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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十九話

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口伝と再会 ⑤

 正面に八頭、横に二頭いた。

 振り返りはしないが、後ろからも馬蹄の響きが折り重なって追ってきている。


 坂路調教コースでの騎乗は二度目で、一度目のときは今より空いていた。


 今日が特別、坂路コースを利用する馬が多いのか、あいには判断できなかった。

 前後左右に他の馬がいる状態には、否応なくプレッシャーを感じる。あいだけではなく、乗っている馬も委縮している感じがあった。


 北本の担当から、久瀬の担当に移されたばかりの馬だった。あいも何度か馬場で乗っていて、性格は掴めている。


 少し臆病なところがあるかもしれない。しかし、駈けること自体には前向きだ。


 いまも、他の馬に委縮しつつも、前進気勢でいる。一歩の伸びが、やや短いだけだ。


「頑張れ、頑張れ」


 スタートして三百メートルを経過したあたりから、勾配がきつくなった。そこから五百メートルも駈けると、さらに勾配が増した。


 馬が喘ぐ。気持ちが挫けないよう、馬の耳元で呼びかけ、腕と膝の両方を使って前進を促し続ける。


 天道から、タイムは気にするな、と言われていた。

 タイムを出すことより、まっすぐ進むことに注力する。坂路調教はそれだけでいい、というのが天道厩舎での考え方らしかった。


 坂の頂上が見えてきた。

 頂上まで三百メートルを切る。


 坂が、牙をむき出しにしてくる、と感じた。馬が怯む。あいは鞭をひと振りした。叱咤されたと感じた馬が、果敢に後脚で地面を蹴る。


 脚を止めれば、牙にかかる。進むことで、牙をすり抜け、相手の喉元にも噛みつける。


 そのことを、あいは自らの足で坂路を何度も駈け上ることで学んだ。


 ほんとうに、全長一千メートルはある怪物と闘っていると思ったことも、一度や二度ではない。


 頂上に達した。


 後続の邪魔にならない場所まで進んで、鞍から降りた。

 馬の首を撫で、労いの言葉をかける。馬体は湯気が立ち昇りそうなほどだ。あいも全身が汗に濡れていた。


 逍遥馬道を通って坂を下り、久瀬と合流した。


 天道厩舎の前で、馬の状態を触診し、馬房に帰した。


 水をやり、少し経ってから青草と干し草を混ぜたものを与えた。

 あくまで間食で、これとは別に、馬ごとに配合した飼料が用意されている。食事の回数や与える時間も、馬によって微妙に違っていたりする。


 就業後、あいは馬具庫に向かった。


 陽が落ちていて、外は暗かった。馬具庫の扉の隙間から、細く光が漏れ出している。


「お待たせしました」


 久瀬が、布で銜を磨きながら待っていた。

 久瀬は少し頷いただけで、あいは、布と銜を取り、久瀬の斜向かいに座った。


「はじめるか」


「はい、お願いします」


「リボルバーノック。こいつは、俺が調教助手になって、最初に担当した馬だ。引退するまで、調教も俺がやった」


 久瀬が、リボルバーノックについて語りはじめた。


 これで、五十二頭目になる。

 どんな馬がいて、どう接したか。食の好み、餌の配合の仕方。調教した馬には、その経過も仔細に語られた。


 半年ほど関わっただけの馬もいれば、入厩から引退まで久瀬が手がけた馬もいた。

 当然、過ごした時間が長ければ長いほど、語る内容も濃密になった。


 記録を引っ張り出してこなくても、久瀬は目を閉じれば、出逢ったすべての馬を思い出せるようだった。

 そして、一頭一頭の生きた証を、自分は伝えられている。それは久瀬の人生そのものといっていい。


 騎手になったら役に立つとは、もう考えなかった。


 天道との出会いがあり、久瀬との出会いがあった。そこにファーストステップがいた。どれも偶然だが、必然な気もした。


 語られることに、意味を求めようとはせず、受け入れようという気持ちになっていた。


