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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十話

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躍進と惑い ③

 芝の調教コースに出て、西と馬を並べた。


「はじめようか」

 西の合図で、ラクシュが颯爽と駈け出した。ほぼ同時に、あいも馬を駈けさせた。


 ラクシュを抜き、ぐいぐいと前へ出て行く。馬脚を抑えようとしたが、逆に手綱が引っ張られた。


 馬が掛かり気味なのは、西に遅れをとることを懼《おそ》れる心があったせいだ。緊張をほぐしきれていなかった、とあいは考えた。


 息を吸い、細く、長く吐いた。目を遠くへ向けた。コーナーの奥に森があり、さらに先に山が、空を行く雲がある。


 風が、かすかに軽くなった。


 視線を戻す。馬の鬣が揺れている。コーナーが迫る。下半身の動きで、馬に歩幅を刻むように伝えた。馬が応える。コーナーを小回りで抜けた。


 ラクシュが、ぴたりと隣についてきている。前へ上がってくる。追い縋ろうとはせず、リズムを守った。


 あいが騎乗している馬は、ラクシュと較べるとやや見劣りするが、ちゃんと折り合えている限り、極端に突き放される心配はない。


 西が腕に手綱を繰り込み、ラクシュを追いはじめた。西の頭が、ずっと同じ位置にある。体幹が一切ぶれていないから、そう見えるのか。


 あいも、懸命に馬を追ったが、じわじわと引き離されていく。


 一周しきる前に、疾駆を解いた。常歩まで落とし、調教スタンドの近くまで進んだ。


 あいは、西と足並みを揃えた。


「あそこから、よくすぐに折り合えたね」

 鞍に座った西が、ゴーグルを上げて言った。スタート直後のことを言われているのはわかった。


「すみません、私の気持ちが前に出過ぎてしまったせいで、この子に変な勘違いをさせて」


「気づいても、なかなかすぐには立て直せないものさ」


「そういうときはどうすれば?」


「止まらない馬を無理に止めようとしても、負担になるだけだ。それならいっそ、好きなだけ突っ走っちまえ、と騎手の方が開き直るのも、場合によってはありかな」


「開き直る。考えたことありませんでした」


「僕らは、馬にとっては背負わされた荷物みたいなもんさ。できるだけ負担にならない。それが一番大事」


 西の考えは、騎乗を見ていても伝わってきた。追いはじめるまで、手綱が弛《たゆ》んでいたのだ。

 疾駆中の姿勢保持も完璧だった。


 コースを出て、鞍から降りた。


 あいが騎乗した馬は、まだ息を弾ませていたが、ラクシュの呼吸はすでに落ち着いていた。


 体力の違いもあるのだろうが、騎手の負担が少なければ、疲労度に差が出るのは当然だった。


 千数百メートルの距離ならともかく、二千五百、あるいは三千を超えるレースでは、その差は大きい。


 天道が、双眼鏡を片手に、歩いてやってきた。調教スタンドではなく、コースと厩舎区画の間にある丘の上から見ていたらしい。


 緑の生い茂る丘の上は切り拓かれていて、そこからでもコース全体を望むことができた。


「お疲れさまです、暢さん。あいも、おつかれさま」

 天道は双眼鏡を畳み、ズボンの尻側のポケットに突っこんだ。


「ラクシュは、まだ動きたりなさそうだぞ、駿」


「プールを押さえてあるんで、馬体のチェックをしてから、北本がそっちに連れて行きますよ」


「そうか。なら、あとは任せようか」


 天道の後ろにいた北本が、西からラクシュの手綱を受け取った。西がラクシュの鼻面を撫でると、ラクシュは尻尾を揺らし、気持ちよさそうな声を発した。


 ひとしきり撫でられてから、ラクシュは北本に連れていかれた。あいも、自分が乗った馬を厩舎へ連れて行き、手入れをしてから馬房に帰した。


「藤刀は、そのまま休憩に入ってくれ。戻ってきたら、沼倉と、入厩したての馬のランジングだ」

 別の馬房で飼い付けの最中だった久瀬が言ってきた。


「わかりました」


