研鑽と冷雨
役割ができた。それ自体は嬉しいことだった。
トレセンでの立場は、実習生である。
だから、できないからといって、すぐに叱責されはしなかった。
一回、失敗して注意されたことを、二度やると、きつく叱られた。それでも、物腰は柔らかなのだ。
人に厳しくしてもらえない以上、自分で、自分を厳しく律しなくてはいけないよ。
ある時、天道に言われ、ことあるごとにあいはその言葉を噛みしめた。
天道の指示で、鞍を着けていない状態のファーストステップに乗馬したのは、夏の終わりだ。
ファーストステップは、駈けると右にはみ出す感じがあり、馬体のバランスを崩していた。
調教を行っていくうちに、本来の姿勢が崩れてしまう馬は、珍しくないらしかった。
運動姿勢の矯正を目的に、二日に分けて、三十分程度、ファーストステップに乗った。
天道の助言に従い、あいは自分とファーストステップが、柔らかな球体に包まれているイメージをした。
結果、ファーストステップの状態が改善されると、他の似た状態の馬にも、鞍を着けずに乗馬するようになった。
馬を自然な状態に戻すというのが、あいの役目となった。
坂路を使った追い切り調教や、タイムを意識した本番さながらのコース調教は、馬にとって負担が大きい。
大抵、その前後は、人を乗せずに歩かせたり、乗ったとしても、軽く駈けさせるだけに留め、馬をリフレッシュさせる。
そういう休息日の馬が、あいに回ってきた。
次第にこのことがトレセン内で広がり、あいが裸馬に乗っていると、見物人が現れるようになった。
その中には、他所で厩舎を預かる調教師もいた。
数日して、他所の厩舎からも乗馬の依頼が来た。
天道の承諾があり、あいが厩舎を訪ねた。やることは天道厩舎と同じだった。
矯正するのではなく、見失っている本来ならのものを思い出させる。そのつもりで乗った。
やがて、あいのもとに来る依頼は、三つ、四つと増えていき、日に三、四頭に乗る、という具合になりつつあった。
「このままでいいのかな」
あいが呟くと、砂浴びを満喫していたファーストステップが、寝転んだまま首だけ反らして見上げてきた。
トレセンに来て、はじめて乗った現役馬に振り落とされた時の衝撃は、今も忘れられない。
同じ馬を、零はあっさりと乗りこなして見せた。近づいていると思っていた零との距離を、思い知らされたのだ。
あの日を振り返ると、確実に進歩している。人に頼りにされ、それに応えられているという充足感もあった。
だが、このままで零に追いつけるのか。
模擬レースで一緒に走る。約束はそうだが、ただ走るだけではない。そして、その一度きりでもない。
これから先、零とは幾度となく競い合う。零だけではない。正士郎や大矢といった同期たち、そしてなにより、場数を踏んだベテランの騎手たちがいる中で、勝ちを掴みとっていかなければならない。
「学校にいた時は、騎手になりたい、としか考えていなかったな。ここに来て、なった先のことが見えてきたんだ」
ファーストステップは足を振り子のように動かして、寝返りをうった。馬体は砂にまみれている。
「できることだけやっていても、駄目な気がする。私だけ、まだコースにも出れてない」
反応は返ってこないが、目の前のファーストステップに話しかけ続けた。
大矢と杉本は、すでにコースでの併馬に参加していた。
二頭以上での併走練習は、競走馬の闘争心を搔き立てたり、先行や差しといった脚の使い方を試すことを目的として行われる。
「天道さんは、なにか考えがあるのかな?」
ファーストステップが、砂から起き上がって身震いをした。
知らん。満足したし、もう行くぞ。
そんな具合に鼻を鳴らした。仕草を通して、ファーストステップの声を感じとれたのは、はじめてだった。
これまでは、一方的にあいが話しかけ続けてきた。性別は違うが、綾と同じ葦毛の馬だ。それだけのことで、初対面で親近感を抱いた。
関わるうちに、性格は綾とは全く違うということはわかった。
人と馬も、長く一緒にいると似てくるのかな。あなたと久瀬さん、似てる気がする。
ファーストステップの首を抱き、心の中で語りかけた。
ふと、ファーストステップが後退し、あいから身体を離した。目を見つめようとすると、そっぽを向かれた。
面映くなったのか、急によそよそしくなるところも、やはり久瀬に似ている、とあいは思った。




