口伝と再会 ④
北本が気炎を吐いていた。
東京競馬場で開催されたGⅢ共同通信杯で、ラクシュが後続と二馬身差をつけて勝利した。
新馬戦以来、ラクシュは身体をつくることだけに専念してきた。
共同通信杯のあと、ラクシュを宮崎の育成牧場に十日だけ放牧させ、心身共に休息をとらせた。
休養明けの調教で、北本がラクシュとポリトラックのコースを回っている。ラクシュと日本ダービーを獲るという北本の気迫が、調教スタンドで見ていても感じられた。
これまで手掛けてきた馬と一線を画している、という手応えが、北本にもあるのは間違いない。
熱くなりすぎるな、と天道は言ったが、これは、と思わせる馬と出会えた時の高揚はよく知っている。
優れた馬と出会えるかどうかは運だ。そして、そういうめぐり合わせは、騎手をやっていても、厩舎勤めをしていても、そうそうあることではなかった。
北本が、最後の一周で鞭もいれ、ラクシュを強めに駈けさせた。
計測されたハロンタイムが、調教スタンドに送られ、次々とスクリーンに映し出される。
ポリトラックは他のコースと較べてグリップ力がありスピードが出しやすい。それを踏まえても、好調と見なしていいタイムだ。
北本がコースから掃けると、久瀬が入り、その次の沼倉とあいが馬場で馬のウォーミングアップをはじめた。
沼倉とあいの併馬のあと、天道も調教スタンドを降りて騎乗し、ダートを二周した。
診療所の近くにある水場で馬の目に入った砂を洗い流し、穴の開いたホースを足に回して入念に冷やした。
馬を曳いて厩舎に戻ると、ラクシャの手入れを終えた北本が出てくるところだった。
「ラクシュの次のレース、予定通り毎日杯でよさそうだね」
「はい、自分もそう感じました」
毎日杯で勝てば、次は本命の日本ダービーだ。言い交さずとも、北本もそのつもりでいる。
「それはそうと、久瀬さんへの引継ぎの件はどうなってる?」
「もう大方済んでます。ブリーズアップセールの前には、二頭とも任せられると思います」
「ならよかった」
天道厩舎ではこれから三頭の新馬の入厩を予定していた。
ブリーズアップセールが終わるまで確定ではないが、懇意にしているオーナーの何人かは、早ければ四月中に入厩させたいと伝えてきている。騎手時代から面識のあるオーナーで、気心は知れている。
「新馬三頭のうちの、他の二頭は誰にあてがうか決めているんですか?」
一頭は北本に決めていた。そのために、現在北本が担当しているラクシュ以外の二頭を、久瀬に引き継がせている最中だった。
「まだだよ。沼倉にやらせようかと考えているけど、まぁ相性もあるし、決めるのは馬を見てからかな」
「自分の扱いと違いますね」
「相性がないのが、君の取り柄じゃないか」
「誉め言葉ですか、それ?」
苦笑する北本に、誉め言葉だよ、と天道は笑い返した。
北本の場合、人との付き合い方が、そのまま馬との付き合い方に出ていた。
そして、北本の社交性は、馬の育成以外の場面でも重宝していた。
厩舎を運営していくには、人との繋がりは不可欠だった。営業のような意味合いを持つ会食や、CRA(中央競馬協会)などの重役の機嫌伺いをしなければならない場には、なるべく北本を伴うようにしていた。
「昼食まだだろう。この後どうだい?」
「天道さんの奢りってことですか?」
「たまにはね」
北本を待たせ、いつも通りのやり方で馬の手入れをした。
それから、北本を連れてトレセン内にある食堂に向かった。
昼食の時間には遅いが、席は半分以上埋まっていた。
冬は正午近くまで調教を行うことがある。それから馬の世話をして昼食を摂るので、一時を過ぎて混み合ったりするのだ。
食券で厨房に注文を出した。
天道は温かい蕎麦を受け取り、適当に空いている席に座った。
「そういえば、久瀬さんと藤刀が、近頃終業後に居残ってなにかしているようなんですが、天道さん、聞いてますか?」
食事をはじめて少ししてから、北本が思い出したように言った。
「ああ、久瀬さんから聞いているよ。あいに自分の経験のすべてを伝えようとしているらしい」
「経験のすべて、というと」
「厩務員になってから今日まで、接した馬の特徴や癖なんかを一頭一頭、話して聞かせているみたいだ」
北本が箸を止め、どんぶりを置いた。
「久瀬さんが担当した馬って、どれぐらいの数になるんですか」
「詳しくは知らないが、七、八十頭はいるんじゃないか」
言ってから、もっと多いかもしれない、と天道は思った。
競走馬はデビューしてからだいたい三、四年で引退する。その間、同じ厩務員がずっと世話をすることもあれば、相性を考えて担当替えをすることもある。
一人の厩務員が一度に担当する馬は二、三頭というのが暗黙の了解だった。久瀬は、四十五年に渡り、馬と向き合い続けてきたのだ。
調教を手掛けるようになってからは、担当以外の馬にも騎乗していた。それも含めると、百は超えるか。久瀬の性格なら、そのすべてを記憶しているはずだ。
「ちらりと覗いたんですがね、和やかなのに、ちょっと立ち入れない雰囲気でした」
「歳は爺さんと孫みたいなものでも、馬についてなら、いくらでも語り合う言葉をもっている二人だ」
「じきに定年ですよね。そういう話も、久瀬さんとしてるんですか?」
北本がいくらか複雑な表情で訊いてきた。久瀬が話す相手に実習生のあいを選んだことで、多少なりとも自尊心が傷ついたのだろう。
「まあね」
調教助手の立場は、来年で退く。しかし、いち厩務員として仕事を続ける意思を久瀬は持っていて、天道もそれを承諾した。
ファーストステップの死をきっかけに、自分が培ってきたものを人に託したいという心境になったのか。
ファーストステップについては、天道も忸怩たる思いがあるが、普段は心の奥底に押し込めてある。常に考えていると、身動きが取れなくなるからだ。
考えるのは、眠れず、長い夜を過ごす間だけだ。
予後不良になった馬を治療するという判断は、正しかったのか。結果だけを見れば、ファーストステップを余計に苦しめただけだった。
それ以前に、故障を回避できなかったのか。馬の観察は入念にしているが、なにか見落としがあったのではないか。
考えている間に夜は更け、一、二時間うつらうつらして、翌早朝に出勤する日も少なくなかった。
久瀬が、終業後にあいを借りたいと打診してきたのは、ファーストステップの葬儀を終えて少し経ってからだ。
あいの、騎手としての引き出しを増やす上では、願ってもない申し入れだ、と天道は思った。
会話が途切れ、しばらく二人で黙々と食事を続けた。
「まだ話していなかったが、四月に新しく厩務員を一人雇う。久瀬さんの後釜には、いずれ沼倉を引き上げるつもりだ」
天道は蕎麦を平らげ、残った汁を少し啜った。
「そのこと、沼倉には?」
北本も、米一粒残さずどんぶりを完食していた。
「まだ伝えてない。ぎりぎりまで、言わないつもりだ」
「沼倉には、その方がいいかもしれませんね。自分も、心の中に留めておきます。ちなみに、新しく雇う人は決まってるんですか?」
「新卒を雇おうと思ってる。けど、目星はついてるかな」
「新卒に知人でもいるんですか?」
「内緒。一応、面接はするつもりだから、気になるなら同席していいよ」
天道と北本は一緒に席を立ち、トレーを厨房の返却口に返した。
食堂を出ると北本が、ごちそうさまでした、と屈託のない表情で言ってきた。




