研鑽と冷雨 ②
三頭立てでの併馬調教である。
天道の騎乗する馬が外を回り、内を沼倉が回った。
沼倉を挟むかたちで、内ラチ沿いを駈ける馬には、暇をしていた新人騎手を乗せた。
ウッドチップのコースを一周した。
厩舎に戻る前に、本気で駈けて心身共に熱くなっている馬を冷まさせる必要があった。
馬の診療所の近くに、屋根のある水場があり、そこに馬を入れた。
脚には、側面に複数の穴を穿ったホースを巻き、流水で丹念に冷やす。
一番疲労が蓄積し、怪我に繋がりやすいのが脚なのだ。
「複数頭に挟まれると、脚が鈍るな」
隣の蛇口で担当馬を冷やしている沼倉に、天道は話しかけた。
「はい。併馬を繰り返して、慣らしていくのも手ですけど、僕としては、遮眼帯を着けさせることを検討しています。天道さんは、どう考えますか」
「馬が嫌がらないのなら、それでいいんじゃないか」
馬によっては頭絡を締めるのすら嫌がる。
競走馬は、トレセンに入厩する前に、育成牧場で馴致されている。とはいえ、生来の性格がまったく消えることはない。
顔が敏感な馬に、遮眼帯やシャドーロールを着けると、かえって走らなくなったりする。
「多分、大丈夫だと思います」
「僕も可能な限りは把握しているが、一番その馬を理解しているのは担当の君だ。任せるよ」
「わかりました。次の調教で、試してみます」
厩舎に戻り、再度入念に馬体のチェックをしてから、馬を馬房に戻した。
新人騎手が、天道のところに走ってきて、礼を言って帰っていった。
調教の手伝いで騎乗しても、騎手には賃金が支払われる。デビュー後、乗り馬が回ってこない騎手で、そうして収入を得ている者は少なくない。
ヘルプで入った騎手や、常勤の厩務員、調教助手への給与管理も、調教師の仕事だ。
天道が事務室に入ると、北本がいた。
「お疲れさまです、天道さん」
「お疲れ。ラクシュは、今日はプールだっけ?」
各馬の調教内容や、出勤者のスケジュールが分刻みで書かれたホワイトボードに、ちらりと目を向けた。
「ええ。昨日が坂路調教だったので、泳がせるのは二周までにしようと思っていたんですけど。どうしても上がりたがらなくて、仕方なく三周させました」
「そうか。ラクシュは、プールが好きなのかな」
「水が好きみたいです。アイシングの時も、よくホースに悪戯して、水浴びしようとするんですよ」
「やってたね、そういえば。ファーストステップは砂好きで、ラクシュは水か」
阪神の新馬戦で勝利したラクシュは、現在、十一月に開催される馬齢別、一勝クラスのレースに向けて調整中である。
そこでの結果次第ではあるが、年が明けたら重賞レースで使っていくつもりだ。
来年は、ラクシュに日本ダービーを獲らせる。そこが一つ、目標だった。
一方で、ラクシュが四歳、五歳になった時のことも見据えている。
天道の理想は、長く、あらゆるレースで活躍できる馬を育てることだ。
夢物語のようだが、理想ではそうなのだ。
日本ダービーという目標は掲げていても、その先のラクシュの未来を考えていないわけではない。
「どうかしたかい?」
なにか言いたげな北本の視線に気づいて、天道は読みかけた事務書類を置いた。
「藤刀のことで」
「彼女、今日は金森厩舎に呼ばれていたか」
「はい。昨日は四ツ谷厩舎に、その前の日は池波厩舎に。明日は、うちの馬に乗ってもらう予定ですが」
「いいね、君に働いてもらった効果が出てるじゃないか」
「確かに、他所の厩舎のやつと飯を食ったり、ちょっと飲みに出かけたりした時に、天道さんに頼まれた通り、藤刀の話をしましたけど」
北本が、腕時計で時間を確認した。ラクシャの他にも、今日はあと二頭の調教が残っているはずだ。
「他の厩舎からも信頼を得られているのは、まぎれもなく藤刀の力ですよ」
「技能があろうと、まず知ってもらわなければね」
鞍を着けずに乗馬し、その馬を本来あるべき姿勢に直す。あいならそれができるかもしれないという予感はあった。馬郷で、綾に乗っている様を見て以来ずっとだ。
トレセン内で噂が瞬く間に広まったのは、北本の働きが大きい。
「あいには、できるだけ多くの馬に乗る機会を与えたい。乗った馬の数だけ、引き出しが増える。引き出しの多さは、そのまま騎手の武器になる」
「コースには、出してやらないんですか?」
「ん?」
「天道さんの考えはわかります。ただ、藤刀がコース調教に加えられている同期を、馬場からじっと見つめていたのを見かけて」
「確か、あいの他にも、二人来ていたよね。なんて名前だっけな」
「大矢と杉本です。大矢は豪快な追い切りをやるそうです。杉本は、競馬学校に入学するまで乗馬未経験だったらしく、だからか変な癖は一切なく、基本に忠実らしいです」
「へえ、交流が広いだけあって詳しいね」
社交的なだけでなく、組織の中での立ち回り方も上手い。それが北本の持ち味で、だからあいの噂をトレセン内に広めるのに一役買ってもらったのだ。
久瀬や沼倉は、馬のことなら話せるが、北本のような立ち回り方はできない。
「話が逸れたか。あいを、コースに出すつもりがないわけじゃない。まだ機を見てる」
「その、機ってのは?」
「随分と肩入れするね。夏は実習生なんて煩わしがっていたのに」
天道が口元だけで笑うと、北本は耳を赤くして俯いた。生真面目な男なのだ。
「気持ちはわかる。雑用は率先して引き受けてくれるし、馬への仕事は丁寧だ。あいを嫌いになるホースマンは、まずいない」
実習がはじまってすぐは、できることも少なかった。だからあいは、掃除や洗濯など、雑用を積極的に自分の仕事としていた。
いまは、日に四、五頭の馬に乗っているはずだ。乗ったあとの手入れも含めると、それだけで二、三時間は費やされる。
それでも、あいはこれまで通り、天道厩舎の雑務の手伝いを積極的にこなしている。
さらに隙間の時間は自身のトレーニングに当てていた。
沼倉もあいのひたむきさに感化されてきている。飼い犬を連れてきて、トレーニングに役立てるよう勧めていた。
沼倉から事前に相談があり、飼い犬を厩舎に連れてくることは、天道が許可を出した。
他にもっと手段はありそうなものだが、斜め上の発想は、沼倉らしいと思えた。
自分の担当馬を、他の人間には触らせたがらない久瀬も、あいには許していた。
先日は、ファーストステップを砂浴びに連れていくのを、あい一人に任せた、という話を聞いたぐらいだ。
「彼女は、いい騎手になる、と思います。もしかしたら、女性騎手の歴史を変えるかもしれない」
北本が顔を上げて言った。
「日本競馬史を変える。僕は、そう信じている」
凱旋門賞を獲れば、間違いなく変わる。本人は無自覚だろうが、それがあいの掲げている夢だった。
「余計な気を回しすぎました。もう行きます」
北本はヘルメットと鞭を持って、事務所を出て行った。




