躍進と惑い ④
各馬、一斉にゲートから飛び出した。
横一線が崩れる。
かけ引きは、モニター越しではあまりよくわからなかった。ポジションが決まる時は、常に一瞬で、そこで行われるかけ引きは、騎手と馬の呼吸にかなり左右される。
ラクシュが仕掛けた。
皐月賞一着だった有力馬を躱し、先頭に躍り出る。西の、無駄のない騎乗で、ここまでラクシュは体力をかなり温存できている、と思えた。
ラクシュの最大の武器である推進力を活かして、絶妙な軌道で、向こう正面に突入した。
ラクシュの後方から、皐月賞馬が追走している。
内ラチを舐めるように、外国人騎手が騎乗する馬もあがってきていた。
この馬も、申し分ない血統で、昨年のホープフルステークスでは過酷な迫合いを制している。
ぎりぎりの勝負になるのは、わかっていた。そこを勝ち切る粘り強さは、ラクシュにもある。
馬をターフに送り出したあとの調教師にできることは、信じることだけだ。
天道は、浅く息を吐いた。
「行ける、行けるぞ」
隣で、熱を帯びた北本の声がした。
ラクシュは、先頭を譲らず、猛進する。後方で気迫を見せる皐月賞馬、内を巧みに伸びてきた外人騎手の馬。
ラクシュの脚は落ちなかった。
ゴール板の前を抜けた。北本が吼えた。馬上ではしばしば熱くなるが、地上では冷静に周囲を見る。その男が、周囲を気にせずに、吼えた。
「沼倉、聞いたか」
「え、なにをです」
「北本が吼えたぞ」
沼倉の眉が、少し困ったような動きをした。
「ちょっと、天道さん、人に茶々入れている場合ですか。日本ダービーを獲ったんですよ、ラクシュが」
沼倉の反対側から、北本が肩を揺すってきた。
「見てたよ。でも、目をつぶっていても、北本の声でわかったかもしれないな」
「そんなでかい声でしたか、俺」
北本が気まずそうに頬を掻いた。
平静を装いつつ、天道の喉元にも、熱いものが込み上げていた。
北本が先に派手な声を上げ、喜び損ねた。その腹いせに、ちょっと茶々を入れてやりたくなったのだ。
「一つ、目標は果たしましたね」
沼倉が言ってきた。
「ああ、世代最強の称号は得た」
「次は、ジャパンカップですか」
天道は頷いた。
「粒ぞろいではあったけど、まぁ三歳馬の中でラクシュが頭一つ抜けている確信はあった」
「プロポロスと、ファステラウン」
沼倉が、天道の頭の中にある二頭の馬の名を上げた。
「下地さんのことだ、準備に余念はないだろうな。日野宮も、僕より歳は下だが、調教の歴は長いし、経験も積んでいる。ファステラウンを完璧に仕上げてくるはずだ」
下地厩舎のプロポロスと、日野宮厩舎のファステラウン。日本ダービーを獲ったことで、ラクシュも、この二頭に並んで注目される馬となるはずだ。
三頭が揃うとしたら、ジャパンカップか。
プロポロスとファステラウンは、先に宝塚記念でぶつかりそうな雲行きもある。
「先のことは帰ってからでいいでしょう。まずは口取り式に出ないと」
北本に背中を押され、外ラチ近くのウィナーズサークルに出ていった。
ここ数日晴天が続き、馬場は堅過ぎず柔らかすぎず、最良の状態と言ってよかった。ラクシュが思うさま脚を遣えた要因として、それも大きかった。
口取り式を終えて、ラクシュを検査所へ送り出した。あとを、北本と沼倉に任せた。
インタビューを終えた西が、天道のもとにやってきた。
「いい馬だ。今回、正直、俺はほとんどなにもしていないよ」
中盤、前にいた皐月賞馬を躱して先頭に出た。あれは西の指示だったはずだ。他はラクシュの走りに委ねたので、ほぼ、ということなのだろう。
「祝勝会はどこにします?」
