天道駿 ②
函館に出張する沼倉たちに同行していた北本が、帰ってきた。
「ラクシュの様子はどうだった?」
沼倉たちは函館に残り、一人で戻った北本に、天道は尋ねた。
「日高の放牧場でのびのびやってましたよ。しっかり運動もしていて、力もそれほど落としていなさそうでした」
放牧中の運動を厭う馬もいる。馬のそうした気分に任せてしまうと、トレセンに戻した時に、あまり駈けなくなってしまうのだ。
一度駈けなくなった馬を、再度調教し直すのは、まっさらな馬を調教するより骨が折れる。
北本の話を聞く限り、ラクシュにその心配はいらなそうだ。
日本ダービー後、三ヶ月の放牧予定で、ちょうど半分を消化したところだ。
久瀬とあいが厩舎の馬具庫から出てきて、事務所にやってきた。二名の調教厩務員もその後すぐに出勤してきて、朝のミーティングをはじめた。
夏季期間に切り替わっている。
薄明の中を、あいが調教へ出て行った。
天道は、久瀬とともに調教コースを見張らせる丘に登った。
「沼倉はやる気になったか」
久瀬が東屋の下のベンチに腰かけて言った。
「そのようですね」
「函館のあとは、小倉、新潟と、立て続けに出張が入っていたが、あれは?」
「本人の希望です。夏の間、できるだけ様々な競馬場に出向いて、レースを直に見たいと」
「自分の中で、見極めたいものでもあるのか」
「いくら頭で考えて調教を施しても、結局レースに出してみなければわからない。やってみなければ見えてこない部分は、確かにありますからね」
沼倉は、とにかく動くことで、久瀬の後任というプレッシャーを撥ね退けようとしているのかもしれない。
「まず、函館一日目の新馬戦だな、沼倉は。個人的には、次の日の宝塚の方が気になるが」
「プロポロスとファステラウンか」
「ああ」
「第七レースのことも忘れないでくださいね」
「わかっとるよ」
宝塚記念と同日に行われる一勝クラスのダート千八百に、自厩舎の馬を出走させることが、昨日の出馬投票で決まっていた。
天道は双眼鏡を使い、調教コースに目を向けた。
あいと天道厩舎の調教厩務員が、乗馬してコースに出てきた。
調教厩務員が乗っているのが、週末のダートレースに出走する馬である。
連日の雨の影響を受けているダートは避け、ポリトラックでの併馬だった。
ゆったりと馬が駈ける。調教というより、調整の意味合いが強い。
「当日は加奈恵を連れて行っていいですか? シフトはどうなっていたかな」
「新人一人抜けても問題ない。ついでに、宝塚も見せてやれ」
「そうします」
しばらくコースを駈ける馬に目をやっていた。
あいが、馬を乗り換えて単走に出てきた。
気づくと、久瀬はいなくなっていた。
その日の業務を終え、車で帰宅すると、天道はトレーニングウェアに着替えて外に出た。
起伏のあるルートを選んで、二時間ほどしっかりと走り込んだ。
家に戻り、汗を拭いもせず地下室へ降りた。
地下室は、トレーニングルームになっていて、全身を満遍なく鍛えられるように、各種のマシンを取り揃えている。
筋力だけでなく、反射神経や体幹のことも考え、有用だと思える器具を揃えた。
木馬も、いくらか古いが、置いてあった。
三十過ぎに建てた家で、地下の設備は数年がかりで充実させた。
目を患うまではほぼ毎日、レース終わりであっても、この地下室でトレーニングをしていた。
家族は、老齢の両親以外いない。親密になった女は何人かいたが、妻帯を考えたことは一度もなかった。
しばらく付き合って、天道にその気がないとわかると、女は自然と離れていく。そして、気づくと別の女が隣にいたりした。
調教師に就いてから、再びこの地下室を使うようになっていた。
トレーニングを終えて、ダイニングに水を飲んでいると、携帯端末にメッセージが入ってきた。
山南からだった。
