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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十七話

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研鑽と冷雨 ③

 見知らぬ男が、天道と久瀬とともに厩舎に入って来た。三人は、ファーストステップの馬房の前でぼそぼそと話しはじめた。


 見知らぬ男は、恰幅のいい五十絡みで、派手ではないが高価そうな腕時計をしていた。


「あの人は?」

 沼倉に、あいは声を潜めて尋ねた。馬の飼い付けの途中だった。


「ファーストステップのオーナー。社長だよ。昨日の出馬投票で菊花賞に出るのが正式決定した。から、様子を見に来たんだ。たぶん」


 なんの会社の社長か、沼倉は言わなかった。


「最後のレースだって、久瀬さんが言ってました」


「勝っても負けても、重賞に出るのは最後だろう」

 沼倉は三人を一瞥しただけで、すぐに馬に視線を戻した。沼倉が担当する牝馬で、なかなか思うように食べてくれないのだとぼやいていた。


 牝馬が、沼倉が工夫した飼料に口をつけた。そのまま黙々と食べ続ける様子を見て、沼倉の気持ちが和らいだ気配がした。


 表情の乏しい沼倉の心の機微が、この頃、あいは感じ取れるようになっていた。


「オーナーは、もう一年、現役を続けさせる意向だったらしい。けど、天道さんと久瀬さんが話し合って、今シーズンいっぱいで引退させてやりたいって、相談したんだ」


「そうなんですね」


 ファーストステップは、来年で六歳になる。他の多くの競走馬も、大体それぐらいの歳で引退している。


 三、四歳に十分な戦績を残した馬は、六歳になる前に引退して、種牡馬《しゅぼば》として繁殖牧場に預けるという選択肢もあった。


 優秀だと認められた種牡馬は、一度の種付けで数千万という金が動くのだと、知識としては頭に入っている。


 餌やりを終え、バケツを飼料庫に片しに行こうとすると、久瀬に呼ばれた。


「ファーストステップを逍遥馬道《しょうようばどう》で歩かせてきてくれ」


 やることと板挟みになり、あいがまごついていると、沼倉が、あいの持っている空のバケツを引き取ってくれた。


 沼倉に礼を言い、久瀬たちがいる方へ行った。


 馬房が開かれ、ファーストステップが引き出された。


「乗らずに、手綱を引いていってくれ」


「わかりました」


「久瀬さん、昨日のファーストステップとの坂路調教で腰が痛むんだってさ。頼むよ、あい」


 口を挟んだ天道を、久瀬はじろりと睨む。天道は大袈裟に怖がってお道化てみせた。


「久瀬さん、彼女は、競馬学校の実習生では?」

 久瀬の隣にいるオーナーが、少し不安げに言った。


「心配いらんです。馬の扱いに関しては、並みの新人より長けとります」


 久瀬の言葉に、嬉しさが込み上げてきて、あいは身震いしそうになった。


「なにをもじもじしとるんだ、さっさと行け」

 久瀬は自分で言って恥ずかしくなったのか、あいを手で追い払う仕草をした。


 オーナーに一礼し、ファーストステップを連れて逍遥馬場へ向かった。


 逍遥馬道は、ウッドチップが深めに敷き詰められているので、馬の脚に優しく、強い調教明けに歩かせるには最適な道である。


 緩やかにカーブした道を歩いていく。


 途中で、坂路調教を終えて厩舎に戻る馬と、二度すれ違った。逍遥馬道は、トレセンの北側にある坂路のコースと接続しているのだ。


 ファーストステップを含め、今週末のレースに出走する馬は、昨日の木曜日に追い切り調教を受けている。


 今日は、散歩させたり軽めの運動だけで、休養に努めている馬が多いが、出走予定が先の馬はその限りではなかった。


「お、隊長じゃねえか」


