口伝と再会
明け方から、雪が降りはじめた。
積もるような降り方ではなかった。傘を差していても、風に煽られた雪が、顔に吹きかかってくる。
予定していたコース調教のスケジュールは変更せざるを得なかった。
事務局に、調教用プールを使用できるか確認を取った。そのほか、空いていた丸馬場も急遽押さえた。
諸々の手配を済ませ、朝のミーティングを行い、天道は馬の調教に出た。
どの馬の調教に当たるかは、前日の馬の様子を見て決める。
世話を担当している厩務員の報告で、気になることがあれば、翌日に自分で乗って確かめることもあった。
調教ができる人間は、天道も含めて六人いる。週末に出走レースが重なり、手が足りない時などは、手すきの騎手に依頼を出す場合もあった。
正午頃に雪が熄んだ。
「天道さん、ラクシュを駈けさせてきてもいいですか?」
丸馬場でランジングをしていた北本が、戻ってすぐ、天道に訊いてきた。
「ああ。重馬場でどれぐらい影響を受けるか、気にしてみてくれ」
ラクシュが重馬場で力をどの程度発揮できるか、まだデータが不足していた。
天候に恵まれてきたこともあるが、筋骨が未完成な状態で、まともな重馬場に出すのは避けていたのだ。
歳が明け、三歳になったラクシュは、一回り大きくなった。後脚の肉のつき方は、かなり逞しいと感じさせる。
それでいて、全体のバランスもきちんと均整がとれていた。そういう馬は、立っているだけで人の目を惹きつけるものだ。
北本が厩舎の中に入っていった。
担当の厩務員と、調教を終えたばかりの馬を、厩舎の前で隈なく触診した。
馬の吐く息が白かった。とはいえ、馬はこれといって寒そうでもない。夏とは違い、冬に辛そうなのは人だけだ。
天道は、事務所に入り、経理の業務に手をつけた。
昨年、天道厩舎の馬は通算で六十余の入着を果たした。そこで支払われた賞金のいくらかは、天道の懐に入る。
雇っている厩務員たちの給料や、馬の生活に関わる費えは、馬主からの委託料で賄っている。
調教師は、自厩舎の馬がレースで入賞しない限り、無収入も同然なのだ。
ただ、天道には騎手時代に稼いだ金の蓄えがあり、今のところ生活の心配はない。生活の基盤がしっかりしているので、腰を据えて馬を育成することもできる。
「お仕事中にすみません。いま、少しいいですか」
顔を上げると、あいが入口に立っていた。
「休日にわざわざ。いいよ、おいで」
厩舎の収支関係の書類を伏せ、あいをデスクの近くに招いた。
思いつめた表情のあいは、天道の近くまで来ると、背筋を伸ばして見つめてきた。
「改まって、どうしたのかな?」
「天道さん、お願いします。私を、コースに出させてください」
「いいよ」
あっさりと許可が貰えたのが意外だったのか、あいは呆気にとられている。
「じゃ、明日から。とりあえず、沼倉が調教中の馬から選ぼうか」
「いいんですか、ほんとうに」
天道は微笑し、頷いた。
「反対されると思っていたのかい?」
「なにか理由があって、コースに出させてもらえないんだと思ってました」
「しいて言うなら、乗馬頭数の経験を積ませるのを優先したかった。だから、コース調教は後回しにしていたんだよ」
それでも、あいの方から希望してくれば、応じる腹積もりではいた。
どんな経験を積ませるにしても、なにより大事なのは本人の意思だ。
そして、そろそろあいがコースに出たいと言ってくるだろうとは、予想していたことだ。
「乗った馬の数が多ければ多いほど、騎手の抽斗は増える。そして、抽斗の多さは、騎手の武器さ」
「武器」
「あいは綾と小さい頃から一緒にいたから、馬と折り合いをつける力は抜群に高い。けれど反面、乗馬クラブに通っていた子たちと較べると、乗馬頭数は少ないだろう」
「はい」
「競馬学校にも馬匹は揃っているんだろうけど、どうせなら現役馬を使って、乗馬頭数の経験の差を埋めたかった。いや、埋めるだけでじゃなく、あいに、新しい武器を与えたかった」
「すみません、私、そんなふうに考えてもらっていたなんて思わなくて」
「説明していなかったから、当然さ。ともかく、あいをコースに出すつもりがなかったわけじゃない。それはわかってもらえたかい?」
「はい。それなら、両方やらせてください。コース調教も、乗馬頭数の経験を増やすのも」
「これまで通り、他所の厩舎からの依頼にも応えつつ、コース調教にも出る、か。それで体力が保つ?」
「保ちます。保たせます」
「わかった。けれど、無理だと判断したら僕の方で調整するからね」
「ありがとうございます」
喜びというより、安堵に近い声色だった。
あいが事務所を出て行こうとした。引き留めそうになる自分を、天道は抑えた。
あいが去り、入れ違いに沼倉がやって来た。
「藤刀、来ていたんですか。休みの日なのに」
「ああ。コースに出してくれと頼まれた。明日からだ。どの馬がいいか、沼倉、考えておいてくれないか」
「僕が、ですか」
沼倉が躊躇いを見せた。
「どうした?」
「ファーストステップが死んで、自分は、藤刀にかける言葉を見つけられませんでした。でも、藤刀は一人でも立ち直った。それがわかっていたから、天道さんは、放っておけと言えたんですよね」
「立ち直った、か。君の目にはそう映っているのか」
「違うんですか」
「必死に前を向こうとしている。僕にはそう見えるな」
少し考えるような沈黙があってから、沼倉は、そうかもしれません、と呟いた。
ファーストステップの葬儀を、馬頭観音を祀る寺院で行った。
天道厩舎のスタッフとファーストステップの馬主、その縁者以外に、トレセンの調教師数名が代表として参列した。
あいは泣き腫らした目をしていたが、葬儀では必死に涙をこらえていた。
鬣をひと握り切り取って、ファーストステップの遺骸は火葬された。
残された鬣は、馬主と久瀬で分け合った。久瀬は、自分が受け取ったものを、さらにあいに分けたようだ。
あいは以前にも増して過酷なトレーニングを自分に課すようになった。
久瀬は、淡々と業務にあたっている。
哀しみを表には出さず、己のうちに押し込めている。久瀬の寂寞を誰もが察しながら、そのことを口に出す人間は一人もいない。
「二日前に、ファーストステップのいた馬房の検疫が解かれたばかりだ」
時が経てば、どんな感情だろうと褪せる。それが人というものだった。
だが、褪せたからといって、なかったことにはならない。
天道も、まだしばらく長い夜が続きそうだった。
「あいがコース調教で乗る馬は、僕が選んでもいい」
「いえ、やっぱり自分に考えさせてください」
「わかった。任せるよ」
沼倉にいま一つ足りない、なにか。それがなにかは、はっきりと見えてこない。
あいに感化され、どこか変わってきているのか。
馬の調教に、人となりが出るのは間違いない。自分が沼倉の変化に気づくとしたらそこだろう、と天道は思った。
沼倉が出て行き、天道は経理の処理に戻った。
書類の数字を頭にいれるのに、いつもよりちょっと時間がかかった。




