口伝と再会 ⑤
正面に八頭、横に二頭いた。
振り返りはしないが、後ろからも馬蹄の響きが折り重なって追ってきている。
坂路調教コースでの騎乗は二度目で、一度目のときは今より空いていた。
今日が特別、坂路コースを利用する馬が多いのか、あいには判断できなかった。
前後左右に他の馬がいる状態には、否応なくプレッシャーを感じる。あいだけではなく、乗っている馬も委縮している感じがあった。
北本の担当から、久瀬の担当に移されたばかりの馬だった。あいも何度か馬場で乗っていて、性格は掴めている。
少し臆病なところがあるかもしれない。しかし、駈けること自体には前向きだ。
いまも、他の馬に委縮しつつも、前進気勢でいる。一歩の伸びが、やや短いだけだ。
「頑張れ、頑張れ」
スタートして三百メートルを経過したあたりから、勾配がきつくなった。そこから五百メートルも駈けると、さらに勾配が増した。
馬が喘ぐ。気持ちが挫けないよう、馬の耳元で呼びかけ、腕と膝の両方を使って前進を促し続ける。
天道から、タイムは気にするな、と言われていた。
タイムを出すことより、まっすぐ進むことに注力する。坂路調教はそれだけでいい、というのが天道厩舎での考え方らしかった。
坂の頂上が見えてきた。
頂上まで三百メートルを切る。
坂が、牙をむき出しにしてくる、と感じた。馬が怯む。あいは鞭をひと振りした。叱咤されたと感じた馬が、果敢に後脚で地面を蹴る。
脚を止めれば、牙にかかる。進むことで、牙をすり抜け、相手の喉元にも噛みつける。
そのことを、あいは自らの足で坂路を何度も駈け上ることで学んだ。
ほんとうに、全長一千メートルはある怪物と闘っていると思ったことも、一度や二度ではない。
頂上に達した。
後続の邪魔にならない場所まで進んで、鞍から降りた。
馬の首を撫で、労いの言葉をかける。馬体は湯気が立ち昇りそうなほどだ。あいも全身が汗に濡れていた。
逍遥馬道を通って坂を下り、久瀬と合流した。
天道厩舎の前で、馬の状態を触診し、馬房に帰した。
水をやり、少し経ってから青草と干し草を混ぜたものを与えた。
あくまで間食で、これとは別に、馬ごとに配合した飼料が用意されている。食事の回数や与える時間も、馬によって微妙に違っていたりする。
就業後、あいは馬具庫に向かった。
陽が落ちていて、外は暗かった。馬具庫の扉の隙間から、細く光が漏れ出している。
「お待たせしました」
久瀬が、布で銜を磨きながら待っていた。
久瀬は少し頷いただけで、あいは、布と銜を取り、久瀬の斜向かいに座った。
「はじめるか」
「はい、お願いします」
「リボルバーノック。こいつは、俺が調教助手になって、最初に担当した馬だ。引退するまで、調教も俺がやった」
久瀬が、リボルバーノックについて語りはじめた。
これで、五十二頭目になる。
どんな馬がいて、どう接したか。食の好み、餌の配合の仕方。調教した馬には、その経過も仔細に語られた。
半年ほど関わっただけの馬もいれば、入厩から引退まで久瀬が手がけた馬もいた。
当然、過ごした時間が長ければ長いほど、語る内容も濃密になった。
記録を引っ張り出してこなくても、久瀬は目を閉じれば、出逢ったすべての馬を思い出せるようだった。
そして、一頭一頭の生きた証を、自分は伝えられている。それは久瀬の人生そのものといっていい。
騎手になったら役に立つとは、もう考えなかった。
天道との出会いがあり、久瀬との出会いがあった。そこにファーストステップがいた。どれも偶然だが、必然な気もした。
語られることに、意味を求めようとはせず、受け入れようという気持ちになっていた。
久瀬は話しながら、銜を磨き続けた。あいも、同じく手を動かし続けた。
