天道駿 ⑥
あいの実家を訪ねるのは、これで二度目だった。
豪邸といっていいだろう。
あいの父は入り婿で、藤刀は母親の姓と聞いた。士官とはいえ自衛隊の給料で建った家とも思えず、母親筋の藤刀家が相当の資産家なのかもしれない。
どうでもいいことだ。
天道は、あいの母親から出された紅茶を啜り、頭を切り替えた。
二十畳ほどの広さの客間だ。
調度類はどれも華美ではなく、むしろ質素な趣だが、よく見ると精緻な意匠が施されていたりする。一点ものだとしても、違和感はなく調和している。
さりげない品格が、どうしても天道には馴染めなかった。
さっさと本題に入ることにした。
「月のものが」
あいの母は天道の話を聞き、呟くと、しばらく口を閉ざしていた。表情からは、なにも読みとれない。
「子どもは、親の手を離れると、知らない間に大きくなってしまうものなのでしょうね」
少し唐突な感じがして、天道は返答に困った。
この母親とは、話す度に、こうして噛み合わない感じがする。
話が噛み合わないというより、過ごしてきた環境が違いすぎるのだろうと、天道は思った。
「あいを産んだことで、私の人生は豊かなものになりました。苦労も、それはたくさんありましたが。でも振り返れば、幸せだったと言えますわ」
「はぁ」
「だからといって、子を産み育てることが、女の幸せ、ということにはなりませんわね」
「そうですね、特に今の時代、結婚しない人も増えていますし」
「あら、時代のことは、言っておりませんわ」
「すみません」
「いえ。ただ、あの子はもう、私が知っているあの子ではないのだな、としみじみ思っただけです」
「あいの誕生日は、七月二十日でしたよね。じき十八になる。成人の年齢になることと、大人になることとは、イコールではないでしょうが」
この先の生き方を、自分で決める歳にはなっている。そう言ったら、この母にまたやんわりと否定されるのか。
天道は、なぜだかわからないうちに、ひどく慎重に言葉を選んでいた。たぶんあいの母親が漂わせている空気が苦手なのだ。
「僕の裁量で、あいの乗鞍数を減らすことはできますが」
「無駄でしょう。減った負担の分、あの子は隠れてトレーニング量を増やしますわ。そちらの方が危ういと思うのは、素人考えかしら」
「そうですね。あ、同意見、という意味で」
あいの母親が微笑した。
「母親の私の過保護がすぎたせいで、あの子には辛い思いをさせてしまいました。夫にも何度も窘められていたのに、私は、あの子が騎手になりたいと言い出したあの日まで、あの子の苦悩に気づいてやることができませんでした」
あいの母親は手元のティカップに視線を落とした。
カップからはかすかに湯気が立ち昇っている。外は真夏日だが、冷房の利いた客間は涼しいくらいだ。
「乗馬は、あいが自ら掴んだ武器なのでしょうね。その武器で、闘って生きていくことを選んだ。そしてまた一つ、あの子は選ぼうとしている。いえ、もう選んでいる」
「生きることは、選択の連続ですからね」
一つの可能性を選ぶことは、別の可能性を捨てることでもある。
使い古された言い回しになったが、あいの母親は小さく頷いた。それだけで、天道は内心ほっとした。
「お話は、わかりましたわ。わざわざ足を運んでくださって、ありがとうございます」
あいの母親との対面は、それで終わった。
藤刀家を辞すと、どっと疲れが押し寄せてきた。普段、どれだけ馬に乗っていても、こういう疲れ方はしない。
馬郷に寄り、山南と会った。
山南に誘われ、放牧場を歩いていくと、少し離れた丘の上に、葦毛の馬が見えた。そのすぐ傍らには、別の馬の影もある。
「あれは綾か」
「ああ」
「ということは、隣にいるのは、綾の産んだ仔馬か」
「そうだ」
綾が草を食んでいる。仔馬がそれを倣る。仔馬と言っても、もう一歳半で、体格は成馬とほとんど変わらなかった。
「ところで、今日はなにしに来たんだ?」
山南が尋ねてきた。
あいの身体に起こっている異変を話せば、山南は、ともかく休息をとらせろと言うに違いなかった。
本人の意思だと説得などしようものなら、耳を貸すどころか、逆に説教されかねなかった。
怒る山南は、容易に想像できた。
日頃は温厚な男だが、怒らせると同期の誰よりも手強い。弁が立つので、言い負かせないのだ。
「近くを通りがかったから、散歩がてら顔を出しただけさ」
「暇なやつだ」
「誰かさんに優秀なスタッフを揃えてもらったおかげでね」
山南は天道のお世辞には取り合わず、丘の上の母子に再び眼をやった。
山南に山の麓の町まで送ってもらった。
「ここで降ろしてくれ」
「駅まで送るぞ?」
「少し歩きたいのさ」
福岡競馬場まで、行きは大阪から飛行機を使った。
あいの家は木曽の近くで、名古屋で新幹線から旅客列車しなのに乗り継いで来た。
帰りも、名古屋で新幹線に乗る予定だった。新幹線の時間には、名古屋までの移動時間を含めても、まだだいぶ余裕がある。
山南の車を降り、駅まで歩いた。すぐ汗が噴き出したが、それが今は気持ちよく思えた。
気疲れが、汗と共に流れ出している。
駅前で、本屋から出てきた女子高生と、目が合った。
「天道さんだ」
「君は」
咄嗟に名前が出てこなかった。あいの幼馴染。それは憶えていた。
あいが競馬学校に入ると決意し、入学試験までトレーニングをしていた頃、一度だけ二人で話したこともあった。
「朔ちゃん」
あいがそう呼んでいたのを思い出した。
「名前、思い出してもらってありがとうございます」
「ごめんごめん。ブレザー、よく似合っているね」
「ありがとうございます。あと半年ちょっとで着納めですけど」
「卒業だものね。もしかして、その抱えてるのは、参考書かい?」
「はい。浜松の方にある大学の、教育学部を狙っているんです」
「じゃあ、将来は先生か」
朔は、まずは受験に合格しなきゃ、と言って、書店の紙袋を抱えたまま照れ臭そうに笑った。
「高校生はこれから夏休みか。高三の夏休みといえば、受験勉強の本番なんだろうね」
「天道さんは、大学受験したことないですもんね」
「友達にはいたはずだけど、どうしてたかな」
「あの、あいは、元気ですか?」
「いま、僕の厩舎で実習をやっているよ。それがあとひと月くらいで終わって、何度か模擬レースをやったら、デビューだ」
「あい、騎手になるんですね」
偉大なことを成し遂げるとでもいうような声の響きだった。
騎手になってからがほんとうの勝負だと、朔に言ったところで、意味はなかった。
あいも前に向かって進んでいる。それを励みに、朔はこれから受験勉強に臨むのだろう。
朔がどうして教師を志しているのか、天道は関心を抱かなかった。
「あいになにか伝言はあるかい?」
「いえ。伝えたい言葉は、いつか大人になって会えたら、直接伝えます」
「そう。じゃ、受験頑張ってね」
人とは違う才能を持っていた幼馴染に嫉妬し、枠に押し込めようとした。そう天道に懺悔した朔も、いまは自分の道を見据えている。
トレセンに帰り着くと、あいと加奈恵が、二人で厩舎にいた。
あいがスケッチブックに馬の絵を描いていた。加奈恵は、あいが引く線を熱心に目で追っている。
厩舎を覗いただけで、声はかけず、事務所に入った。
日誌を開き、留守にしていた間の報告に目を通していった。