 丘を上がっていくと、坂路コースと交わるところに大矢がいた。汗でびっしょり濡れた馬の手綱を握っていて、大矢も息が乱れていた。


「坂路での追い切りをやらしてもらったんだ」


「へえ、いいね。併馬だけじゃなくて、坂路にも出させてもらってるんだ」


「ん、なんか僻みっぽい言い方だな」


「別に、自分がまだコースに一度も出させてもらってないからって、僻んでないよ」


「めちゃくちゃ僻んでんじゃん」


 あいは大矢に背を向け、来た道を引き返した。


「そっちはそっちで、他の厩舎の馬にも乗せてもらってるだろ。正直、俺はその方が羨ましいぜ」


 大矢が、後ろから付いて来て言った。坂路か厩舎区画に戻るには逍遥馬道を通るしかないので、ついて来ないで、とも言えなかった。


「その馬、なんとなく、隊長が故郷で大切にしてた馬と似てないか? 名前、なんて言ったっけ」


「綾。毛色が同じだけで、全然違うよ。綾は女の子だし」


 子を産んで、いまでは母になっている。馬郷で、我が子とどんなふうに過ごしているのか。山南からは、綾が出産したという連絡が来て以降、一度も知らせはない。


 隣を歩いていたファーストステップが、あいの肩を食んできた。目で、綾って誰だ、と問いかけてくる。


 綾とは、姉妹同然に育ったの。馬なんだけどね。お互いのために離れることを選んだけど、いまも大切な家族なの。


 ファーストステップの首に手を当て、綾との思い出を心の中で思い浮かべた。


 ファーストステップの尻尾が、楽しげに揺れている。ちゃんと伝わっている、とあいは思った。


 厩舎区画の手前まで戻ってきた。


「嫌な態度とっちゃってごめん、大矢君。私も、早くコースに出してもらえるように頑張るよ」


「おう。そういや、坂路の走り込みって、まだ続けてるのか?」


「うん、やってるよ」


「そうか。また、俺も行く。杉本にも声かけとく」


「無理しなくていいよ。私が勝手にやってるだけなんだから」


 実習がはじまった直後は、雑務が中心で体力が余っていた。身体を鈍らせないために、許可を貰って坂路を走り込むことをはじめた。


 当初は大矢と杉本もそれに参加していたが、競走馬に乗る許しが出ると、足は途絶えがちになった。


 あいも乗馬の機会が増え、余力はなくなっているが、時間のやりくりをして自主トレーニングは継続している。


「いや、行くよ。自分を甘やかして、隊長に差をつけられたくねえしな」

 大矢が破顔し、あいも笑い返した。


 逍遥馬道を出たところで大矢とは別れ、お互いの厩舎に戻った。


 蹄の間に挟まった木屑を掘りだしてから、ファーストステップを馬房に入れた。


 久しぶりに大矢と言葉を交わし、ほっとした自分がいることに、あいは気づいていた。


 天道がいるとはいえ、周りは歳の離れた大人ばかりだった。張り詰めた日々で、気を許せる同期と過ごす時間を欲していたのは、大矢や杉本も同じなのかもしれない。


 関東のトレセンに割り振られた正士郎たちは、どうしているのだろうか。


 厩務員課程の加奈恵は、騎手課程生より一年早く、来年の三月には卒業する。もう卒業後の進路を決め、就職活動をしているのか。


「あなたはここを出て、どこに行くのかな」


 馬房の柵の隙間から腕を差し入れ、水を飲んでいるファーストステップの額にある、雲の影のような模様に触れた。


 競走馬が引退し、どう余生を過ごすか。学校で学んだ以上のことは知らなかった。いや、目の前のことを優先させて、見ようとしてこなかった、といった方が正しい。


 あいは、墨を流したようなファーストステップの鬣を、手櫛で梳《す》いた。


 ファーストステップが水を飲むのをやめて、うっとりとした表情をする。


 綾の顔とファーストステップの顔が、束の間、重なった。

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