躍進と惑い ③
芝の調教コースに出て、西と馬を並べた。
「はじめようか」
西の合図で、ラクシュが颯爽と駈け出した。ほぼ同時に、あいも馬を駈けさせた。
ラクシュを抜き、ぐいぐいと前へ出て行く。馬脚を抑えようとしたが、逆に手綱が引っ張られた。
馬が掛かり気味なのは、西に遅れをとることを懼れる心があったせいだ。緊張をほぐしきれていなかった、とあいは考えた。
息を吸い、細く、長く吐いた。目を遠くへ向けた。コーナーの奥に森があり、さらに先に山が、空を行く雲がある。
風が、かすかに軽くなった。
視線を戻す。馬の鬣が揺れている。コーナーが迫る。下半身の動きで、馬に歩幅を刻むように伝えた。馬が応える。コーナーを小回りで抜けた。
ラクシュが、ぴたりと隣についてきている。前へ上がってくる。追い縋ろうとはせず、リズムを守った。
あいが騎乗している馬は、ラクシュと較べるとやや見劣りするが、ちゃんと折り合えている限り、極端に突き放される心配はない。
西が腕に手綱を繰り込み、ラクシュを追いはじめた。西の頭が、ずっと同じ位置にある。体幹が一切ぶれていないから、そう見えるのか。
あいも、懸命に馬を追ったが、じわじわと引き離されていく。
一周しきる前に、疾駆を解いた。常歩まで落とし、調教スタンドの近くまで進んだ。
あいは、西と足並みを揃えた。
「あそこから、よくすぐに折り合えたね」
鞍に座った西が、ゴーグルを上げて言った。スタート直後のことを言われているのはわかった。
「すみません、私の気持ちが前に出過ぎてしまったせいで、この子に変な勘違いをさせて」
「気づいても、なかなかすぐには立て直せないものさ」
「そういうときはどうすれば?」
「止まらない馬を無理に止めようとしても、負担になるだけだ。それならいっそ、好きなだけ突っ走っちまえ、と騎手の方が開き直るのも、場合によってはありかな」
「開き直る。考えたことありませんでした」
「僕らは、馬にとっては背負わされた荷物みたいなもんさ。できるだけ負担にならない。それが一番大事」
西の考えは、騎乗を見ていても伝わってきた。追いはじめるまで、手綱が弛んでいたのだ。
疾駆中の姿勢保持も完璧だった。
コースを出て、鞍から降りた。
あいが騎乗した馬は、まだ息を弾ませていたが、ラクシュの呼吸はすでに落ち着いていた。
体力の違いもあるのだろうが、騎手の負担が少なければ、疲労度に差が出るのは当然だった。
千数百メートルの距離ならともかく、二千五百、あるいは三千を超えるレースでは、その差は大きい。
天道が、双眼鏡を片手に、歩いてやってきた。調教スタンドではなく、コースと厩舎区画の間にある丘の上から見ていたらしい。
緑の生い茂る丘の上は切り拓かれていて、そこからでもコース全体を望むことができた。
「お疲れさまです、暢さん。あいも、おつかれさま」
天道は双眼鏡を畳み、ズボンの尻側のポケットに突っこんだ。
「ラクシュは、まだ動きたりなさそうだぞ、駿」
「プールを押さえてあるんで、馬体のチェックをしてから、北本がそっちに連れて行きますよ」
「そうか。なら、あとは任せようか」
天道の後ろにいた北本が、西からラクシュの手綱を受け取った。西がラクシュの鼻面を撫でると、ラクシュは尻尾を揺らし、気持ちよさそうな声を発した。
ひとしきり撫でられてから、ラクシュは北本に連れていかれた。あいも、自分が乗った馬を厩舎へ連れて行き、手入れをしてから馬房に帰した。
「藤刀は、そのまま休憩に入ってくれ。戻ってきたら、沼倉と、入厩したての馬のランジングだ」
別の馬房で飼い付けの最中だった久瀬が言ってきた。
「わかりました」
時間はまだ早かったが、昼食を済ませておくことにした。