 久瀬は話しながら、銜を磨き続けた。あいも、同じく手を動かし続けた。


 連日やっているので、天道厩舎の馬具庫にある銜はすべて、一点の曇りもない。それでも磨く。儀式みたいなものだ、とあいは思っていた。


「今夜は、ここまでにしておこう」


 リボルバーノックの話だけで、気づけば一時間が過ぎていた。こういう日もあれば、一度に二、三頭に及ぶ日もあった。


 初日にメモを取ろうとして、久瀬にやんわりと制された。それからは、魂に刻むつもりで、久瀬の言葉を聞き続けている。


「ありがとうございました」


 久瀬は曖昧に首を動かした。頭を振ったようにも、頷いたようにも見えた。


 馬具庫を施錠し、厩舎の外に出ると、星を散りばめた夜空が拡がっていた。


 久瀬が踵を返し、あいに背を向けた。


「久瀬さん、帰らないんですか?」


 実習生が入居している独身寮も、駐車場も、途中までは道が同じだ。


 久瀬は、滋賀の草津市街から車でトレセンに通勤している。

 妻子はいるが、ともに暮らしてはいないという。離婚したのか、別居しているだけなのか、つっこんで聞ける間柄ではなかった。


「丘で少し星を眺めたい」 


「私もいいですか?」


「お前、明日も朝から騎乗だろう」


「久瀬さんもじゃないですか」


「子どもは、もう寝る時間だ」


 返答に困り、あいは引き下がった。


 冗談だったのかもしれないと、寮に帰ってから思い至った。


 週末になり、天道と北本がラクシュを連れて阪神競馬場へ出発した。


 毎日杯に出走するのだ。勝ったら、次は日本ダービーという方針だ。いわば前哨戦で、北本はあからさまに気負っていた。


 出発前、天道が北本の背後に忍び寄って、膝を膝で押してよろめかす悪戯をしかけていた。


 子どもみたいなことを、と北本は顔を顰めていたが、それで肩の力は抜けた様子だった。


 あいは、天道厩舎の馬の調教と、他厩舎からの乗馬依頼、それに日課のフィジカルトレーニングをこなした。


 ラクシュが毎日杯で一着を獲ったことは、中継を見ていた沼倉から聞いた。



 週が明けた。


 月曜日で、トレセン内に少しのんびりとした空気が漂っている。

 金曜日も静かなことが多いが、そちらはレースを控えて馬を休めているからだった。馬はともかく、人の方は緊張感を途切れさせていない。


 レース直後の月曜日は、馬も人もどこかのんびりしている。


「あい」


 少しの間だけ暇になり、厩舎の片隅に繋がれた沼倉の飼い犬と戯れていると、背後から声をかけられた。


 加奈恵が立っていた。

 スーツを着、髪をハーフアップに結っていて、別人のようだった。


「え、えっ、加奈恵、だよね?」


 走り寄ると、加奈恵が脇に手を差し込んできた。あいは短い悲鳴をあげた。


 次の瞬間には、小さな子どものように抱え上げられていた。この腕力、やっぱり加奈恵だ、とあいは思った。


「ちょお重くなったな。うん、前より一段と逞しくなったんとちゃうか?」


「身長も、少しだけど伸びたんだよ」


「そおか。言われてみると、顔つきもちょっぴり大人びたな」


「顔はわからないけど。それより、抱えたまま喋らないでよ」


「おっと、すまんすまん」


 地面に降ろされた。

 改めて、加奈恵と顔を見合わせた。


 ふいに、涙が込み上げてきた。目の前にあった加奈恵の胸に顔を埋め、潤んだ瞳を隠した。


「大人っぽくなったのは外見だけで、中身はかえって甘えん坊になったんか」


「違うよ。でも、いまだけ」


「ま、ええけどな」


 揺らいだ心を持ち直して、加奈恵から身体を放した。


「ほんとに加奈恵だ」

 照れ臭さを紛らわせるために、あいは笑いかけた。


「人を幽霊みたい。天道厩舎に面接に来たんや。採用前提と言われとっても、やっぱ緊張するな」


 加奈恵が天道厩舎に厩務員として就職する。頭の中で整理するのに、ほんの少し間を要した。


「四月からまた一緒や。あいに負けんと、気張らせてもらうわ」


 差し出された加奈恵の拳に、あいは拳を合わせて応えた。


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