躍進と惑い
日高の育成牧場での研修を終え、正士郎は、美駒トレーニングセンターに戻った。
日高にはまだかなり雪が残っていたが、関東では桜が開花していた。
「へくちっ」
正士郎がこれからコース調教に出るファステラウンの馬装を整えていると、子どものような愛らしいくしゃみが聞こえた。
鼻を赤くさせた今春零が、騎乗の装いで近づいてきた。調教師の日野宮と一緒である。
「正士郎チャン、準備はできてるね」
日野宮は、正士郎に軽く手を振って言った。
「はい」
調教前の馬体チェックは、調教助手が立ち合い、二人で行った。
調教助手はその後、正士郎に馬装の装着を任せ、ファステラウンと併せをする馬の支度に取りかかっている。
零は鼻をぐずぐずさせながら、ファステラウンの首に掌を当てた。
ファステラウンが、零の潤んだ目を覗きこむように頭を垂れる。
「花粉症でしんどそうだけど、乗るからにはしっかり頼むぜ、今春チャンよ」
「へくちっ、わかってます」
零が正士郎に手を差し出してきた。手綱を譲り、一歩退いた。
「行ってきます」
零とファステラウンが調教に行くのを、日野宮と見送った。
「正士郎チャンは、七時から坂路だったね」
「はい」
「育成牧場の若駒はどうだった、しっかり振り回されてきたかい?」
「振り回されて、振り落とされましたよ」
馴致を終えたばかりで人を乗せることにまだ慣れていない若駒だった。騎乗し、まっすぐ駈けさせるだけでも、大分手こずった。
若駒ともすんなりと折り合いをつけたのは、同期の中ではあいだけだった。
「へえ、何回落馬した?」
「三回、ですよ」
「ははあん、五回は落とされたな」
正士郎は内心で舌打ちした。日野宮が笑い声をあげた。
「正士郎チャンはわかりやすすぎるぜ。ま、それが正士郎チャンの可愛いところでもあるか」
「そのちゃんづけで呼ぶの、やめてもらえませんか。何度も言ってますが」
「尻の青いうちは、正士郎チャンさ」
「今春騎手もですか」
零はデビューして一年目で最多勝利新人騎手の記録を塗り替え、二年目の今年、すでにGⅠで一勝を挙げた。それも秋の天皇賞という舞台でだ。
零はすでに新人騎手の枠から大きく抜け出している。容姿も相まって、世間ではまるでアイドルのような扱いだった。
「実力は認めてるさ。じゃなきゃ、エージェントにいくら熱心に売り込まれたところで、ファステラウンには乗せない。夏の海外遠征以降、才気走った雰囲気もなくなったしな」
ファステラウンは、日野宮厩舎で一番期待されている四歳馬だ。
昨年の日本ダービーではハナ差で惜しくも一着は逃したが、秋の天皇賞では零の騎乗で一着を獲った。
ファステラウンは目下、春の天皇賞に向けて調整中だった。
同一年ではないが、春の天皇賞を獲れば、春秋連覇ということになる。
「けど、今春チャンも正士郎ちゃんも、まだ青春の真っただ中だろ。馬鹿にしてるわけじゃないんだぜ。青春しているやつが好きなのさ。だから可愛がってやりたくなっちまう」
日野宮が、少し腫れぼったい下唇に手をやった。節くれた壮年の男の手だが、挙措には妙な艶かしさがある。
「青春と言われても、よくわからないです」
「騎乗技術を磨くのも大事だが、惚れた女を振り向かせるのも、同じぐらい大事だってことを、俺サンは言いたいわけさ」
日野宮は正士郎の肩に腕を回し、ぐいと顔を近づけてきた。背丈が高く、異様に手足が長いのが、日野宮の特徴だ。
「正士郎チャン、惚れてる女がいるだろ」
「なにを」
耳元でささやかれ、正士郎は日野宮の腕から逃れようともがいた。しかし日野宮の長い腕は絡みついて離れない。
「いませんよ。だいたい色恋に現を抜かしている暇なんて俺には」
「自分を偽る癖があるよな、正士郎チャンはよ。よくないぜ。騎乗には、そいつの生き方が出る。自分の気持ちと向き合えないやつは、馬とも向き合えない」
正士郎は、黙った。
一時期、ことごとく馬との折り合いが乱れたことがあった。JJHコンペティションに向けた練習期間中だ。
家族に対するわだかまりに背を向け、目の前のことだけに集中しようとした。なのに集中しようとすればするほど、正士郎の乗馬は崩れていった。
加奈恵に、肚の底に押し込めていたものを晒した。
そこから、崩れた乗馬を持ち直し、JJHコンペティションで結果を出すことができた。
母に手を上げた父への嫌悪が、消えたわけではない。母は父への情を残しながら、幼かった自分を守るために、離縁を決断をした。その負い目も、なくなってはいない。
ただ、加奈恵に本心を話してから、自分の弱さや愚かさが、少しだけ赦せるようになった、という気がする。
「日野宮さんの、言う通りかもしれません」
「お、意外とあっさり認めたな」
「心のあり様が騎乗に出るのは、身をもって知っているつもりです。それで、俺は自分の今の騎乗に、決して満足していません」
「正士郎チャンは、技術はそこそこあるぜ。フィジカルもな」
「ありがとうございます」
足りていないのは心の部分だ、とはっきり言われた気がした。
「さてと、俺サンはそろそろ調教スタンドに行くぜ」
日野宮は正士郎を放し、軽い足取りで去っていった。
ブリーズアップセールが、三日後に控えていた。そこで正士郎たち三学年は、供覧騎乗を行う。
競売にかけられる新馬に乗り、買い手の前で実際に駈ける姿を見せるのだ。中山競馬場のコースを使うのが通例だった。
供覧騎乗は、新馬のお披露目であると同時に、三学年に進級した騎手課程生が、騎乗の手並みを披露する場でもある。
日高の育成牧場での研修は、一週間泊まり込んで行った。東西のトレセンに分かれていた同期とも、久しぶりに顔を合わせる機会になった。
研修期間で乗った若駒は、ブリーズアップセールで供覧騎乗する馬だ。研修は、入厩前の育成現場を学ぶ他にも、供覧騎乗の予行演習の意味合いもあった。
競馬学校を卒業した加奈恵が、あいの実習先である天道厩舎に就職したことは知っていた。
日高で再会したあいに、加奈恵の話題を振ることはしなかった。気にしている自分の心を封殺した、というところはなかったか。
自分でも気づかないうちに、自分の心を偽る。日野宮に言われた通り、いつからかそんな癖がついてしまっていた。
JJHコンペティション以降、できるだけ自分の心に従って生きようと思い定めたが、染みついた癖はすぐに抜けるものでもなかった。
まず三日後の供覧騎乗を成功させる。それから、あいに加奈恵の様子を訊こう。
二つを、正士郎は心に決めた。




