口伝と再会 ②
これまで沼倉が調教を担当していた三歳牝馬に跨り、あいはコース調教に出た。
馬場ではこれまでに何度か乗ったことのある馬で、性格はなんとなく掴めている。
トレセンにある五つのコースの内、馬の膝に負担がかかりにくい、ウッドチップのコースに入った。
一周千四百のコースである。コース沿いにハロン棒が立ててあり、棒には、秒数を計る計器が内蔵されている。
計測された結果は、リアルタイムで調教スタンドに送信され、モニタリングされる。
ハロンごとのタイムは、あらかじめ天道から指示された。
指示されたタイムに合わせ、馬のペース配分をする訓練は、学校でも幾度も繰り返した。
大矢は、馬の歩数でペースを調整する、と言っていた。正士郎や杉本は、自分の中で秒数を数えているという。
馬の速度をどう読むか、やり方は人それぞれだった。正解はない。
馬の歩数を数える場合は、馬によって異なる歩幅を念頭に置かねばならない。
対して、自身の体内時計を頼るなら、疾駆する馬の鞍上でどれだけ精密でいられるかが肝となる。
あいは、風で計ろうと心がけてきた。
走行中に潜る、風の手応え。スピードが上がれば上がるほど、風の手応えは増す。その具合で速度を読む。
かなり感覚に頼った方法だが、自分にはそれが性に合っている、とあいは思っていた。
季節や天候によって、風は変わる。
冬の風は、他の季節より硬い感じがし、夏は風が湿気を孕んで重い。その日ごとに変わる風速や風向きも、頭に入れておく。
あいはグローブを外し、指を咥え、その指を空にかざした。無風に近いが、かすかに西からの風が吹いていた。
「準備はいいね。はじめてくれ」
調教スタンドにいる天道の声が無線で届く。
「はい、いきます」
グローブをはめ直し、鞍から尻を上げ競走姿勢をとった。ゆるく引き締めた脇に、鞭を手挟むようにして構えた。
馬首の後ろにあてた拳で、馬に出走を伝えた。
向こう正面までは、ゆったりとしたペースで進む。コーナーを回ったところから、前へ押し出していった。
風が、ぐっと硬くなった。身を縮め、できるだけ空気抵抗を少なくする。
手綱に頼り過ぎず、全身を使って馬を追った。
上がり三ハロン。一瞬、天皇賞のゴール間近で脚を折った、ファーストステップがフラッシュバックした。
「くっ」
気息が乱れた。その分、馬との折り合いも一拍ずれた。
「上がり三ハロンで遅れた」
一周して戻って来たあいに、天道が伝えた。
「すみません。次は、修正します」
馬脚を緩め、半周する間に、馬の呼吸は落ち着いてきた。
同じ指示で、さらにもう一周駈けた。
馬を降り、手綱を曳いて調教スタンドの前まで戻った。
天道が、調教スタンドから降りて出迎えてくれた。
「おつかれさま。二本目は悪くなかった」
「ありがとうございます」
「よし、北本、ラクシャと出てくれ」
「了解です」
馬場でウォーミングアップを済ませた北本とラクシャのコンビが、芝のコースへ駈けだしていく。
天道厩舎の厩務員が来て、あいから手綱を引き受けた。
「あいは佐々木厩舎から戻ったら、今度は沼倉と二人で併馬だ。遅れないようにね」
「はい。いってきます」
天道と、調教を終えたばかりの馬を宥める厩務員に一礼し、トレセンの西側にある佐々木厩舎へと急行した。
息をつく間もなく、そこで三頭の馬に鞍なしで乗馬した。
二頭は軽く駈けさせると首が垂れる感じがあり、一頭は軸が右に寄っていた。
三頭とも疲労の色はなく、気力の面では充実している。
自分と馬を包む球形の膜をイメージしつつ、数十分、馬場で自由に運動させた。それで、三頭とも、ほぼ元の姿勢を取り戻した。
首が下がり気味だった二頭に関しては、最初より気持ちよく銜を受け入れている様子だった。
担当の厩務員と馬を厩舎へ帰し、再び走って天道厩舎へ戻った。
