研鑽と冷雨 ③
見知らぬ男が、天道と久瀬とともに厩舎に入って来た。三人は、ファーストステップの馬房の前でぼそぼそと話しはじめた。
見知らぬ男は、恰幅のいい五十絡みで、派手ではないが高価そうな腕時計をしていた。
「あの人は?」
沼倉に、あいは声を潜めて尋ねた。馬の飼い付けの途中だった。
「ファーストステップのオーナー。社長だよ。昨日の出馬投票で菊花賞に出るのが正式決定した。から、様子を見に来たんだ。たぶん」
なんの会社の社長か、沼倉は言わなかった。
「最後のレースだって、久瀬さんが言ってました」
「勝っても負けても、重賞に出るのは最後だろう」
沼倉は三人を一瞥しただけで、すぐに馬に視線を戻した。沼倉が担当する牝馬で、なかなか思うように食べてくれないのだとぼやいていた。
牝馬が、沼倉が工夫した飼料に口をつけた。そのまま黙々と食べ続ける様子を見て、沼倉の気持ちが和らいだ気配がした。
表情の乏しい沼倉の心の機微が、この頃、あいは感じ取れるようになっていた。
「オーナーは、もう一年、現役を続けさせる意向だったらしい。けど、天道さんと久瀬さんが話し合って、今シーズンいっぱいで引退させてやりたいって、相談したんだ」
「そうなんですね」
ファーストステップは、来年で六歳になる。他の多くの競走馬も、大体それぐらいの歳で引退している。
三、四歳に十分な戦績を残した馬は、六歳になる前に引退して、種牡馬として繁殖牧場に預けるという選択肢もあった。
優秀だと認められた種牡馬は、一度の種付けで数千万という金が動くのだと、知識としては頭に入っている。
餌やりを終え、バケツを飼料庫に片しに行こうとすると、久瀬に呼ばれた。
「ファーストステップを逍遥馬道で歩かせてきてくれ」
やることと板挟みになり、あいがまごついていると、沼倉が、あいの持っている空のバケツを引き取ってくれた。
沼倉に礼を言い、久瀬たちがいる方へ行った。
馬房が開かれ、ファーストステップが引き出された。
「乗らずに、手綱を引いていってくれ」
「わかりました」
「久瀬さん、昨日のファーストステップとの坂路調教で腰が痛むんだってさ。頼むよ、あい」
口を挟んだ天道を、久瀬はじろりと睨む。天道は大袈裟に怖がってお道化てみせた。
「久瀬さん、彼女は、競馬学校の実習生では?」
久瀬の隣にいるオーナーが、少し不安げに言った。
「心配いらんです。馬の扱いに関しては、並みの新人より長けとります」
久瀬の言葉に、嬉しさが込み上げてきて、あいは身震いしそうになった。
「なにをもじもじしとるんだ、さっさと行け」
久瀬は自分で言って恥ずかしくなったのか、あいを手で追い払う仕草をした。
オーナーに一礼し、ファーストステップを連れて逍遥馬場へ向かった。
逍遥馬道は、ウッドチップが深めに敷き詰められているので、馬の脚に優しく、強い調教明けに歩かせるには最適な道である。
緩やかにカーブした道を歩いていく。
途中で、坂路調教を終えて厩舎に戻る馬と、二度すれ違った。逍遥馬道は、トレセンの北側にある坂路のコースと接続しているのだ。
ファーストステップを含め、今週末のレースに出走する馬は、昨日の木曜日に追い切り調教を受けている。
今日は、散歩させたり軽めの運動だけで、休養に努めている馬が多いが、出走予定が先の馬はその限りではなかった。
「お、隊長じゃねえか」
丘を上がっていくと、坂路コースと交わるところに大矢がいた。汗でびっしょり濡れた馬の手綱を握っていて、大矢も息が乱れていた。
「坂路での追い切りをやらしてもらったんだ」
「へえ、いいね。併馬だけじゃなくて、坂路にも出させてもらってるんだ」
「ん、なんか僻みっぽい言い方だな」
「別に、自分がまだコースに一度も出させてもらってないからって、僻んでないよ」
「めちゃくちゃ僻んでんじゃん」
あいは大矢に背を向け、来た道を引き返した。
「そっちはそっちで、他の厩舎の馬にも乗せてもらってるだろ。正直、俺はその方が羨ましいぜ」
大矢が、後ろから付いて来て言った。坂路か厩舎区画に戻るには逍遥馬道を通るしかないので、ついて来ないで、とも言えなかった。
「その馬、なんとなく、隊長が故郷で大切にしてた馬と似てないか? 名前、なんて言ったっけ」
「綾。毛色が同じだけで、全然違うよ。綾は女の子だし」
子を産んで、いまでは母になっている。馬郷で、我が子とどんなふうに過ごしているのか。山南からは、綾が出産したという連絡が来て以降、一度も知らせはない。
隣を歩いていたファーストステップが、あいの肩を食んできた。目で、綾って誰だ、と問いかけてくる。
綾とは、姉妹同然に育ったの。馬なんだけどね。お互いのために離れることを選んだけど、いまも大切な家族なの。
ファーストステップの首に手を当て、綾との思い出を心の中で思い浮かべた。
ファーストステップの尻尾が、楽しげに揺れている。ちゃんと伝わっている、とあいは思った。
厩舎区画の手前まで戻ってきた。
「嫌な態度とっちゃってごめん、大矢君。私も、早くコースに出してもらえるように頑張るよ」
「おう。そういや、坂路の走り込みって、まだ続けてるのか?」
「うん、やってるよ」
「そうか。また、俺も行く。杉本にも声かけとく」
「無理しなくていいよ。私が勝手にやってるだけなんだから」
実習がはじまった直後は、雑務が中心で体力が余っていた。身体を鈍らせないために、許可を貰って坂路を走り込むことをはじめた。
当初は大矢と杉本もそれに参加していたが、競走馬に乗る許しが出ると、足は途絶えがちになった。
あいも乗馬の機会が増え、余力はなくなっているが、時間のやりくりをして自主トレーニングは継続している。
「いや、行くよ。自分を甘やかして、隊長に差をつけられたくねえしな」
大矢が破顔し、あいも笑い返した。
逍遥馬道を出たところで大矢とは別れ、お互いの厩舎に戻った。
蹄の間に挟まった木屑を掘りだしてから、ファーストステップを馬房に入れた。
久しぶりに大矢と言葉を交わし、ほっとした自分がいることに、あいは気づいていた。
天道がいるとはいえ、周りは歳の離れた大人ばかりだった。張り詰めた日々で、気を許せる同期と過ごす時間を欲していたのは、大矢や杉本も同じなのかもしれない。
関東のトレセンに割り振られた正士郎たちは、どうしているのだろうか。
厩務員課程の加奈恵は、騎手課程生より一年早く、来年の三月には卒業する。もう卒業後の進路を決め、就職活動をしているのか。
「あなたはここを出て、どこに行くのかな」
馬房の柵の隙間から腕を差し入れ、水を飲んでいるファーストステップの額にある、雲の影のような模様に触れた。
競走馬が引退し、どう余生を過ごすか。学校で学んだ以上のことは知らなかった。いや、目の前のことを優先させて、見ようとしてこなかった、といった方が正しい。
あいは、墨を流したようなファーストステップの鬣を、手櫛で梳いた。
ファーストステップが水を飲むのをやめて、うっとりとした表情をする。
綾の顔とファーストステップの顔が、束の間、重なった。




