天道駿 ⑦
乗鞍数もフィジカルトレーニングも減らさない。
条件として、天道が提示したのが、乳酸値の測定を受けることだった。
あいに、拒む理由はなかった。
乳酸値を日常的にモニタリングしている、プロのアスリートは少なくない。
さらにトレセンの多くの厩舎で、調教前と後で競走馬の乳酸値を測定するやり方が、取り入れられていた。
天道厩舎では、乳酸値の測定とともに、調教の強度、という言葉が使われる。
調教強度の設定は、馬ごとになされ、その際に乳酸値のデータが重用されている。
同じ調教を施しても、効果は馬によって微妙に異なり、その差が脈拍や乳酸値といったものに出てくるのだ。
天道が、携帯型の乳酸値測定器を用意してくれた。
数日前に、医者の美冬から、月のものが来ない状態を放置するリスクについて、説明を受けた。
美冬の話は、親切で、わかりやすかった。
理解してなお、立ち止まる気にはなれず、美冬や天道、おそらく最初に自分の異変に気づいたであろう加奈恵に、意思を伝えた。
天道は、その二日後に、福島競馬場へ出張に行き、帰ってくると、君のご家族と会ってきた、とだけ言った。
海上自衛隊の士官である父は、任地に就いていて家にはいなかったはずで、話したとすれば、母だった。
心配性の母がなにか言ってくるかもしれない、と数日身構えたが、結局なんの音沙汰もなかった。その間に、天道から携帯型乳酸測定器を渡されたのだった。
休養日がきた。
休む日は、素直に休む。身体を休めるのもトレーニングの一環だった。
あいは、一人で調教コース近くの木陰に座り、調教中の馬のスケッチをしていた。
コースでは七、八頭の馬の姿があった。
先ほどまで、天道厩舎の馬も駈けていた。馬のゼッケンで、どこの厩舎の馬かは、簡単に見分けがついた。
「上手いものだね」
後ろから声をかけられた。
天道と北本の二人が立っていた。声をかけてきたのは天道の方で、膝に手を置き、あいのスケッチブックを覗きこんできた。
見知らぬ人にされたら不快なことも、相手が天道ならなにも感じない。
「他の絵も見ていい?」
「どうぞ」
スケッチブックを手渡した。天道がページをめくる。
「よく見ている」
小さな声で、唸るように言った。
天道の反応に興味をそそられたのか、北本が眉を動かした。
「なんです?」
「北本にも見せていい、あい?」
「そんな大した絵じゃ」
「いや、これはなかなかだよ」
天道は言って、スケッチブックを北本に渡した。
北本は、何枚かの絵を見ても、天道の感心する理由が汲み取れず、困った顔をした。
「この絵がなにか? 上手いは上手いですが」
「駈けている馬の瞬間、瞬間を切り取って、一枚の用紙に書いているから、絵を通して、実際にこの馬が脚をどう使って駈けていたのか、映像で浮かぶ。するとどうだい?」
「ははぁ、なるほど。これは面白いですね」
北本が得心がいったように声を上げた。
ページごとに描いてある馬は別で、それを見比べるように、あらためてページを行ったり来たりさせている。
「なにが面白いんですか、北本さん?」
「ほら、例えばこの馬は、前肢を搔きこむように駈けているのが、絵でわかる。次のページの、この馬だと、搔きこみ方が弱い」
「言われてみると、そんなふうに見えますね」
ただの趣味で、そんなに細かく意識して描いてはいなかった。
「坂路調教が有効だとされる理由は、いくつかある。その内の一つに、馬に、前肢を搔きこむ駈け方を覚させる目的がある」
天道が言った。
「掻きこむ脚の軌道を線で結ぶと、円のようになる。これが、陸上の短距離選手なんかも、同じらしい。逆に、長い距離を走るのが得意なマラソンランナーの足の軌道は、楕円に近い」
