天道駿 ④
函館から戻って来た沼倉は、数日ばかりトレセンで働き、翌週には小倉へ出張に行った。
加奈恵に呼び出されたのは、その三日後だった。
月末で、飼料の在庫管理や経理関係を処理している最中だった。
どこか人のいない場所がいい、と言われ、車を出した。トレセン内だと、どこにしろ人の耳目はある。
「お父さんの容体はどうなんですか?」
「もう退院して、庭で盆栽をいじったりしているそうだよ」
「よかったですね」
助手席に座った加奈恵は、なにか逡巡している様子だった。
車内を微妙な緊張感が満たしている。先日の正士郎の告白の一件ではなさそうだ、と天道は思った。
「この前、あいの部屋に遊びに行ったんです」
加奈恵が切り出した。
「トイレを借りて、気づいて」
「気づいた?」
「埃を被っとったんです、生理用品が」
加奈恵が言っていることが、すぐには呑み込めなかった。
「あいに訊いたら、もう四カ月、来とらんらしくて」
天道は、あいの身に起こっていることを理解した。
大津市南部から、渓谷に通じる道に入っていた。眼下に渓流が見えた。
窓の外から、滝の音が聞こえた。昨夜、豪雨があり、川は濁った色をしている。
「女性の競技者がしばしば月経異常になる、とは聞いたことがある。現役の女性騎手から、そういう話を聞いたことはないが」
しかし、考えてみれば、男と同じ乗鞍数を年間にこなそうと思えば、無理が生じるに違いなかった。
「競馬は毎週末、ほぼ年中無休で開かれる」
「そうですね」
天道はこれ以上なにをどう言えばいいか、わからなかった。
「あいは、なにか言っていた?」
「困ってない、って。おかげで、毎日馬に乗れている、とも言っていました」
あいが言いそうなことだった。
「でも、身体にはよくない、のかな。すまない、よく知らなくて」
「仕方ないですよ。女のウチかて、よく知りませんでした。だから、調べました。女性競技者の場合、原因は、栄養不全とか、激しいトレーニングとかが主みたいです。あいは、食事には気を配ってます。それこそ、学校で教わった栄養学を参考にして、多すぎず、少なすぎず、偏らんように考えて」
あいは、自分で献立ノートを作っていた。それを、天道も一度見せてもらったことがある。
原因は、日々のトレーニング量のせいだと思えた。
コース調教に出始めてから、並みの騎手と同等か、それ以上の乗鞍数をこなしている。それとは別に、フィジカルトレーニングもやっているのだ。
オーバーワークにならないよう、気を付けているつもりではあった。
ただ、月のものについては、頭から抜け落ちていた。というより、考えすらしなかった。
「命がどうこうってことはありません。でも長期間に及んだ場合、最悪、子どもが産めんようになるかもしれん、とありました」
「そうか。話してくれてありがとう。見落としていたのは、僕の落ち度だ」
加奈恵が首を振った気配がした。
そこから十分ほど走ると、渓谷を抜けた。
甲賀の町に出た。適当な道を左折し、栗東市に車を向けた。
その夜、天道は自宅の地下室でトレーニングをしながら、あいとどう話すべきか考えた。
最終的に、あいが決めることではある。だが、それは将来のリスクを正しく理解させたうえで、だ。
男の自分が、それをやるのか。受診させ、医師の口から説明を聞かせた方がいいのではないか。
しかし、あいは今のままでいい、と考えているらしく、医者へ行けと言って素直に聞くとは思えなかった。
「渋るようなら、強引に連れていくしかない、か」
木馬を降りた。
水を被ったように、全身が汗で濡れている。地下だが、空調設備はしっかりしていて、空気が籠ることはない。
翌早朝、出勤し、まず調教を開始した。夏のいま、調教できる時間は限られている。あいの件は、一度頭から追い払った。
「なにか賑やかだな」
一通りの調教が済み、調教スタンドから降りた天道のもとに、北本がやってきた。
「トレセンの一般公開日ですから」
北本に言われ、思い出した。
広報担当の職員が、四十名ほどの男女を連れて施設を案内していた。ちょうど、調教スタンドで馬の調教風景を見学し終わり、外に出てきたところらしい。
そこへ、あいが調教コースから馬を曳いて戻って来た。
「あいちゃん」
ツアー参加者の中から、一人の女が出てきて、あいに手を振った。あいが喜色を浮かべ、馬を連れたまま女に駆け寄った。
あいはしばし親しげに言葉を交わしてから、女と別れ、天道たちがいる方へ歩いてきた。
「さっきの人は?」
「あ、美冬さんっていって、一年生の校外学習のときに知り合った人で。そのあとも甥っ子を連れて、白囲市郷土祭にも来てくれたりして」
競馬学校が郷土祭に参加し、乗馬体験や蹄鉄の製作実演などをやって地元の人と交流した、と話題になっていた。
「今日は仕事でこっちの方に来る用事があったみたいで、見学ツアーの日程が重なっていたから、応募してきてくれたみたいです」
「へえ、なにをされている人なの?」
「お医者さんです」
「それは」
渡りに船だ、と天道は思った。
「北本、ツアーのスケジュールはどうなっていたかな」
「確か、この後は厩舎区画を見学して、食堂で昼食だったかと」
天道は、頃合いを見計らって食堂に行った。
美冬はすぐに見つかった。ツアー参加者はまとまって窓際のテーブルで昼食をとっていた。
そこへ近づいていき、美冬に声をかけた。
「突然すみません。天道です」
名乗ると、美冬が反射的に立ち上がった。周りからも、ざわざわと声があがる。
「ツアーの後、少しお時間いいですか? 僕の厩舎で預かっている騎手課程の学生のことで、少しあなたに相談がありまして」
名前を出さなくとも、あいのことだと、美冬は察したようだった。
「わかりました」
天道は食堂を出ると、事務局に連絡を入れ、応接室を押さえた。
二時間ほどして、第二通用門から厩舎区画を出て、トレセン事務局へ向かった。
事務局の建物の前に、ツアーを終えた美冬が待っていた。中へ案内し、二階の応接室へ入った。
「僕のことはご存知ですか?」
「元天才騎手で、現役調教師。それだけでなく、あいちゃんの先生なんですよね」
「先生、という言われ方は馴染まないな。まあ、僕とあいの間柄は、説明不要みたいですね」
あいから、競馬学校に入学するまでの経緯は、ある程度聞いているようだ。
美冬は頷き、相談を聞く姿勢をとった。
医者の顔つきだ、と理由もなく天道は感じた。
事情を説明した。
「わかりました。確かに、男の人がそういった話を、まだ十代のあいちゃんにするのは難しいですね。私から、話をしましょう」
「頼めますか」
「私は脳外科医なので、専門外にはなりますが。医学に心得のある友人としてなら、あいちゃんに然るべき助言はできると思います」
「よろしくお願いします」
「そうかしこまらないでください。こう言っては不謹慎かもしれませんが、嬉しいんです。まさか私に、あいちゃんのためにできることがあるとは思っていなかったので」
美冬が遠慮がちに笑った。
医者の仕事は、傷病の患者がいなければ成り立たない。
研鑽を積んだ医術の腕を振るうことで充実感を得られても、手放しには喜べない。
天道は、美冬の人となりを知れた気がした。




