口伝と再会 ③
薄く汗が滲んだ手術着から白衣に着替え、手術部内の更衣室から廊下に出た。
陽光が射し込むリノリウムの廊下の先に、美冬と同じ第一外科の医局長が立っていた。
「お疲れさまです、駒沢助教授。今回も鮮やかな手際でしたね。小脳橋角部腫瘍の手術では、やはり日本第一ですね」
「ありがとうございます。なにかご用で?」
「研修医相手の講義内容で、ちょっと相談がありまして」
「わかりました。上で伺います」
手術部の上階にある医局で、医局長が用意してきた脳神経外科に関する講義内容に、二、三、付け加えるかたちでアドバイスをした。
「明日は非番でしたよね。これから若いのを連れてと駅前に飲みに行こうという話になっているんですが、駒沢さんもたまにはご一緒にどうです?」
「お誘いは嬉しいですが、遠慮しておきます」
院内では無類の酒好きであることは隠していた。下戸というふうに振舞っていた方が、なにかと都合がよかった。
医局を出て、隣の病棟にある診療部で教授から頼まれていた所用を済ませた。
急患が入ることもなく、引継ぎをして定時に武蔵医科大学附属病院を出た。
車を入間方面に走らせた。都と県の境目近くで暮らす、姉夫婦の家を訪ねる。
「美冬おばさん、いらっしゃい」
甥の聡太が、玄関に顔を出した。
「あら、出迎えなんて珍しいじゃん。どういう風の吹き回しかな」
「別に、いつも通りだよ。いいからほら、早くあがって」
聡太に手を引かれ、リビングに通された。聡太の父は出張中で、聡太の母である姉は、十時時ごろに帰ると言伝があった。
美冬は姉が作り置いてくれた夕食を、聡太と向かい合って食べた。
「片づけは僕がやるから、お風呂に先に入っていいよ」
「わかったわ」
聡太の甲斐甲斐しいもてなしに、美冬は笑みをこぼした。
「わかりやすいなぁ。よほど明日が楽しみなのね」
美冬は脱衣所に入り独り言ちた。明日は、美駒トレーニングセンターの見学ツアーに聡太を連れていく予定なのだ。
風呂を出た後、帰宅した姉とビールを四、五缶空けただけで、その日は横になった。
翌朝、車の助手席に聡太を乗せ、茨城にあるトレーニングセンターに向かった。
「乗馬はどう?」
「楽しいよ。この前は、初級の障害にも挑戦して、失敗せずに跳べたんだ」
「すごいじゃない」
聡太が乗馬クラブに通うようになって、一年が経とうとしていた。小学五年生になり、聡太の身長はぐっと伸び、顔立ちもすこし引き締まった雰囲気がある。
「あいちゃんは今頃どうしてるかなぁ」
最初に会ったあいは、おどおどしていて、小動物のような愛らしさがあった。
それが、昨年の秋に白囲市の郷土祭で再会した時は、しっかりとした意志の光を目に宿すようになっていた。
郷土祭には競馬学校の学生として参加していて、あいは、ポニーの乗馬体験を担当していたのだ。
そこでの体験がきっかけで、聡太は乗馬クラブに通い始めた。筋がいいとクラブでは評判らしいことを、昨夜、姉が誇らしそうに話していた。
「あいさん、関西のトレーニングセンターで実習をしているんだよね」
聡太が、親に持たされている携帯端末をいじるのをやめて、言った。
「そ。実習先が美駒だったら会えたかもしれないのになぁ」
「実習が終わったら、模擬レースっていうのをやるんでしょう。それは見に行けないの?」
「抽選で、選ばれれば見学できたはず。行きたい?」
「うん」
「じゃあ、申し込んでおくよ」
「いつぐらいにやるの?」
「十月から二カ月かけて、全部で六回やるんだったかな」
親の影響で子どもの頃から競馬は好きだったが、あいと出会うまで、競馬学校やそこの学生にまで関心を払ったことはなかった。
騎手課程生は模擬レースを終えると、騎手免許試験があり、その試験に落ちる学生はほぼいない、と言われていた。
あいが騎手としてデビューする日は、もう遠くないのだ。
トレーニングセンターに到着した。
係員の案内で車を駐車場に停めた。受付で記帳し、見学に際しての簡単な注意事項を伝えられた。
十数人の他の見学客と、広報課の職員に施設内を案内される。
歴代名馬の記録の展示を紹介されてから、建物の外に出た。
競走馬を泳がせるプールや診療所、坂路調教コースなどを巡った。
当たり前だが、すべて馬のための施設だ。どこであろうと人の手が行き届いていて、想像以上に衛生的だった。
厩舎区画を通り、調教スタンドにやって来ると、そばの広場に昨年の天皇賞秋を制したファステラウンの姿があった。
「あっ、ファステラウンだ」
ゼッケンの馬名を見て、聡太が興奮気味に声をあげた。
「聡太、知ってるの?」
「うん、競馬の解説してる番組とかも見るから。今年は、ファステラウンとプロポロスが注目だって、解説の人が話してた」
「そうだね。あと、個人的にはラクシュっていう馬もかな。ラクシュは関西の厩舎だから、ここにはいないと思うけど」
「その馬も知ってる。先週のレースに出てた」
ラクシュは昨年の新馬戦以来の出走だった。新馬戦では勝利しつつも、華奢な印象があった。
先週の共同通信杯に出てきたラクシュは、三歳になり、全体的に筋肉量が増していた。西暢騎手の騎乗で、力強い走りを見せ、見事一着を獲っていた。
昨年のダービー馬であるプロポロスと、天皇賞を獲って有馬でも健闘したファステラウン。それにラクシュ。今年はこの三頭の勝負だ、と美冬は思っていた。
美冬は、ダート、芝、ウッドチップ、ニューポリトラックと区別されている調教コースに目を向けた。
水曜日で、週末に向けてスピード感のある調教をしている馬が多かった。
ファステラウンが芝へ出て行く。ファステラウンの鞍上には、調教助手らしき中年の男が乗っている。
秋の天皇賞では、今春零が騎乗していた。
零は日本人女性騎手としては初のGⅠ勝利という快挙を成し遂げ、さらなる人気を集めている。
一方で、天皇賞のレース終盤、脚を折って倒れたファーストステップという競走馬が、予後不良となり死んでいる。
ファーストステップは、治療を施され、一時は回復傾向にあったという。しかし葉蹄炎という脚の病気を発症し、年の暮れには安楽死を選択せざるを得ない状態になったようだ。
ラクシュと同じ、天道厩舎の馬だった。
あいは天道厩舎で実習をしているはずで、もしかするとファーストステップとも関りがあったのかもしれない。
医療の現場でも、手の施しようがなく、看取るしかできないことはある。いくら医学が進歩しようと、未だ万能には程遠い。
「おばさん、みんなもう移動しているよ」
ぼんやりとしていた美冬の上着の袖を、聡太が引いた。
「ん、ごめんごめん」
間近で見ると迫力のあったファステラウンは、コースのコーナーを回り、小さな馬影が認められるだけになっていた。




