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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十一話

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天道駿 ⑥

 あいの実家を訪ねるのは、これで二度目だった。


 豪邸といっていいだろう。

 あいの父は入り婿で、藤刀は母親の姓と聞いた。士官とはいえ自衛隊の給料で建った家とも思えず、母親筋の藤刀家が相当の資産家なのかもしれない。


 どうでもいいことだ。

 天道は、あいの母親から出された紅茶を啜り、頭を切り替えた。


 二十畳ほどの広さの客間だ。

 調度類はどれも華美ではなく、むしろ質素な趣だが、よく見ると精緻な意匠が施されていたりする。一点ものだとしても、違和感はなく調和している。

 さりげない品格が、どうしても天道には馴染めなかった。


 さっさと本題に入ることにした。


「月のものが」


 あいの母は天道の話を聞き、呟くと、しばらく口を閉ざしていた。表情からは、なにも読みとれない。


「子どもは、親の手を離れると、知らない間に大きくなってしまうものなのでしょうね」


 少し唐突な感じがして、天道は返答に困った。

 この母親とは、話す度に、こうして噛み合わない感じがする。


 話が噛み合わないというより、過ごしてきた環境が違いすぎるのだろうと、天道は思った。


「あいを産んだことで、私の人生は豊かなものになりました。苦労も、それはたくさんありましたが。でも振り返れば、幸せだったと言えますわ」


「はぁ」


「だからといって、子を産み育てることが、女の幸せ、ということにはなりませんわね」


「そうですね、特に今の時代、結婚しない人も増えていますし」


「あら、時代のことは、言っておりませんわ」


「すみません」


「いえ。ただ、あの子はもう、私が知っているあの子ではないのだな、としみじみ思っただけです」


「あいの誕生日は、七月二十日でしたよね。じき十八になる。成人の年齢になることと、大人になることとは、イコールではないでしょうが」


 この先の生き方を、自分で決める歳にはなっている。そう言ったら、この母にまたやんわりと否定されるのか。


 天道は、なぜだかわからないうちに、ひどく慎重に言葉を選んでいた。たぶんあいの母親が漂わせている空気が苦手なのだ。


「僕の裁量で、あいの乗鞍数を減らすことはできますが」


「無駄でしょう。減った負担の分、あの子は隠れてトレーニング量を増やしますわ。そちらの方が危ういと思うのは、素人考えかしら」


「そうですね。あ、同意見、という意味で」


 あいの母親が微笑した。


「母親の私の過保護がすぎたせいで、あの子には辛い思いをさせてしまいました。夫にも何度も窘められていたのに、私は、あの子が騎手になりたいと言い出したあの日まで、あの子の苦悩に気づいてやることができませんでした」