食堂へ行く途中で、西と出くわした。上着だけを、風通しのよさそうな薄地のシャツに着替えていた。
「これから昼食?」
「はい、西さんもですか?」
「ここのカレーが好きでね。来るといつも食べて帰るんだ」
「他と違うんですか?」
「昆布とカタクチイワシの干物を入れて煮だしたスープを使ってるんだ。カレーなんだけど、出汁の旨味もしっかり感じるんだ」
楽しげな西の表情を見ていたら、あいもそのカレーが食べたくなってきた。
西と食堂に入り、カレーを注文した。西と同席して昼食を食べる流れになった。
「どう?」
あいがカレーを一口食べると、西が訊いてきた。
「おいしいです」
西は満足そうに頷き、自分でもスプーンを口に運んだ。
「久瀬さんから、これまで世話してきた馬の話を聞いているんだって?」
カレーを半分ほど食べたところで、西が話を振ってきた。
「はい」
「終業後に残って話を聞くんだろ。疲れてるだろうに偉いね」
「そんな。いろんな馬について知れて、楽しいです。勉強にもなりますし」
「いいな、ほんとうに楽しそうだ。俺も参加させてもらおうかな」
「えっ、西さんがですか」
「冗談だよ。参加してみたいのは、本心だけどね」
からかわれても、嫌な気はしなかった。さっぱりとした性格が天道と似ている、とあいは思った。
「あの、質問してもいいですか?」
「なにかな」
「騎手として、馬に還せるものって、どんなものがあると思いますか」
「馬にかえせるもの?」
「馬にしてあげられること、というか」
「なるほど、そういう意味か」
「久瀬さんの話を聞けば聞くほど、競馬って、馬の存在で、なりたってるんだって思えて」
馬の命で。頭に浮かんだ言葉を、あいは、咄嗟に言い換えた。
声に出して言うことで、想いとは裏腹に、かえって軽く聞こえることがある。
「わかってたはずなんですけど、あらためてそうだなって思って」
「それで、人が馬にできることはなにか、考えたくなった、か。いや、質問は人としてではなくて、騎手としてか」
「西さんは、こういうこと、考えますか?」
「考えるよ、たまにだけどね。自分なりに、こう、という答えのようなものもある」
「その、答えっていうのは」
死の間際の、ファーストステップの息遣いが、耳の奥でした気がした。胸が締めつけられる感じがして、目を伏せそうになったが、なんとか堪えた。
西が、じっとあいの目を見つめてきた。心を覗かれている、とは感じなかった。西に、茫洋としたものを感じただけだ。
「教えない。天道に訊いても、そう答えるな。あいつも、馬に還すなにかについては、俺以上に考えているはずだが」
「そうですか」
「意地悪く感じる?」
あいは、首を横に振った。
「自分で考えるべき、ですよね。質問したこと自体、甘えだったと思います」
「馬に乗って駈ける楽しさや、競うことの面白さは、わかりやすい。けれど、競馬はそれだけじゃない。苦しみの中にある悦び、と言うと、違うかな。難しいな」
ファーストステップの、いや、馬の死を目の当たりにして、悲しみにうちひしがれた。
馬を死なせるのだ。その現実を前にしてもなお、騎手になりたい、という思いは捨てられなかった。
苦しみの、もっと言えば、生きることの中にある悦び。幸福を求める心とも違う。違うということがわかるだけで、説明はできない。
生ききって、死ぬ。それが悦びに繋がるのかどうかも、わからない。もがき苦しみながら生き、そして死ぬまで、ほんとうにはわかり得ないことだ。
競走馬は、なにを想うのか。
すべてが、想像でしかない。
食事に戻った。
西と、残りのカレーを平らげた。
「ごちそうさまでした、カレー、おいしかったです」
「よかった。うまいものを食べる時間は間違いなく幸福だ」
「確かにそうですね」
西の笑顔につられて、あい頬も緩んだ。




