天道駿
今月、新たに入厩してきた馬の、ゲート発走の試験日だった。
沼倉は、ダートに設置されたゲートに、馬を進めた。
馬が落ち着きなく身体を揺すった。右肩がゲートの仕切りに触れ、その音で馬はさらに取り乱した。
ゲート発走の訓練は育成牧場でもしてきたはずだが、環境が変わって、できていたことができなくなる、という馬はいる。気分によってむらがある馬もいる。
この馬は、前者だった。
沼倉は馬の右耳の付け根あたりを、指先で揉むように擦った。馬の緊張が解け、身体を揺するのを止めた。
あいなら、こんなときは言葉をかけるのだろう、と思った。
沼倉は、馬に語りかけるということは、ほとんどしない。
ずっと一緒にいられるわけではなく、親しくなりすぎると、別れが辛くなる。子どもじみた理由だった。
合図があり、ゲートが開いた。瞬時に手綱を開き、膝で馬の背を押した。馬は砂を蹴り、まっすぐ駈け出した。
手前のハロン棒で折り返し、発馬機の裏に戻った。
鞍を降り、馬と目を合わせた。穏やかな目をしている。今日すべきことは果たしたとわかっているのか。
試験に立ち会っていた競馬協会の職員から、その場で合格を伝えられた。
翌日は雨だった。
先週から梅雨に入っていて、昨日はたまたま天気に恵まれた。
雨は、降ったりやんだりを繰り返した。
馬場不良が続き、天候の影響を受けづらいポリトラックで、軽めの調教をする日が続いた。
「調子はどうだ?」
馬房で干し草と青草を混ぜたものを担当の馬に与えていると、北本が近寄ってきた。
新馬のことを尋ねられたと思った。北本は、四月に入厩した新馬を担当している。
「悪くはないです。雨のせいで思い通りの調教はできていませんが、元からタイムは出せていましたし、このまま新馬戦を迎えても、それなりのレースはできるかと」
五月にも一頭入厩していて、天道厩舎には今年、三頭の新馬がいる。それで天道厩舎の馬房は再び全稼働している。
「お前のことを訊いたつもりだったんだが」
「僕の?」
「天道さんから、久瀬さんの後任の件、聞いたんだろ」
「そのことですか」
おやつ代わりの草を、馬が完食していた。沼倉は馬房に腕を入れ、馬の前から容器を下げた。
「僕に務まるとは思えません。もっと経験の豊富な人が他にもいるし、外から適した人を呼び入れてもいい」
現に、北本は天道厩舎の前身である遠野厩舎の生え抜きのスタッフではなかった。
純粋に能力を見て人を登用するのが、天道のやり方なはずだ。
「そう言いつつ、断らなかったそうじゃないか」
「断らせてもらえなかった、が正しいです。まだ、なんとか断れないか、考えてます。でも、あの人の強引さ、北本さんも知っているでしょう」
「まあな。あの人の下で働くようになって、まだ二年しか経っていないが、ずいぶん振り回されたという気がする。けど、なんだろうな、最近はそれを楽しむ自分もいる」
「僕は、少し苦手です、あの人」
北本が笑い声をあげた。可笑しなことを言ったつもりはなく、沼倉は眉をひそめた。
「なんです」
「前なら、そんな率直な物言いはしなかった。人に弱音を吐くこともなかった」
人を相手にすると、一歩引いてしまうきらいはあった。
人だけでなく、馬にもか。馬の乗り方には人柄が出るとは、ちらほら耳にする。
「気をつけます」
「いや、お前はもっと愚痴を言っていい、と俺は思うよ」
「そうすると、けっこう面倒くさい男になると思います。自分で言うのもなんですが」
「なったらいい。面倒くさいときは、面倒くさいぞ、と言うさ」
「そんな」
「俺は見てみたいな。面倒くさい沼倉が、どんな馬を仕上げるか。天道さんも、案外それを期待しているのかもしれんぞ」
北本がまた笑った。
北本について、第一印象は生真面目そうだと思った。つい最近までその通りだったが、ラクシュが日本ダービーを獲ったときは、別人のように熱くなっていた。
北本はそこで、人としても調教助手としても、殻を破った、という感じがある。
「北本さん、いまおいくつなんですか?」
「なんだ、藪から棒に。三十三だよ」
自分と五つしか違わない。沼倉は、内心で少し意外に思った。
「もっと上かと思っていました」
「老けて見えるか?」
沼倉は首を振った。
「接待とか営業とか、馬の育成以外でも天道さんに頼りにされているので」
「一般の企業で営業をやっていた時期があるだけだよ。その経験は、確かに活きてはいるかもな」
「そうだったんですか」
「騎手になろうとして、挫折してな。すっぱり身を引こうとしたが、できなかったな」
そこから競馬学校の厩務員課程に入学し、卒業して、地方競馬の厩務員として就職したのだろう。
地方競馬の厩舎で働いていたところを、山南にスカウトされたのは、沼倉も同じだった。
「ま、俺の話はいいさ。とにかく、望む望まないに関わらず、ある立場に立たざるを得なくなる瞬間ってのが、人にはあるんだろう」
ふと、あいの顔が思い浮かんだ。
ひたむきに努力するあいを見ていて、騎手になるべくして生まれたのだ、と何度か考えた。
ファーストステップの最後を看取った直後は、ひどく傷つき、辛そうにしていた。天道には放っておけと言われたが、無視して声を掛けに行った。だが、かける言葉を見つけられなかった。
あいは一人で立ち直り、以前にも増して自身を鍛えることにうち込むようになった。
「やるだけやりますよ」
そんな言葉が自分の口から出たことに、沼倉は新鮮な驚きを覚えた。
自分は、あいとは違う。天道や北本とも。久瀬の代わりを務められるとも思えない。
やれることを、やるしかないのだ。それで駄目なら、自分はそこまでの人間だったということだ。
「たまになら愚痴に付き合うぞ」
北本はすれ違いざまに沼倉の肩を軽く叩き、厩舎の出入り口に向かって歩いていった。沼倉も容器を廊下の棚に戻し、あとに続いた。
「お、晴れたな」
外に出ると、雨が上がり、陽が射していた。
山の向こうに、虹がかかっているのが見えた。




