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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第二十一話

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天道駿 ⑧

 六月に函館へ向かい、その後小倉、新潟、札幌と出張を続けていた沼倉が、トレセンに帰ってきた。


「これ、土産です。こっちに戻って来てから、八百屋で買ったものなので、北海道のものでもないですが」

 事務所に入って来た沼倉は、片手にぶら下げたスイカを抱え上げた。


「いいな。切り分けて、冷やしておこう」


 沼倉から受け取ったスイカは、ずっしりとした重さがあった。


 沼倉は無意識のうちに事務所のホワイトボードを確認していた。

 いまは、北本がラクシュの調教中だった。併馬で、あいが随伴する馬に騎乗している。


「この二カ月で、なにか見出せたかい?」


「外に出ていた分、色々なものを見られたと思ってます」


「印象に残っているのは?」


「人です」


 考える表情をしてから、沼倉は答えた。


「厩舎や競馬場だけじゃなく、なんでもない商店街を歩いたり、近場の低山に登ったりして。どこに行っても、人がいました。見ず知らずなのに、親切にしてもらったことも、一度や二度ではなくありました」


 顔を顰めたくなる人間もなかにはいたはずだが、沼倉はそれを口にしなかった。


 少し前の沼倉なら、馬だけを見ようとしただろう。自分には関わりのないと思える事柄には目を向けないという、狭量な部分が沼倉にはあった。


「人を見たか」

 天道は声をあげて笑った。


 だからなにかが変わる、ということはないだろう。広い視野を持とうと、出張を買って出た時点で、沼倉は自分の殻を破ったといえる。


 沼倉の無表情は変わらない。しかしその奥に、間違いなく豊かなものが芽吹いている。まだ、芽吹いただけだ。


 どんな花を咲かせるか、あるいは枯らすか、沼倉次第である。


「楽しみだな」


「え?」


「スイカさ。うまそうな重さだ」


「喜んでもらえてよかったです」


 スイカなら、馬も食う。皮まで全部食うので、後始末の手間もない。

 そこまで沼倉が考えたかは、わからない。


 午後のミーティングで、一日の報告を受け、明日以降の予定を確認した。


 まだ陽は高かった。


 数人ががかりで厩舎の前にタープテントを張り、日陰をつくった。


 北本が、どこかから折り畳み式で持ち運びのできるテーブルを借りてきた。

 天道と沼倉の二人で、切り分けて冷やしておいたスイカをテーブルに運んだ。


「馬には、俺がやってこよう」


「あ、ウチも行きます」


 馬用に取り分けておいたスイカを、久瀬が持って厩舎に入っていく。加奈恵がついて行った。


 てっきりあいも加奈恵の後に続くかと思ったが、その素振りは見せなかった。

 あいは、スイカをふた切れ貰って、天道の隣にやってきた。


「これ、天道さんの分です。楽しみにしてたって沼倉さんに聞いたので、大きいのを選んできました」


 あいが、手柄を主張する仔犬のような鼻息で言った。


「ありがとう」


 皮の部分を持ち、上から齧った。瑞々しい甘さが口に広がった。あいも隣でスイカを食べはじめた。


 馬と従業員の全員に行き渡ることを考えて切った。大玉のスイカだったが、一人が一、二切れも食べたらなくなってしまう量だ。


「実習もあと二日で終わりだね」


「はい」


「僕の方は、伝えられるものは、すべてあいに伝えたつもりだ。あいは、なにもやり残しはない?」


「あります」


「即答か」


「はい。天道さんと併せ、一度もやってないです」


 沼倉、久瀬、北本といった、天道厩舎で調教騎乗ができる面々とは、何度となく併馬をやらせてきた。他にも、西や、他の現役騎手とも、その機会を与えた。


 先日は、零と併馬をやらせた。

 二頭の動物が、無邪気にじゃれ合いながら駈けている。そんなふうに見えた。


 あいも零も、人馬一体と殊更に考えずとも、馬と一つになれる。そんな二人の間では、言葉は不自由なものでしかないのかもしれない。


