天道駿 ③
加奈恵と、第七レースに出走させる馬の担当厩務員を連れ、阪神競馬場へ向かう道中だった。
天道は、通話を切り、携帯端末の電源も切った。
「どうかしたんですか?」
人の機微に敏い加奈恵が、様子を窺うように訊いてきた。
表情には出ていなかったはずだ。僅かでも、息遣いが乱れただろうか。天道は少し考えた。
「親父が家で倒れて、そのまま病院に搬送されたらしくてね」
知らせてきたのは母だった。取り乱してはおらず、来る時がきた、と覚悟を決めた響きが声にはあった。
父はすでに一度、脳卒中をやっていて、半身に軽い後遺症を抱えていたのだ。
「よし、競馬場に着いた。馬運車もじき到着するだろうから、厩舎区画で受け入れ準備だ」
「ちょ、ええんですか、病院に行かんと」
天道が車から降りようとすると、加奈恵が慌てて言ってきた。トレセンからここまで運転してきた厩務員も、天道を慮る視線を、バックミラー越しに向けてきていた。
「いいんだよ」
父は意識が戻ってすぐ、駿は呼ぶなと、母に言っていた。
母は、知らせるだけ知らせておこう、と考えて連絡してきた。
「父も、馬に生涯を捧げたホースマンだった。レースをほっぽりだして行ったら、多分ぶん殴られるな」
親子らしい思い出は、ほとんどなかった。幼い記憶にあるのは、馬に心血を注ぐ父の後ろ姿ばかりだ。
そんな父が、しかし天道は嫌いではなかった。
「家族やのに」
「人は一人だよ。家族があっても、かけがえのない友がいても」
「そんなの、悲しくないですか」
だとしたら、人は生まれながらに悲しみを背負っていて、悲しみとともに生きるのが、人という生き物ということになる。
思っただけで、口には出さなかった。
第七レースの結果は、二着だった。
日頃の調教を見ていて、かかりが遅い馬なのはわかっていたので、対策はした。
さらに騎乗した騎手が、いい仕事をしてくれた。その結果の二着だ。
どんな馬でも、勝つつもりでレースには臨む。それは当然のことだ。
レースを終えた馬を厩舎区画に帰した。
水をやり、わずかだが糖蜜のかかった麦を与える。脚に保冷剤を当てて冷まし、その間、丁寧にブラッシングをする。
そういったことを、加奈恵にも仕事を振りつつ、厩務員がやった。
「こいつの傍には俺がついてるので、天道さんは戻っていいですよ。木村、お前ももういいぞ」
厩務員が言った。
天道は頷き、加奈恵を連れて観覧席へ向かった。
「天道にいさん」
パドックの近くの通路で呼び止められた。
「日野宮、こんなところにいていいのかい?」
ポロシャツにチノパンという出で立ちの日野宮は、一見すると一般の観客と見間違えそうだった。
後ろに、見覚えのある青年を連れていた。
「俺サンのところで預かってる学生だ」
天道の視線に気づき、日野宮が言った。
「知っているよ。一度競馬学校で会ってる。正士郎、久しぶり」
「お久しぶりです」
正士郎は、丁寧に頭を下げてから、加奈恵に目をくれた。
「まさか、こんな場所で顔を見るとは思っていなかった」
「ウチかて、いまは中央の厩務員や。競馬場で出くわしたって、なんも不思議やあらへん」
「ふ、一端なことを言う。空回って、迷惑をかけているんじゃないのか?」
「憎まれ口しか利けんのかい」
加奈恵が正士郎の腹をどついた。まあまあ痛そうな拳だったが、正士郎はどことなく嬉しそうにそれを受けていた。
おや、と天道は思った。日野宮が、にやりと笑った。
「せっかくだ、一緒に行こうぜ。そっちのガール、名前はなんていうんだい?」
「木村加奈恵です」
「加奈恵チャンね」
四人で関係者のみ出入りできる観覧ブースに入った。
宝塚記念に出走する馬のオーナーだろう、固唾を呑んでレース開始を待っている人の姿が、ちらほらとある。
各出走馬が、次々にターフへ現れる。
今春零を背に乗せたファステラウンが出てきた。返し馬をする。逸る様子もなく、落ち着いている。
