天道駿 ⑤
天道から声をかけられた時、美冬はトレセンの食堂で名物のカレーを食べていた。
調教師である天道の顔は知っていたが、すぐに本人だとわからなかった。
トレセン見学ツアーに参加している最中だったが、まさか、天道に話しかけられるとは思ていなかった。
トレセンの事務局の一室で、天道から事情を聞いた。
騎手を目指すあいのために、自分がなにかしらの役回りを得られるとは、想像したこともなかった。
美冬は、月経異常や不妊についての知識を浚ってから、日を改めてあいと会った。
場所はトレセンのすぐ近くにある厚生会館の一室である。
三日間に及ぶ学会の疲労は、それほどなかった。
今回の学会は、医療の発展というより、学界での面子を保つという意味合いの方が強かった。
出世を考えれば気を抜けない場だったが、美冬は関心がない。
出席したのは、教授である外科部長に頼まれ、断れなかったというだけだ。
「たとえ将来、子どもを産めなくなったとしても、私は、私が理想とする騎手になりたいです」
あいが言った。テーブルを挟んで、向かい合う恰好だった。
「今は、そう思っていても、三年後、五年後には、考えが変わっているかもしれない。そして、後悔しても手遅れになってるかもしれない」
「美冬さん、心配してくれてありがとう。加奈恵と、天道さんにも、私からちゃんと伝えます」
あいの意思は固い。目の光が、出会った頃とはまるで別人のように思えた。郷土祭で再会したときとも、違っていた。
なにが、あいをここまで変えたのか。あいはすでに一人の競技者の顔つきをしている。
「あいちゃんの理想って?」
「勝つことです。勝つことで、期待してもらえます。勝ち続ければ、馬に乗り続けられます」
まるで、それだけが自分の生きる道だという言い方だった。実際、そう思い定めているのだ。
そこは、出会った時から変わっていないと思えた。
「具体的に言えば、零ちゃんです。零ちゃんは、たくさんの人に期待してもらっている。一度や二度、負けたとしても、どこかで勝つと、人に思わせる迫力がある」
零は、さきの宝塚記念で一着を逃した。
一着だった馬、プロポロスと、零が騎乗したファステラウンは、ほぼ同格だという見方が強く、結果は騎手の実力の差だという声が多かった。
だが、ファステラウンを預かる日野宮調教師は、零の続投をすでに表明している。その決断に対し、世間ではほとんど批判はあがっていない。負けたとはいえ、僅差だった。
「男の人とも対等に戦っていくんだって、零ちゃんを見ていて実感しました。立ち止まってる暇はないし、少しでも躊躇したら、目指すものに手が届かない。私は、子どもが産めなくなることより、その方が怖い」
あいの眼光が、美冬を、強く射抜いてきた。
思わず、目を反らした。様々な患者と向き合ってきたが、気圧されることなど、これまで一度もなかった。
「わかった」
そう言うしかなかった。
美冬は厚生会館を出て、あいを説得できるとしたら、天道しかいない、と思った。あいの意識はどうあれ、天道なら乗鞍数を制限することもできる。
トレセンに駈け戻っていくあいの後ろ姿を見送った。
「どうでしたか」
天道が、厚生会館の建物の陰から現れた。
美冬は、大して驚きもせず、振り返った。
「リスクについては理解してもらえました」
山の向こうに、積乱雲が見えた。こちらに流れてきているのか、風が冷気を含んでいる。
「負担を減らすよう説得もしようとしたのですが、いまのやり方を変えるつもりはないと、きっぱり言われてしまいました」
「そうですか」
あっさりした天道の物言いに、美冬はかすかな苛立ちを覚えた。
「まさか、放っておくつもりですか?」
「あいの決めることですから」
「子どもの意思を尊重するのが、必ずしも本人のためになるとは思いません。子どもを守る責任が指導者には、いえ、大人にはあるのでは?」
「そうかもしれません。けれど、僕は指導者である前に調教師だ。そしてあいは騎手になろうとしている。いや、技術と意思のうえでは、すでに騎手だといっていい」
「対等だと?」
「騎乗依頼を出す側と、受ける側。そういう立場を抜きにすれば、両人は対等であっていい、というのは僕の考え方です」
そういう話をしているのではなかった。
天道を否定したい衝動に駆られたが、うまく頭の中で言葉がまとまらなかった。
衝動に任せて理屈を捲し立てることだけは、かろうじて避けた。
あいの意思も、天道の姿勢も、理屈ではなかった。心のありようとでもいうのか。正しいか正しくないかに関わらず、そうせずにはいられないのだ。
美冬は、息を吐き、心の乱れを鎮めた。
「あいちゃんにしてあげられることができたと、暢気に喜んでいた昨日の自分は、こうなるとひどく滑稽ね」
「心配してくれる人がいる。それはあいにも伝わりましたよ」
「あいちゃんの家族にも相談するべきだと思います。電話などではなく、できれば直接会って」
「わかってます。来週、福島のレースがあるので、帰りは陸路を使って、あいの家に寄ろうと思います」
「そういうことは、ちゃんとなさるんですね」
「指導者のつもりはないと言いましたが、この世界に足を踏み入れるのを躊躇っていたあいの背中を押したのは僕ですから」
不誠実な男ではないのだ。
ただ、常人では推し計れない割り切り方をする。
かつて天才と言わしめたほどの騎手だった。すべての騎手が、天道のようだとは思えなかった。
天道と別れ、タクシーを拾って大阪へ向かった。
関西は夕方から豪雨の予報が出ていた。
降り出す前に、美冬は新幹線に乗り、関西をあとにした。
新幹線のシートに身を埋め、瞼を閉じると、ひどく疲れた気分に襲われた。