両者の走り方で、推進力が違うのは、あいでも理解できた。
「てっきり、坂路調教は馬の心肺を鍛えるためにやっているんだと思ってました」
「それもあるさ。平地より坂路で調教させた方が、馬が怪我をしにくい、と言う人もいる。どんな目的に主眼を置いているかは、調教師の性格かな。馬の気質によっても変わるし」
「坂路が調教に取り入れられるようになって、日本の競走馬のレベルは各段に上がったのは確かですよね」
北本が天道の話を受けて言った。
「天道さん、そろそろ」
「うん、行こう。あい、明日の併馬、よろしく頼むね」
「はい。おつかれさまです」
天道と北本がいなくなったあとも、あいは馬の絵を描くことに没頭した。
太陽が中天に差し掛かるより先に、どこの厩舎も馬の調教を切りあげた。
夜になっても茹だるような暑さだった。
翌早朝、調教騎乗のため、零が御園トレーニングセンターにやってきた。
あいは零を待つ間に、指先を穿刺し、針に付着した微量の血液で乳酸値の測定を済ませた。
零が、厩舎に挨拶に来た。
迎えに出ると、騎乗の支度を整えたあいの格好を見て、零は目を輝かせた。
「もしかして、今日の併馬の追走」
「うん、私が乗る」
零と馬を並べて駈けられる。喜びを抑え切れず、あいはぶるりと身体を震わせ、答えた。
「あのね、零ちゃん」
「待って。言葉なんかより、駈けよう。きっとそっちの方が、私たちはずっと多くを伝え合えると思う」
あいは頷いた。
厩舎から馬を曳き、広場に出ると乗馬した。馬場で軽く馬に筋肉を解させ、零とダートコースに出た。
零が乗っている馬は、二勝利クラスのダートに出走する馬だった。あいの馬は、牝馬限定の一勝クラスのダートに出走する。
追い切り明け、レース二日前である。天道からは、馬に軽く汗を流させる程度でいい、と言われている。
零と視線を交わした。駈けはじめた。あいが内側で、零が右側に並ぶ。
宝塚記念、負けてしまったわ。
零が、語りかけてきた気がした。
お互い、眼は前を見据えている。だから隣り合っている姿さえ確かめず、声も聞こえはしない。
悔しかった。ファステラウンには、勝つ力は十分にあったのよ。
声ではない声が、伝わってくる。
馬と心を通わせるのと同じことだ。馬は話さないが、雄弁になにかをこちらに伝えてくる時がある。逆に、こちらから語りかけることもできる。
でも、零ちゃんは、これっぽっちも諦めていないよね。
ええ、次は勝つ。次は、ジャパンカップよ。
ジャパンカップ。天道さんの厩舎から、ラクシュが出る。ラクシュも、すごくいい馬なの。強い競走馬って意味でね。
あいは?
私?
トレセン実習で、色々あったみたい。そんな顔つきをしていたわ。
あったな。ほんとうに、色々あった。でも、よくわからないの。なんだか、一瞬だった気もしてるんだ。
そんなものよ。私も気づいたらデビューしていた。次に気づいたときには、きっとおばあちゃんだわ。
それ、なんだかいいね。零ちゃん、私ね、馬の上で歳をとりたい。そのためなら、なにを捨ててもいい、と思えるの。
やっぱりおんなじね。不思議。あいとは生まれも育ちも違うのに、馬上の姿をひと目見た瞬間、出逢えたという確信があったのよ。
めぐりあわせかな。
そうね。そういうことも、あるのかもしれない。
向かい正面に差しかかり、零が少し外へ膨らんだ。自分のために余地を空けてくれたのだとわかった。手綱をほんの少し使った。
直線を駈ける。もう語り合うこともせず、馬と、風と、一体になる。
零の風。夏の蒸し暑さとも違う、熱気を孕んでいる。風と風が絡み合う。
心地よかった。
このままずっと駈けていたい、とあいは思った。




