天道駿 ⑧
六月に函館へ向かい、その後小倉、新潟、札幌と出張を続けていた沼倉が、トレセンに帰ってきた。
「これ、土産です。こっちに戻って来てから、八百屋で買ったものなので、北海道のものでもないですが」
事務所に入って来た沼倉は、片手にぶら下げたスイカを抱え上げた。
「いいな。切り分けて、冷やしておこう」
沼倉から受け取ったスイカは、ずっしりとした重さがあった。
沼倉は無意識のうちに事務所のホワイトボードを確認していた。
いまは、北本がラクシュの調教中だった。併馬で、あいが随伴する馬に騎乗している。
「この二カ月で、なにか見出せたかい?」
「外に出ていた分、色々なものを見られたと思ってます」
「印象に残っているのは?」
「人です」
考える表情をしてから、沼倉は答えた。
「厩舎や競馬場だけじゃなく、なんでもない商店街を歩いたり、近場の低山に登ったりして。どこに行っても、人がいました。見ず知らずなのに、親切にしてもらったことも、一度や二度ではなくありました」
顔を顰めたくなる人間もなかにはいたはずだが、沼倉はそれを口にしなかった。
少し前の沼倉なら、馬だけを見ようとしただろう。自分には関わりのないと思える事柄には目を向けないという、狭量な部分が沼倉にはあった。
「人を見たか」
天道は声をあげて笑った。
だからなにかが変わる、ということはないだろう。広い視野を持とうと、出張を買って出た時点で、沼倉は自分の殻を破ったといえる。
沼倉の無表情は変わらない。しかしその奥に、間違いなく豊かなものが芽吹いている。まだ、芽吹いただけだ。
どんな花を咲かせるか、あるいは枯らすか、沼倉次第である。
「楽しみだな」
「え?」
「スイカさ。うまそうな重さだ」
「喜んでもらえてよかったです」
スイカなら、馬も食う。皮まで全部食うので、後始末の手間もない。
そこまで沼倉が考えたかは、わからない。
午後のミーティングで、一日の報告を受け、明日以降の予定を確認した。
まだ陽は高かった。
数人ががかりで厩舎の前にタープテントを張り、日陰をつくった。
北本が、どこかから折り畳み式で持ち運びのできるテーブルを借りてきた。
天道と沼倉の二人で、切り分けて冷やしておいたスイカをテーブルに運んだ。
「馬には、俺がやってこよう」
「あ、ウチも行きます」
馬用に取り分けておいたスイカを、久瀬が持って厩舎に入っていく。加奈恵がついて行った。
てっきりあいも加奈恵の後に続くかと思ったが、その素振りは見せなかった。
あいは、スイカをふた切れ貰って、天道の隣にやってきた。
「これ、天道さんの分です。楽しみにしてたって沼倉さんに聞いたので、大きいのを選んできました」
あいが、手柄を主張する仔犬のような鼻息で言った。
「ありがとう」
皮の部分を持ち、上から齧った。瑞々しい甘さが口に広がった。あいも隣でスイカを食べはじめた。
馬と従業員の全員に行き渡ることを考えて切った。大玉のスイカだったが、一人が一、二切れも食べたらなくなってしまう量だ。
「実習もあと二日で終わりだね」
「はい」
「僕の方は、伝えられるものは、すべてあいに伝えたつもりだ。あいは、なにもやり残しはない?」
「あります」
「即答か」
「はい。天道さんと併せ、一度もやってないです」
沼倉、久瀬、北本といった、天道厩舎で調教騎乗ができる面々とは、何度となく併馬をやらせてきた。他にも、西や、他の現役騎手とも、その機会を与えた。
先日は、零と併馬をやらせた。
二頭の動物が、無邪気にじゃれ合いながら駈けている。そんなふうに見えた。
あいも零も、人馬一体と殊更に考えずとも、馬と一つになれる。そんな二人の間では、言葉は不自由なものでしかないのかもしれない。
自分とあいが併馬をしたところで、ああいう駈け合いにはならないだろう、と思えた。