「零の表情は、ここからでは見えないな」
「騎手の勝負になる。そう考えてるな、天道にいさん?」
「有力な馬が揃ってる。GⅠだから当たり前だが、中でも、ファステラウンとプロポロスの実力は拮抗している」
「だな。さすがに下地のオヤジ殿、パドックで見た限り、抜かりなく仕上げてきてたぜ」
日野宮と話している間に、ゲートに馬が並び終えた。自然と、会話は途切れた。
「やられたぜ」
次に日野宮が口を開いたのは、全頭がゴールを果たしてからだった。
ほぼ想像した通りのレース展開だった。
天道はそう感じたというだけで、白熱した勝負だったと捉えている観客の方が多いかもしれない。
「騎手の地力の差が出たか」
天道は思ったことを口にした。
「零チャンは、悪くなかったぜ。俺サンが見る限り、非の打ちどころはなかった」
天道もそこは同意見だった。ただ、賞賛できる部分もなかった。
「愚直な迫り合いで、勝ち切れなかった。零は負けを噛みしめているな」
「下地のオヤジは、弟子を叩けて満足してるだろうな。オーストラリアに放り出したことといい、あの人は厳しいやり方で彼女を鍛えるつもりらしい」
日野宮の言う通りだろう。それが間違っているとも、天道には思えなかった。
レースに負けても、騎手は死ぬわけではない。勝つ意思を失う。それが、騎手の死だ。
「さてと、俺サンは下に降りるかな」
日野宮が腰に手をあて仰け反るように背を伸ばしてから、踵を返した。正士郎もあとに続こうとする。
「おっと、正士郎チャンは、まだ用事が済んじゃいねえぜ」
「用事、ですか」
「前にも言ったろう。昨日に悔いを残すような生き方をしていちゃあ、一人前の騎手にはなれんぜ」
日野宮が部屋を出て行った。残された正士郎は、しばらく立ち尽くしていたが、やがて天道の方に振り返った。
「天道さん、少し、加奈恵と話す時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ん、構わないよ。どうせなら、他に人もいなくなったし、ここで話していくといい。僕も席を外そう」
「いえ、すぐ済みますので」
正士郎は言うなり、モニター前のソファに座っている加奈恵の前に立った。
「君が好きだ」
加奈恵が、ぽかんとした表情になった。それから、眼を見開き、首筋から耳の先まで真っ赤になった。
「いまは、それしか言えないが、いずれ時間をつくって、どこかに二人で出かけたい、と思っている」
「ちょお待ち、いろいろ、いきなりすぎるっ」
「すまない。しかしこれが、俺が実習で学んだことなんだ」
「なにを学んでんねん。真面目にせえ」
「真面目だ。真面目に、君に抱いた自分の感情と向き合った。そして、日野宮調教師に、我儘になる、ということを教わった。騎手になるにも、必要なことなのかもしれないと、最近思うようになった」
「それはそれ、これはこれやろ」
正士郎が、小さく笑った。
「それもそうだな」
天道は途中からよそを向いていた。それでも、二人の話は耳から入ってきた。
正士郎は、加奈恵に返事を求めず、天道に詫びて、去っていった。
「清々しいな。初々しくもある」
「なに言うとるんですか。ウチは、死ぬほど恥ずかしいですよ、いま」
「けれど、いやな気はしていない。だろ?」
「楽しそうですね」
「他人の恋路だからね」
加奈恵が恨めしげな視線を向けてくる。
「人は一人やって、言うとったやないですか」
「ああ。だから、他人を愛せる」
もし心を他者と完全に共有できるテクノロジーが生まれたら、人は一人ではなくなる。個が全、という世界だ。
その世界には、おそらく人の情と呼べるものは存在しない。
正士郎は、真面目に考えた、と言っていた。その言葉に嘘がないことは、加奈恵もわかっているはずだ。
トレセンに帰る車で、加奈恵はほとんど喋らなかった。
これから真剣に、正士郎の好意への向き合い方を考えるのだろう、と天道は思った。