連日やっているので、天道厩舎の馬具庫にある銜はすべて、一点の曇りもない。それでも磨く。儀式みたいなものだ、とあいは思っていた。
「今夜は、ここまでにしておこう」
リボルバーノックの話だけで、気づけば一時間が過ぎていた。こういう日もあれば、一度に二、三頭に及ぶ日もあった。
初日にメモを取ろうとして、久瀬にやんわりと制された。それからは、魂に刻むつもりで、久瀬の言葉を聞き続けている。
「ありがとうございました」
久瀬は曖昧に首を動かした。頭を振ったようにも、頷いたようにも見えた。
馬具庫を施錠し、厩舎の外に出ると、星を散りばめた夜空が拡がっていた。
久瀬が踵を返し、あいに背を向けた。
「久瀬さん、帰らないんですか?」
実習生が入居している独身寮も、駐車場も、途中までは道が同じだ。
久瀬は、滋賀の草津市街から車でトレセンに通勤している。
妻子はいるが、ともに暮らしてはいないという。離婚したのか、別居しているだけなのか、つっこんで聞ける間柄ではなかった。
「丘で少し星を眺めたい」
「私もいいですか?」
「お前、明日も朝から騎乗だろう」
「久瀬さんもじゃないですか」
「子どもは、もう寝る時間だ」
返答に困り、あいは引き下がった。
冗談だったのかもしれないと、寮に帰ってから思い至った。
週末になり、天道と北本がラクシュを連れて阪神競馬場へ出発した。
毎日杯に出走するのだ。勝ったら、次は日本ダービーという方針だ。いわば前哨戦で、北本はあからさまに気負っていた。
出発前、天道が北本の背後に忍び寄って、膝を膝で押してよろめかす悪戯をしかけていた。
子どもみたいなことを、と北本は顔を顰めていたが、それで肩の力は抜けた様子だった。
あいは、天道厩舎の馬の調教と、他厩舎からの乗馬依頼、それに日課のフィジカルトレーニングをこなした。
ラクシュが毎日杯で一着を獲ったことは、中継を見ていた沼倉から聞いた。
週が明けた。
月曜日で、トレセン内に少しのんびりとした空気が漂っている。
金曜日も静かなことが多いが、そちらはレースを控えて馬を休めているからだった。馬はともかく、人の方は緊張感を途切れさせていない。
レース直後の月曜日は、馬も人もどこかのんびりしている。
「あい」
少しの間だけ暇になり、厩舎の片隅に繋がれた沼倉の飼い犬と戯れていると、背後から声をかけられた。
加奈恵が立っていた。
スーツを着、髪をハーフアップに結っていて、別人のようだった。
「え、えっ、加奈恵、だよね?」
走り寄ると、加奈恵が脇に手を差し込んできた。あいは短い悲鳴をあげた。
次の瞬間には、小さな子どものように抱え上げられていた。この腕力、やっぱり加奈恵だ、とあいは思った。
「ちょお重くなったな。うん、前より一段と逞しくなったんとちゃうか?」
「身長も、少しだけど伸びたんだよ」
「そおか。言われてみると、顔つきもちょっぴり大人びたな」
「顔はわからないけど。それより、抱えたまま喋らないでよ」
「おっと、すまんすまん」
地面に降ろされた。
改めて、加奈恵と顔を見合わせた。
ふいに、涙が込み上げてきた。目の前にあった加奈恵の胸に顔を埋め、潤んだ瞳を隠した。
「大人っぽくなったのは外見だけで、中身はかえって甘えん坊になったんか」
「違うよ。でも、いまだけ」
「ま、ええけどな」
揺らいだ心を持ち直して、加奈恵から身体を放した。
「ほんとに加奈恵だ」
照れ臭さを紛らわせるために、あいは笑いかけた。
「人を幽霊みたい。天道厩舎に面接に来たんや。採用前提と言われとっても、やっぱ緊張するな」
加奈恵が天道厩舎に厩務員として就職する。頭の中で整理するのに、ほんの少し間を要した。
「四月からまた一緒や。あいに負けんと、気張らせてもらうわ」
差し出された加奈恵の拳に、あいは拳を合わせて応えた。




