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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十一話

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天道駿 ②

 函館に出張する沼倉たちに同行していた北本が、帰ってきた。


「ラクシュの様子はどうだった?」

 沼倉たちは函館に残り、一人で戻った北本に、天道は尋ねた。


「日高の放牧場でのびのびやってましたよ。しっかり運動もしていて、力もそれほど落としていなさそうでした」


 放牧中の運動を厭《いと》う馬もいる。馬のそうした気分に任せてしまうと、トレセンに戻した時に、あまり駈けなくなってしまうのだ。


 一度駈けなくなった馬を、再度調教し直すのは、まっさらな馬を調教するより骨が折れる。


 北本の話を聞く限り、ラクシュにその心配はいらなそうだ。


 日本ダービー後、三ヶ月の放牧予定で、ちょうど半分を消化したところだ。


 久瀬とあいが厩舎の馬具庫から出てきて、事務所にやってきた。二名の調教厩務員もその後すぐに出勤してきて、朝のミーティングをはじめた。


 夏季期間に切り替わっている。

 薄明の中を、あいが調教へ出て行った。


 天道は、久瀬とともに調教コースを見張らせる丘に登った。


「沼倉はやる気になったか」

 久瀬が東屋の下のベンチに腰かけて言った。


「そのようですね」


「函館のあとは、小倉、新潟と、立て続けに出張が入っていたが、あれは?」


「本人の希望です。夏の間、できるだけ様々な競馬場に出向いて、レースを直に見たいと」


「自分の中で、見極めたいものでもあるのか」


「いくら頭で考えて調教を施しても、結局レースに出してみなければわからない。やってみなければ見えてこない部分は、確かにありますからね」


 沼倉は、とにかく動くことで、久瀬の後任というプレッシャーを撥ね退けようとしているのかもしれない。


「まず、函館一日目の新馬戦だな、沼倉は。個人的には、次の日の宝塚の方が気になるが」


「プロポロスとファステラウンか」


「ああ」


「第七レースのことも忘れないでくださいね」


「わかっとるよ」


 宝塚記念と同日に行われる一勝クラスのダート千八百に、自厩舎の馬を出走させることが、昨日の出馬投票で決まっていた。


 天道は双眼鏡を使い、調教コースに目を向けた。

 あいと天道厩舎の調教厩務員が、乗馬してコースに出てきた。


 調教厩務員が乗っているのが、週末のダートレースに出走する馬である。


 連日の雨の影響を受けているダートは避け、ポリトラックでの併馬だった。

 ゆったりと馬が駈ける。調教というより、調整の意味合いが強い。


「当日は加奈恵を連れて行っていいですか? シフトはどうなっていたかな」


「新人一人抜けても問題ない。ついでに、宝塚も見せてやれ」


「そうします」


 しばらくコースを駈ける馬に目をやっていた。

 あいが、馬を乗り換えて単走に出てきた。

 気づくと、久瀬はいなくなっていた。


 その日の業務を終え、車で帰宅すると、天道はトレーニングウェアに着替えて外に出た。

 起伏のあるルートを選んで、二時間ほどしっかりと走り込んだ。


 家に戻り、汗を拭いもせず地下室へ降りた。

 地下室は、トレーニングルームになっていて、全身を満遍なく鍛えられるように、各種のマシンを取り揃えている。


 筋力だけでなく、反射神経や体幹のことも考え、有用だと思える器具を揃えた。

 木馬も、いくらか古いが、置いてあった。


 三十過ぎに建てた家で、地下の設備は数年がかりで充実させた。

 目を患うまではほぼ毎日、レース終わりであっても、この地下室でトレーニングをしていた。


 家族は、老齢の両親以外いない。親密になった女は何人かいたが、妻帯を考えたことは一度もなかった。


 しばらく付き合って、天道にその気がないとわかると、女は自然と離れていく。そして、気づくと別の女が隣にいたりした。


 調教師に就いてから、再びこの地下室を使うようになっていた。


