まれてきたこともあるが、筋骨が未完成な状態で、まともな重馬場に出すのは避けていたのだ。


 歳が明け、三歳になったラクシュは、一回り大きくなった。後脚の肉のつき方は、かなり逞しいと感じさせる。

 それでいて、全体のバランスもきちんと均整がとれていた。そういう馬は、立っているだけで人の目を惹きつけるものだ。


 北本が厩舎の中に入っていった。


 担当の厩務員と、調教を終えたばかりの馬を、厩舎の前で隈なく触診した。


 馬の吐く息が白かった。とはいえ、馬はこれといって寒そうでもない。夏とは違い、冬に辛そうなのは人だけだ。


 天道は、事務所に入り、経理の業務に手をつけた。


 昨年、天道厩舎の馬は通算で六十余の入着を果たした。そこで支払われた賞金のいくらかは、天道の懐に入る。


 雇っている厩務員たちの給料や、馬の生活に関わる費《つい》えは、馬主からの委託料で賄《まかな》っている。


 調教師は、自厩舎の馬がレースで入賞しない限り、無収入も同然なのだ。


 ただ、天道には騎手時代に稼いだ金の蓄えがあり、今のところ生活の心配はない。生活の基盤がしっかりしているので、腰を据えて馬を育成することもできる。


「お仕事中にすみません。いま、少しいいですか」

 顔を上げると、あいが入口に立っていた。


「休日にわざわざ。いいよ、おいで」


 厩舎の収支関係の書類を伏せ、あいをデスクの近くに招いた。


 思いつめた表情のあいは、天道の近くまで来ると、背筋を伸ばして見つめてきた。


「改まって、どうしたのかな?」


「天道さん、お願いします。私を、コースに出させてください」


「いいよ」


 あっさりと許可が貰えたのが意外だったのか、あいは呆気にとられている。


「じゃ、明日から。とりあえず、沼倉が調教中の馬から選ぼうか」


「いいんですか、ほんとうに」


 天道は微笑し、頷いた。


「反対されると思っていたのかい?」


「なにか理由があって、コースに出させてもらえないんだと思ってました」


「しいて言うなら、乗馬頭数の経験を積ませるのを優先したかった。だから、コース調教は後回しにしていたんだよ」


 それでも、あいの方から希望してくれば、応じる腹積もりではいた。

 どんな経験を積ませるにしても、なにより大事なのは本人の意思だ。


 そして、そろそろあいがコースに出たいと言ってくるだろうとは、予想していたことだ。


「乗った馬の数が多ければ多いほど、騎手の抽斗《ひきだし》は増える。そして、抽斗の多さは、騎手の武器さ」


「武器」


「あいは綾と小さい頃から一緒にいたから、馬と折り合いをつける力は抜群に高い。けれど反面、乗馬クラブに通っていた子たちと較べると、乗馬頭数は少ないだろう」


「はい」


「競馬学校にも馬匹《ばひつ》は揃っているんだろうけど、どうせなら現役馬を使って、乗馬頭数の経験の差を埋めたかった。いや、埋めるだけでじゃなく、あいに、新しい武器を与えたかった」


「すみません、私、そんなふうに考えてもらっていたなんて思わなくて」


「説明していなかったから、当然さ。ともかく、あいをコースに出すつもりがなかったわけじゃない。それはわかってもらえたかい?」


「はい。それなら、両方やらせてください。コース調教も、乗馬頭数の経験を増やすのも」


「これまで通り、他所の厩舎からの依頼にも応えつつ、コース調教にも出る、か。それで体力が保《も》つ?」


「保ちます。保たせます」


「わかった。けれど、無理だと判断したら僕の方で調整するからね」


「ありがとうございます」


 喜びというより、安堵に近い声色だった。


 あいが事務所を出て行こうとした。引き留めそうになる自分を、天道は抑えた。


 あいが去り、入れ違いに沼倉がやって来た。


「藤刀《ふじわき》、来ていたんですか。休みの日なのに」


「ああ。コースに出してくれと頼まれた。明日からだ。どの馬がいいか、沼倉、考えておいてくれないか」


「僕が、ですか」

 沼倉が躊躇いを見せた。


「どうした?」


「ファーストステップが死んで、自分は、藤刀にかける言葉を見つけられませんでした。でも、藤刀は一人でも立ち直った。それがわかっていたから、天道さんは、放っておけと言えたんですよね」


「立ち直った、か。君の目にはそう映っているのか」


「違うんですか」


「必死に前を向こうとしている。僕にはそう見えるな」


 少し考えるような沈黙があってから、沼倉は、そうかもしれません、と呟いた。


 ファーストステップの葬儀を、馬頭観音を祀る寺院で行った。


 天道厩舎のスタッフとファーストステップの馬主、その縁者以外に、トレセンの調教師数名が代表として参列した。


 あいは泣き腫らした目をしていたが、葬儀では必死に涙をこらえていた。


 鬣《たてがみ》をひと握り切り取って、ファーストステップの遺骸は火葬された。


 残された鬣は、馬主と久瀬で分け合った。久瀬は、自分が受け取ったものを、さらにあいに分けたようだ。


 あいは以前にも増して過酷なトレーニングを自分に課すようになった。


 久瀬は、淡々と業務にあたっている。


 哀しみを表には出さず、己のうちに押し込めている。久瀬の寂寞《せきばく》を誰もが察しながら、そのことを口に出す人間は一人もいない。


「二日前に、ファーストステップのいた馬房の検疫が解かれたばかりだ」


 時が経てば、どんな感情だろうと褪せる。それが人というものだった。

 だが、褪せたからといって、なかったことにはならない。


 天道も、まだしばらく長い夜が続きそうだった。


「あいがコース調教で乗る馬は、僕が選んでもいい」


「いえ、やっぱり自分に考えさせてください」


「わかった。任せるよ」


 沼倉にいま一つ足りない、なにか。それがなにかは、はっきりと見えてこない。

 あいに感化され、どこか変わってきているのか。


 馬の調教に、人となりが出るのは間違いない。自分が沼倉の変化に気づくとしたらそこだろう、と天道は思った。


 沼倉が出て行き、天道は経理の処理に戻った。


 書類の数字を頭にいれるのに、いつもよりちょっと時間がかかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。