沼倉と、馬を馬房から引き出し、調教前の馬体チェックを行った。
わずかな異変も見落とせず、集中力を欠くわけにはいかなかった。
あいが確認した馬を、さらに沼倉が二重で確認してから、調教に出た。
併馬では、ハロンタイムは指示されず、外側を駈ける沼倉に対して、常に一定のポジションをキープすることが要求された。
併走で馬を疾駈させ、ダートを二周した。
騎乗している馬とはともかく、沼倉の乗る馬のペースと合わせられず、要求通りとはいかなかった。
「沼倉さん、ごめんなさい。ぜんぜん付いていけなくて」
「コースに出て初日だ。気にし過ぎる必要はない」
調教スタンド前の広場で、あいは沼倉に頭を下げた。
それから昼休憩を挟み、午後は厩舎で雑務に当たった。
夕方の飼い付けを済ませると、終業前のミーティングに呼ばれた。
「私も参加していいんですか?」
呼びに来た沼倉は、無表情のまま頷いた。
事務所に行くと、天道、久瀬、北本、そして沼倉と同じく調教資格を持つ厩務員が二人、すでにホワイトボードの前に集まっていた。
「揃ったね。じゃ、さくっと済ませますか」
天道の仕切りでミーティングがはじまり、馬の状態の共有や、明日以降の調教内容、週末の出走スケジュールの確認などがなされた。
ミーティングを終えると解散となった。
あいが挨拶をして事務所を出ようとすると、座ったままの久瀬に呼び止められた。
「どうかしたんですか、久瀬さん」
久瀬は顎の白っぽい無精髭をいじりながら、パイプ椅子を勧めた。あいは、向かい合うかたちで椅子に座り直した。
「お前に、俺の知るすべてを伝えたいと考えている」
他の人間が事務所を出て行き、二人になると、久瀬が口を開いた。
「すべて、っていうのは?」
「いち厩務員として、二十歳のときにこの世界に入った。それから四十余年間で手掛けた馬のことだ。一頭一頭、憶えている。そのすべてを、お前に話す」
競走馬の育成に生涯を捧げてきたのが、久瀬という男なのだと、あいは理解していた。
馬それぞれに、得られた経験があり、思い入れがあるはずだった。それはまさしく、久瀬のすべてということにはならないか。
久瀬は、それを自分に伝えると言ってきているのか。
「お前の役に立つかは、知らんがな」
「そんなこと」
あいは、昨日天道からされた、騎手の引き出しの話を思い出しながら、首を振った。
なぜ、とは考えなかった。久瀬からは、ファーストステップの遺した鬣も分け与えられた。
それを受け取ることにも抵抗はなかった。ただ、死んだのは綾ではないと、無意識に慰めていた自分に気づき、深い嫌悪に襲われた。
「聞きたいです。それから、考えたいです」
「考える?」
久瀬の眉が、ちょっと動いた。眉にも、髭と同じでかなり白いものが混じっている。
「なにを」
「騎手になった先で、自分が競走馬になにを返せるのかを」
レースに勝ち、ともに生きた証をつくることはできる、と思った。だが、それを馬が悦ぶのか。
駈けることが幸せな馬はいる。そうでない馬もいる。馬の幸せを人が決めつけようということ自体、傲慢なのか。なら、馬を尊ぶ気持ちだけあれば、なにもかも赦されるのか。
「そういう奴だよな、お前さんは。しかし、考え込むのもほどほどにしておけ」
競馬が嫌いになったわけではない。馬に乗るしか能のない自分でも、居場所を勝ち取れるはずの世界だ。ものごとの明暗がはっきりしているのも、わかりやすかった。
しかしそれ以上に、渇きにも似たなにかが、あいを騎手として生きる道へと駆り立てている。
「わかってるつもりです。騎手になるのに、立ち止まっている時間はない。でも、馬の命のことも、考えたいんです」
生意気なことを言ったと思ったが、久瀬は薄い笑みを浮かべただけだった。その眼に、気後れのようなものが過った気がした。