翌日、獣医の事前検診に立ち合い、馬の状態だけ確認し、あとを久瀬に任せてトレセンを出た。
馬運車など、明日のレースに出走するために必要なものは、すべて手配済みである。
山南は、車を競馬関係者が使う厚生会館の駐車場に停めて待っていた。
「あいに会って行かなくていいのかい?」
「まだ仕事中だろう。お前を送り帰して、時間がありそうだったら会うよ」
山南の運転で、琵琶湖南端に架かった近江大橋を渡った。
そこからさらに一時間ほどかけて、車を敦賀まで走らせた。
入り江と山に囲まれた地形だった。
東の山の麓にある墓地の、駐車場に車を停めた。狭い駐車場だが、車は他に一台しかない。
「天道」
遠野の墓の前まで行くと、山南が線香を分けてくれた。火をつけ、香炉に置いた。
山南は花も用意してきていた。天道は、そういったことにはまるで頭が回らなかった。
「しまった、茎を詰めるのにはさみを持ってくればよかった」
「手で折れるでしょ」
「しかたないか」
山南が茎を手折る横で、天道は井戸で汲んだ水を墓石に浴びせ、花受けの水を新しくした。
遠野の家族が来て間もないのか、墓石はたいして汚れておらず、枯れきっていない花も残っていた。
山南はその花の隙間に、持参した花を加えた。
膝を折り、しばし掌を合わせて瞑目した。
天道が腰を上げると、その気配で山南も目を開いた。
「厩舎の運営はどうだ。この前、日本ダービーを獲ったのは知っているが」
トレセンへ戻る車中で、山南が訊いてきた。
「軌道には乗ってきたかな。勝率は、全体では、まあぼちぼちだ」
「北本君や沼倉君たちは?」
「北本はよくやってくれている。沼倉や、他の若手も育ってきているよ。このまえ競馬学校を卒業したばかりの、二十歳の女の子も、四月に雇った」
「ほう。あいさんとも面識のある子か?」
「ああ。一年の時は寮の部屋割りの都合で同室だったらしい」
「珍しいな。縁があった、ということか」
あいとの縁もだが、厩務員としてのノウハウも、基礎以上のものが身に付いていた。
実家が酪農家で、牛の他に馬も二頭、飼育していたのだという。
実家が廃業するまでは、家の手伝いをし、その傍らで馬の世話もやっていたらしい。
馬が家族同然にいる環境で育っている。あいと同じだった。
「そういえば、山南に頼みたいことがあったんだ」
「なんだ?」
「競走馬の研究会を開きたい」
「血統の分析なんかをするなら、その手の集まりがあるだろう。そういうところと繋がりをもつのではだめなのか?」
「できれば、自分の手足のように使える研究会がほしいんだよ。血統や気質に関することだけでなく、最新技術を駆使した調教理論の検討なんかも、そこでやりたいと思ってる」
「となると、海外も視野に入れる必要がある」
「ああ。もちろん、必要な費用は僕の懐から出す」
「費用云々はともかく、海外には、私もそれほど顔は広くない。広く人を探すとなると、時間はかかるな。二年か三年、それ以上になるかもしれん」
「それでいい。頼まれてくれるか?」
「頭の片隅には置いておく、ということにしておこう。私も色々と仕事を抱えている」
「ああ、そうしてくれ」
あいがどれだけいい騎手に育とうと、競馬は、馬の質で決まる部分が大きい。
質のいい馬と、適した調教、腕のいい騎手。他にもさまざまな要素が複雑に絡み合ってくる。
天道は、あまり競馬を複雑なものと考えたくはなかった。
最後に勝敗を左右するのは、運だ。ただ、その運を手繰り寄せるためには、努力を惜しむつもりはない。
トレセンに戻った。
事務所に残っていた加奈恵にあいの居場所を尋ねた。
「あいなら、同期の連中と勉強会ついでに夕飯を食べてくるって、終業後に外出しましたよ」
「だってさ」
後ろの山南に振り返った。
「そうか、しかたないな、うん」
言葉とは裏腹に、山南は未練っぽくため息を吐き、しおしおと肩を落とした。