あいと零。二人は、一枚のコインの表裏のようなものだと、いつからか天道は考えていた。
「明日、天気が崩れなければ、やろうか」
「はいっ」
花が開くように、あいが喜色を浮かべた。
「ほら、加奈恵が戻って来た。食べ尽くされる前に、スイカをもっていってあげな」
あいをそれとなく遠ざけ、一人になった。久瀬は厩舎に残って、スイカを貪る馬を眺めているのだろう。
スイカを平らげ、タープテントやテーブルを片すと、北本は沼倉と何人かの厩務員を連れて酒を飲みに出かけて行った。天道も誘われたが、仕事が残っていると言って断った。
急ぐ仕事は、なにもなかった。
一時間ばかり事務所に居残り、遠野厩舎時代の馬の古い記録を、デジタルデータに移す作業をして、家路についた。
トレーニングをしてから眠りにつき、目覚めると、まずカーテンを開けた。
雨が降っていた。
自分がほっとしているのか、残念がっているのか、よくわからなかった。あいは残念がっているな、と天道は思った。
二日が過ぎ、あいが競馬学校に戻る日になった。
騎手課程生は午前中に寮の部屋の掃除をし、正午にはトレセンを出発すると聞いていた。
天道は、頃合いを見計らって寮まで歩いていった。
あいが、荷物を背負って寮から出てきた。
「あ、天道さん」
「帰ったら、模擬レースだね」
「はい。本番のつもりでやります」
天道は頷いた。
「全六回の模擬レースで、四回目以降は、競馬場で、現役騎手を交えてやる。最終日が中山競馬場の芝千二百なのは、知っているね?」
「はい」
「零が参加するのはそこだ。二年前に約束させられてね。僕はこれから、彼女が模擬レースに出られるよう、学校側に手回ししないといけない」
「零ちゃんと、そんな約束していたんですか」
「彼女のことだ。本気で一着を獲りにくるぞ。現役騎手が模擬レースで勝つことは、あまりしないんだが」
「零ちゃんには、関係ないと思います」
「だね」
「天道さんとの併せ、やりたかったです」
「僕の騎乗なら、現役時代のビデオで、何度も見てきたんだろう?」
山南が保存していたものを、あいは馬郷で繰り返し見ていたのだという。だから実習中は、自分以外の騎乗を見せることを優先させてきた。
様々な騎乗スタイルを見せた方が、学べるものは多い。
それに、トレーニングは続けていても、現役の頃のような切れを、いまの自分は喪っている。
「いまさら僕と併馬をやったとしても、あいが学べることは、さほどないよ」
「そんなこと。たとえそうでも、私は天道さんと馬に乗って駈け合いたかったです」
あいが眩しいくらいに真っ直ぐな瞳を向けてくる。
「くだらないことに拘っていたのかな」
「え?」
騎手への未練は、調教師になったときに断ち切ったつもりでいた。
しかしどこかで、騎手であった頃の自分と、いまの自分を比べて、いまの自分を卑下していたのではないか。だとしたら、それは未練に他ならない。
「帰ったら、その時、僕と併せをやろう」
「帰ったら」
「そう、帰ったら。騎手になって、僕の厩舎に帰っておいで」
あいが、天道の服の裾を掴んだ。いってきます。小さいが、天道の耳にあいの声が届いた。
トレセンに戻ると、久瀬が、厩舎前で馬の糞を拾い集めていた。
「調教に行く前にやられてな」
天道は糞の一つを拾い上げた。
「この糞、ラクシュか」
久瀬は頷いた。
「藤刀は行ったか」
「はい」
「実習最終日に、一人ひとりに礼を言って回っていた。律儀なもので、休みでいないやつには、手紙を残していった」
「そうみたいですね」
「みんな、見送りに行きたがっていたぞ」
「手が空いていたなら、来たらよかったのに」
「あんたに気を遣ったのさ」
「久瀬さんも?」
久瀬は曇った笑い方をしただけで、答えなかった。
晴れ渡った空を仰ぐと、厩舎の屋根のあたりで、トンボが旋回して飛んでいるのが見えた。