 時間はまだ早かったが、昼食を済ませておくことにした。


 食堂へ行く途中で、西と出くわした。上着だけを、風通しのよさそうな薄地のシャツに着替えていた。


「これから昼食?」


「はい、西さんもですか?」


「ここのカレーが好きでね。来るといつも食べて帰るんだ」


「他と違うんですか?」


「昆布とカタクチイワシの干物を入れて煮だしたスープを使ってるんだ。カレーなんだけど、出汁の旨味もしっかり感じるんだ」


 楽しげな西の表情を見ていたら、あいもそのカレーが食べたくなってきた。


 西と食堂に入り、カレーを注文した。西と同席して昼食を食べる流れになった。


「どう?」

 あいがカレーを一口食べると、西が訊いてきた。


「おいしいです」


 西は満足そうに頷き、自分でもスプーンを口に運んだ。


「久瀬さんから、これまで世話してきた馬の話を聞いているんだって?」

 カレーを半分ほど食べたところで、西が話を振ってきた。


「はい」


「終業後に残って話を聞くんだろ。疲れてるだろうに偉いね」


「そんな。いろんな馬について知れて、楽しいです。勉強にもなりますし」


「いいな、ほんとうに楽しそうだ。俺も参加させてもらおうかな」


「えっ、西さんがですか」


「冗談だよ。参加してみたいのは、本心だけどね」


 からかわれても、嫌な気はしなかった。さっぱりとした性格が天道と似ている、とあいは思った。


「あの、質問してもいいですか?」


「なにかな」


「騎手として、馬に還せるものって、どんなものがあると思いますか」


「馬にかえせるもの?」


「馬にしてあげられること、というか」


「なるほど、そういう意味か」


「久瀬さんの話を聞けば聞くほど、競馬って、馬の存在で、なりたってるんだって思えて」


 馬の命で。頭に浮かんだ言葉を、あいは、咄嗟に言い換えた。


 声に出して言うことで、想いとは裏腹に、かえって軽く聞こえることがある。


「わかってたはずなんですけど、あらためてそうだなって思って」


「それで、人が馬にできることはなにか、考えたくなった、か。いや、質問は人としてではなくて、騎手としてか」


「西さんは、こういうこと、考えますか?」


「考えるよ、たまにだけどね。自分なりに、こう、という答えのようなものもある」


「その、答えっていうのは」


 死の間際の、ファーストステップの息遣いが、耳の奥でした気がした。胸が締めつけられる感じがして、目を伏せそうになったが、なんとか堪えた。


 西が、じっとあいの目を見つめてきた。心を覗かれている、とは感じなかった。西に、茫洋としたものを感じただけだ。


「教えない。天道に訊いても、そう答えるな。あいつも、馬に還すなにかについては、俺以上に考えているはずだが」


「そうですか」


「意地悪く感じる?」


 あいは、首を横に振った。


「自分で考えるべき、ですよね。質問したこと自体、甘えだったと思います」


「馬に乗って駈ける楽しさや、競うことの面白さは、わかりやすい。けれど、競馬はそれだけじゃない。苦しみの中にある悦び、と言うと、違うかな。難しいな」


 ファーストステップの、いや、馬の死を目の当たりにして、悲しみにうちひしがれた。


 馬を死なせるのだ。その現実を前にしてもなお、騎手になりたい、という思いは捨てられなかった。


 苦しみの、もっと言えば、生きることの中にある悦び。幸福を求める心とも違う。違うということがわかるだけで、説明はできない。


 生ききって、死ぬ。それが悦びに繋がるのかどうかも、わからない。もがき苦しみながら生き、そして死ぬまで、ほんとうにはわかり得ないことだ。


 競走馬は、なにを想うのか。

 すべてが、想像でしかない。


 食事に戻った。


 西と、残りのカレーを平らげた。


「ごちそうさまでした、カレー、おいしかったです」


「よかった。うまいものを食べる時間は間違いなく幸福だ」


「確かにそうですね」

 西の笑顔につられて、あい頬も緩んだ。


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