 自分とあいが併馬をしたところで、ああいう駈け合いにはならないだろう、と思えた。


 あいと零。二人は、一枚のコインの表裏のようなものだと、いつからか天道は考えていた。


「明日、天気が崩れなければ、やろうか」


「はいっ」


 花が開くように、あいが喜色を浮かべた。


「ほら、加奈恵が戻って来た。食べ尽くされる前に、スイカをもっていってあげな」


 あいをそれとなく遠ざけ、一人になった。久瀬は厩舎に残って、スイカを貪《むさぼ》る馬を眺めているのだろう。


 スイカを平らげ、タープテントやテーブルを片すと、北本は沼倉と何人かの厩務員を連れて酒を飲みに出かけて行った。天道も誘われたが、仕事が残っていると言って断った。


 急ぐ仕事は、なにもなかった。


 一時間ばかり事務所に居残り、遠野厩舎時代の馬の古い記録を、デジタルデータに移す作業をして、家路についた。


 トレーニングをしてから眠りにつき、目覚めると、まずカーテンを開けた。


 雨が降っていた。

 自分がほっとしているのか、残念がっているのか、よくわからなかった。あいは残念がっているな、と天道は思った。



 二日が過ぎ、あいが競馬学校に戻る日になった。

 騎手課程生は午前中に寮の部屋の掃除をし、正午にはトレセンを出発すると聞いていた。


 天道は、頃合いを見計らって寮まで歩いていった。

 あいが、荷物を背負って寮から出てきた。


「あ、天道さん」


「帰ったら、模擬レースだね」


「はい。本番のつもりでやります」


 天道は頷いた。


「全六回の模擬レースで、四回目以降は、競馬場で、現役騎手を交えてやる。最終日が中山競馬場の芝千二百なのは、知っているね?」


「はい」


「零が参加するのはそこだ。二年前に約束させられてね。僕はこれから、彼女が模擬レースに出られるよう、学校側に手回ししないといけない」


「零ちゃんと、そんな約束していたんですか」


「彼女のことだ。本気で一着を獲りにくるぞ。現役騎手が模擬レースで勝つことは、あまりしないんだが」


「零ちゃんには、関係ないと思います」


「だね」


「天道さんとの併せ、やりたかったです」


「僕の騎乗なら、現役時代のビデオで、何度も見てきたんだろう?」


 山南が保存していたものを、あいは馬郷で繰り返し見ていたのだという。だから実習中は、自分以外の騎乗を見せることを優先させてきた。


 様々な騎乗スタイルを見せた方が、学べるものは多い。


 それに、トレーニングは続けていても、現役の頃のような切れを、いまの自分は喪《うしな》っている。


「いまさら僕と併馬をやったとしても、あいが学べることは、さほどないよ」


「そんなこと。たとえそうでも、私は天道さんと馬に乗って駈け合いたかったです」


 あいが眩しいくらいに真っ直ぐな瞳を向けてくる。


「くだらないことに拘っていたのかな」


「え?」


 騎手への未練は、調教師になったときに断ち切ったつもりでいた。

 しかしどこかで、騎手であった頃の自分と、いまの自分を比べて、いまの自分を卑下していたのではないか。だとしたら、それは未練に他ならない。


「帰ったら、その時、僕と併せをやろう」


「帰ったら」


「そう、帰ったら。騎手になって、僕の厩舎に帰っておいで」


 あいが、天道の服の裾を掴んだ。いってきます。小さいが、天道の耳にあいの声が届いた。

 トレセンに戻ると、久瀬が、厩舎前で馬の糞を拾い集めていた。


「調教に行く前にやられてな」

 天道は糞の一つを拾い上げた。


「この糞、ラクシュか」


 久瀬は頷いた。


「藤刀は行ったか」


「はい」


「実習最終日に、一人ひとりに礼を言って回っていた。律儀なもので、休みでいないやつには、手紙を残していった」


「そうみたいですね」


「みんな、見送りに行きたがっていたぞ」


「手が空いていたなら、来たらよかったのに」


「あんたに気を遣ったのさ」


「久瀬さんも?」


 久瀬は曇《くぐも》った笑い方をしただけで、答えなかった。


 晴れ渡った空を仰ぐと、厩舎の屋根のあたりで、トンボが旋回して飛んでいるのが見えた。


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