「任せるよ。ああ、でも、いまはカレーが食いたい気分だな」
「カレー? 御園の食堂のやつですか?」
西が、御園トレセンに来た時、決まって食堂でカレーを食べて帰るのは知っている。
「この前、あいに奢ってくれたらしいですね」
「こちらこそ、若さをもらった気分になれた」
「あいがなにか?」
「馬に還せるものはなにか、と訊かれたよ」
ファーストステップのことが、まだ心から消えないのだ、と天道は思った。
あいの、騎手になるという決意は、揺るぎないように見える。暗くなったりもしていない。ただ、少し大人びた表情をするようになった。
出会った時、あいは中学二年生だった。普通に進学していれば、高校三年生である。大人びるのは、当然といえば当然だと思っていた。
「馬に還すか。考えていることはともかく、口に出すのは、若さかな。暢さん、それ、答えたんですか」
「いや。お前なら、答えたか?」
「惑いの中にいる時期も、それはそれで大事ですよ」
目が病になり、騎手を続けられなくなった直後の自分は、まさに惑いの中にいた。
遠野の好意で調教助手に引き立ててもらってからも、しばらく惑いから抜け出せていなかったという気はする。
「あい自身に考えさせたいってのは、もちろんありますが、正解のある問いでもないですしね」
「そうだな」
馬の気持ち、馬の幸せなど、ほんとうの部分はわからないのだ。だから、一人ひとりが、考え、行動するべきなのだ。
検査を終えたラクシュを、馬運車でトレセンに送り、居酒屋でささやかな祝勝会をあげた。
西は、ビールを二杯飲んだだけで、馬主や北本と馬の話をしていた。
翌日、天道は一人で車を走らせ、関西に帰った。
昼過ぎに出勤すると、新幹線を使った北本はすでに仕事をはじめていた。沼倉には休みを与えている。
天道が馬房で馬の様子を確かめていると、久瀬が厩舎に入って来た。
「終わった」
天道は、久瀬に眼を向けた。
「ファーストステップのことまで、すべて、藤刀に話し終えたよ」
「三ヶ月くらいですか。思いのほかかかりましたね」
「半分忘れかけていたような馬でも、話しているうちに、思い出してくるものなのだな」
久瀬は、記録の類はなにも持たず、記憶にあることだけをあいに語り聞かせていた。あいもメモは取らず、自分の血肉にするような聞き方をしていた。
「これで、思い残すことなく死ねますね」
天道が言うと、久瀬はにやりと笑った。
「まだまだ死なんぞ、俺は。調教助手の役は降りても、いち厩務員として、しっかり若い奴らの尻を叩いてやらねばならん」
「沼倉達も気が休まらないな」
「あんたもだぞ、天道さん」
天道は肩を竦める仕草をした。
「沼倉には、後任の件、もう話をしたのか」
「いえ。沼倉の性格的に、ぎりぎりまで黙っていた方がいいかと思っているんですが」
「甘やかすな。あいつはもっと苦しんだ方がいい。藤刀を見ていて、あいつも薄々気づいているはずだ。しかし、人はなかなか自分で自分を苦しい立場には追いやれん」
あいは、それができる。零や西など、数人の騎手の顔も思い浮かぶ。
自分のことは、よく見えない。
手緩い仕事はしてこなかったつもりだが、それを苦しいと感じたことはない。単に、鈍感なだけかもしれない。
「わかりました。沼倉には今夜、伝えます」
「うむ」
久瀬は天道と話しに来ただけだったのか、入口近くの馬房にいる馬と軽く触れ合ったでけで、厩舎を出て行った。
天道が沼倉のことを考えて気を抜いていると、馬房の柵から顔を出してきた馬に、肩口を齧られそうになった。
「この悪戯好きめ」
天道が言うと、馬はぷいと顔を反らし、素知らぬ態度をとった。




