躍進と惑い ②
ブリーズアップセールでの供覧騎乗は、緊張したが、滞りなく終えることができた。
昨年は、志摩が供覧騎乗の直後に倒れた。
そのまま病院に運ばれ、裏で栄養失調になるまで食事制限をしていたことが発覚した。
志摩は、競馬学校が定める体重の規定を超えないために、身を削る覚悟をもって挑んでいたのだ。
競馬学校はその志摩に対して、退学の決定を下した。
志摩の心身の健康に配慮した結果だと、頭では理解できても、気持ちの部分ではすんなり納得できなかった。
それから、志摩のことは、頭から消した。
いや、ほんとうは、志摩に異性として惹かれていたのかもしれない。しかし志摩にはすでに恋人がいた。
大矢と正士郎の三人で、あいは病院に志摩の見舞いに行った。そこで志摩が、恋人と思える女性と二人でいる場面に出くわした。
綺麗な人だ、と思い、同時に、志摩の傍に自分が入り込む余地はないのだと、悟ったのだと思う。
自分が抱いた淡い感情が、初恋というものなのだろうか。だとしたら物語のように劇的ではなく、あとには痛みに似た、かすかな疼きが残っただけだった。
その疼きも、いまは遠い。
中山競馬場で供覧騎乗を終え、あいは、競馬学校の送迎バスに乗って、御園トレーニングセンターに戻った。
夕方で、すでに空には星が出ていた。
天道厩舎にはまだ人がいて、明かりがついていた。
その明かりを目にすると、帰って来た、という気分が湧いてきた。
「おう、あい、おかえり」
厩舎の中央にある飼料庫を覗くと、加奈恵が明日の飼料を準備している最中だった。
「ただいま、加奈恵」
加奈恵の他に、沼倉を含めた厩務員が三人いた。加奈恵はまだ見習いの扱いだった。
「なにか手伝えることありますか?」
「人手は足りてる。疲れてるだろう、帰って休んだらいい。久瀬さんも、今日はもう帰った」
沼倉が、あいに目を向けずに言った。
馬ごとに配合された飼料のバケツが積み上げられている。三段か四段に積まれ、それは馬の数だけ用意される。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、お先に失礼します」
「ウチも一時間ぐらいしたら帰るし、そしたら一緒に夕飯にしよ」
「うん、用意して待ってる」
加奈恵と小声で言い交し、厩舎を出た。
あいはトレセンから道を一本渡った先にある独身寮に帰った。
加奈恵も、同じ寮に入居していた。加奈恵の部屋はあいと同じ棟の、一つ下の階にある。
湯船で身体を休め、夕食の支度を済ませた頃に、加奈恵が訪ねてきた。
一度自分の部屋に寄ってシャワーを浴びてきたらしく、加奈恵はさっぱりした部屋着姿になっていた。
「これ、ウチが昨日作った煮物」
「わ、おいしそう」
味が染みていそうな南瓜の煮物だった。タッパーから深めの皿に移し、食卓に並べた。
「いただきます」
南瓜の煮物から箸をつけた。口に入れると、ねっとりとした食感があり、優しい甘さが口の中いっぱいに広がった。
「どうや?」
「すっごくおいしい」
「せやろ。休みやったから、時間かけてたったわ。忙しいと、なかなかこんなんは作られへんやろ」
加奈恵はあいがつくった野菜と卵の炒めものを自分の小皿にとりわけ、おいしそうに頬張った。
話題は、供覧騎乗のことになった。
あいは、騎乗した馬との思い出を話した。
今月の上旬、日高の育成牧場でも何度も乗った栗毛の若駒である。人を乗せるのに馴れてはいなかったが、賢い馬だった。心が通じ合うと、かなりこちらの意図を汲んで動いてくれるようになった。
「サファイアに似てる気がして、嬉しくなっちゃった」
「サファイアジャケットか。あの馬も、賢かったよなあ」
「そういえば、供覧騎乗が終わったあと、控室で正士郎君に加奈恵のことを訊かれたよ」
「あいつが、ウチのことを?」
訝しげに首を傾げる加奈恵に、あいは頷いた。
「元気なのかって」
「そんだけか?」
「うん」
「なんやねんそれ」
元気だよ、と答えると、そうか、とだけ呟き、そそくさと離れていった正士郎の後ろ姿を、あいは思い出した。
あれは、なんだったのか。加奈恵も、特に思い当たるふしはなさそうだ。
「ま、なにはともあれ、お疲れさん。トレセンでの実習も、あとわずかやな」
加奈恵が空いていたあいのコップに茶を注ぎ、自分のコップを手に持って掲げてきた。あいもコップを手にして、軽くうち合わせた。
「わずかって言っても、まだ三ヶ月あるよ」
「三ヶ月なんて、すぐやろ」
五月になろうとしていた。
言われてみれば、トレセンに来て今日まで、あっという間だったという気がする。
食べ終わった食器をダイニングの流しに運んだ。加奈恵が洗剤をつけたスポンジで洗い、あいが水で泡を流し落していく。
食器を片付け、リビングに戻った。
加奈恵がラクシュの話をはじめた。ラクシュは、ちょっと驚くほどの量を食べる。その分、糞も他の馬より多かった。
見習いとして率先して馬房掃除をしている加奈恵は、ラクシュの糞を手に取り、感触を確かめた、という話をした。
食事の間は話したいのを我慢していたのだろうと思うと、少し可笑しいく思えた。
ラクシュの糞は、他の馬のものより凝縮されている感じらしい。それだけ、体内で栄養を搾りとっている、ということなのか。
「なんやにやにやして、これは真面目な話やで」
「うん、ごめん、ちゃんと聞いてるよ」
食べる量だけでなく、糞の状態も、馬の健康の大切な指標だった。
夜が更ける前に、加奈恵は自分の部屋へ帰っていった。
翌日、あいが天道厩舎に顔を出すと、天道と西暢がラクシュの馬房の前で話していた。
「あい、今日はラクシュとの併馬を頼む」
天道があいに気づき、挨拶もそこそこに言った。
「細かい指示はあとで伝えるが、ラクシュには暢さんが乗る。暢さんの騎乗を見たことは?」
「はい、テレビの中継では何度か」
学校でも、騎乗の参考として実際のレースを観る授業があった。そこで何人かの現役騎手が取り上げられ、その中には、西の騎乗も含まれていた。
「経験豊富な人だ。並んで駈けることで、映像では伝わらないことも、感じとれるはずだ。学ばせてもらえるいい機会だ」
「おい駿、あまりプレッシャーをかけるなよ。ただでさえ日本ダービー前で緊張してるんだ」
西が隣にいる天道の肩を肘で小突いた。
「緊張とか、いまさらしないでしょう。何年乗ってるんです」
「年数なんて関係なく、緊張はするんだよ」
あいは、二人のやり取りを聞いていて、はっとした。
「日本ダービー前の併馬なのに、相手が私でいいんですか。沼倉さんとか、北本さんの方が」
大一番を控え、一秒たりとも無駄にできる時間はないはずだ。
ラクシュにとって効果的な調教になるかどうかは、併走させる馬の騎手の手腕も関わってくるのではないのか。
「あいはいつも通りでいい。普段から、手抜きはしていないだろ?」
あいは、勢いよく首を上下させた。
「よろしく、藤刀さん」
西が柔和な笑みを浮かべて言った。
「よ、よろしくお願いします」
声が上擦った。
だめだ、落ち着かないと。そう思い、あいは太腿を思い切り抓り、雑念を払った。