 トレーニングを終えて、ダイニングに水を飲んでいると、携帯端末にメッセージが入ってきた。

 山南からだった。



 翌日、獣医の事前検診に立ち合い、馬の状態だけ確認し、あとを久瀬に任せてトレセンを出た。


 馬運車など、明日のレースに出走するために必要なものは、すべて手配済みである。


 山南は、車を競馬関係者が使う厚生会館の駐車場に停めて待っていた。


「あいに会って行かなくていいのかい?」


「まだ仕事中だろう。お前を送り帰して、時間がありそうだったら会うよ」


 山南の運転で、琵琶湖南端に架かった近江大橋を渡った。

 そこからさらに一時間ほどかけて、車を敦賀まで走らせた。

 入り江と山に囲まれた地形だった。

 東の山の麓にある墓地の、駐車場に車を停めた。狭い駐車場だが、車は他に一台しかない。


「天道」

 遠野の墓の前まで行くと、山南が線香を分けてくれた。火をつけ、香炉に置いた。


 山南は花も用意してきていた。天道は、そういったことにはまるで頭が回らなかった。


「しまった、茎を詰めるのにはさみを持ってくればよかった」


「手で折れるでしょ」


「しかたないか」


 山南が茎を手折る横で、天道は井戸で汲んだ水を墓石に浴びせ、花受けの水を新しくした。


 遠野の家族が来て間もないのか、墓石はたいして汚れておらず、枯れきっていない花も残っていた。


 山南はその花の隙間に、持参した花を加えた。


 膝を折り、しばし掌を合わせて瞑目した。


 天道が腰を上げると、その気配で山南も目を開いた。


「厩舎の運営はどうだ。この前、日本ダービーを獲ったのは知っているが」

 トレセンへ戻る車中で、山南が訊いてきた。


「軌道には乗ってきたかな。勝率は、全体では、まあぼちぼちだ」


「北本君や沼倉君たちは?」


「北本はよくやってくれている。沼倉や、他の若手も育ってきているよ。このまえ競馬学校を卒業したばかりの、二十歳《はたち》の女の子も、四月に雇った」


「ほう。あいさんとも面識のある子か?」


「ああ。一年の時は寮の部屋割りの都合で同室だったらしい」


「珍しいな。縁があった、ということか」


 あいとの縁もだが、厩務員としてのノウハウも、基礎以上のものが身に付いていた。


 実家が酪農家で、牛の他に馬も二頭、飼育していたのだという。

 実家が廃業するまでは、家の手伝いをし、その傍らで馬の世話もやっていたらしい。

 馬が家族同然にいる環境で育っている。あいと同じだった。


「そういえば、山南に頼みたいことがあったんだ」


「なんだ?」


「競走馬の研究会を開きたい」


「血統の分析なんかをするなら、その手の集まりがあるだろう。そういうところと繋がりをもつのではだめなのか?」


「できれば、自分の手足のように使える研究会がほしいんだよ。血統や気質に関することだけでなく、最新技術を駆使した調教理論の検討なんかも、そこでやりたいと思ってる」


「となると、海外も視野に入れる必要がある」


「ああ。もちろん、必要な費用は僕の懐から出す」


「費用云々はともかく、海外には、私もそれほど顔は広くない。広く人を探すとなると、時間はかかるな。二年か三年、それ以上になるかもしれん」


「それでいい。頼まれてくれるか?」


「頭の片隅には置いておく、ということにしておこう。私も色々と仕事を抱えている」


「ああ、そうしてくれ」


 あいがどれだけいい騎手に育とうと、競馬は、馬の質で決まる部分が大きい。

 質のいい馬と、適した調教、腕のいい騎手。他にもさまざまな要素が複雑に絡み合ってくる。


 天道は、あまり競馬を複雑なものと考えたくはなかった。


 最後に勝敗を左右するのは、運だ。ただ、その運を手繰り寄せるためには、努力を惜しむつもりはない。


 トレセンに戻った。

 事務所に残っていた加奈恵にあいの居場所を尋ねた。


「あいなら、同期の連中と勉強会ついでに夕飯を食べてくるって、終業後に外出しましたよ」


「だってさ」


 後ろの山南に振り返った。


「そうか、しかたないな、うん」

 言葉とは裏腹に、山南は未練っぽくため息を吐き、しおしおと肩を落とした。


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