 あいの母親は手元のティカップに視線を落とした。

 カップからはかすかに湯気が立ち昇っている。外は真夏日だが、冷房の利いた客間は涼しいくらいだ。


「乗馬は、あいが自ら掴んだ武器なのでしょうね。その武器で、闘って生きていくことを選んだ。そしてまた一つ、あの子は選ぼうとしている。いえ、もう選んでいる」


「生きることは、選択の連続ですからね」


 一つの可能性を選ぶことは、別の可能性を捨てることでもある。


 使い古された言い回しになったが、あいの母親は小さく頷いた。それだけで、天道は内心ほっとした。


「お話は、わかりましたわ。わざわざ足を運んでくださって、ありがとうございます」


 あいの母親との対面は、それで終わった。


 藤刀家を辞すと、どっと疲れが押し寄せてきた。普段、どれだけ馬に乗っていても、こういう疲れ方はしない。


 馬郷《うまごう》に寄り、山南と会った。


 山南に誘われ、放牧場を歩いていくと、少し離れた丘の上に、葦毛の馬が見えた。そのすぐ傍らには、別の馬の影もある。


「あれは綾か」


「ああ」


「ということは、隣にいるのは、綾の産んだ仔馬か」


「そうだ」


 綾が草を食んでいる。仔馬がそれを倣《まね》る。仔馬と言っても、もう一歳半で、体格は成馬とほとんど変わらなかった。


「ところで、今日はなにしに来たんだ?」


 山南が尋ねてきた。

 あいの身体に起こっている異変を話せば、山南は、ともかく休息をとらせろと言うに違いなかった。


 本人の意思だと説得などしようものなら、耳を貸すどころか、逆に説教されかねなかった。


 怒る山南は、容易に想像できた。

 日頃は温厚な男だが、怒らせると同期の誰よりも手強い。弁が立つので、言い負かせないのだ。


「近くを通りがかったから、散歩がてら顔を出しただけさ」


「暇なやつだ」


「誰かさんに優秀なスタッフを揃えてもらったおかげでね」


 山南は天道のお世辞には取り合わず、丘の上の母子に再び眼をやった。


 山南に山の麓の町まで送ってもらった。


「ここで降ろしてくれ」


「駅まで送るぞ?」


「少し歩きたいのさ」


 福岡競馬場まで、行きは大阪から飛行機を使った。

 あいの家は木曽の近くで、名古屋で新幹線から旅客列車しなのに乗り継いで来た。


 帰りも、名古屋で新幹線に乗る予定だった。新幹線の時間には、名古屋までの移動時間を含めても、まだだいぶ余裕がある。


 山南の車を降り、駅まで歩いた。すぐ汗が噴き出したが、それが今は気持ちよく思えた。


 気疲れが、汗と共に流れ出している。


 駅前で、本屋から出てきた女子高生と、目が合った。


「天道さんだ」


「君は」


 咄嗟に名前が出てこなかった。あいの幼馴染。それは憶えていた。


 あいが競馬学校に入ると決意し、入学試験までトレーニングをしていた頃、一度だけ二人で話したこともあった。


「朔ちゃん」

 あいがそう呼んでいたのを思い出した。


「名前、思い出してもらってありがとうございます」


「ごめんごめん。ブレザー、よく似合っているね」


「ありがとうございます。あと半年ちょっとで着納めですけど」


「卒業だものね。もしかして、その抱えてるのは、参考書かい?」


「はい。浜松の方にある大学の、教育学部を狙っているんです」


「じゃあ、将来は先生か」


 朔は、まずは受験に合格しなきゃ、と言って、書店の紙袋を抱えたまま照れ臭そうに笑った。


「高校生はこれから夏休みか。高三の夏休みといえば、受験勉強の本番なんだろうね」


「天道さんは、大学受験したことないですもんね」


「友達にはいたはずだけど、どうしてたかな」


「あの、あいは、元気ですか?」


「いま、僕の厩舎で実習をやっているよ。それがあとひと月くらいで終わって、何度か模擬レースをやったら、デビューだ」


「あい、騎手になるんですね」


 偉大なことを成し遂げるとでもいうような声の響きだった。

 騎手になってからがほんとうの勝負だと、朔に言ったところで、意味はなかった。


 あいも前に向かって進んでいる。それを励みに、朔はこれから受験勉強に臨むのだろう。


 朔がどうして教師を志しているのか、天道は関心を抱かなかった。


「あいになにか伝言はあるかい?」


「いえ。伝えたい言葉は、いつか大人になって会えたら、直接伝えます」


「そう。じゃ、受験頑張ってね」


 人とは違う才能を持っていた幼馴染に嫉妬し、枠に押し込めようとした。そう天道に懺悔した朔も、いまは自分の道を見据えている。


 トレセンに帰り着くと、あいと加奈恵が、二人で厩舎にいた。


 あいがスケッチブックに馬の絵を描いていた。加奈恵は、あいが引く線を熱心に目で追っている。


 厩舎を覗いただけで、声はかけず、事務所に入った。

 日誌を開き、留守にしていた間の報告に目を通していった。


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