今春零 ⑤
蝉が、消える直前の炎のように鳴いていた。
あいは、土嚢を抱え、小さなゴムボールを左右の足の下敷きにしていた。手首には、沼倉の飼い犬を繋いだリードを巻きつけてある。
犬は前脚に顎を乗せて寝ていたかと思うと、なにかしらの気配を察知すると、急に動きまわる。
手首のリードが引っ張られても、体勢を崩さずに耐える。バランスの保持力を鍛えられ、ただ土嚢を抱えていたときと較べると、トレーニングの質はよくなった。
犬は、沼倉の方から、トレーニングに役立てたらいいと提案してくれた。
代わりに散歩に連れていくのが条件だった。トレセンでの仕事のあと、宿舎に帰る前に犬を連れてトレセンの外周を走るのが日課になった。
ゴムボールを差し入れてくれたのは、天道である。
トレセンでの実習がはじまり、ふた月が経とうとしていた。
宿舎で自炊するのはだいぶ慣れた。献立を考えるのに、競馬学校で習った栄養学の知識が活きた。
天道厩舎では、指導係の沼倉に付いて、厩務員の仕事に従事する日が多い。
沼倉は調教もこなす。少しずつだが、あいも、現役競走馬と折り合いをつける感覚が掴めてきた。
ラクシュとも、馬場でなら、三歩法を使い分けて運動できるまでになった。だが、まだ走路コースに出る許可はもらえていない。
夏の間、北海道で放牧していたファーストステップが戻ってきていた。先週からだ。
すると、久瀬と一緒にファーストステップの世話をしてみてくれと、天道から指示が出された。
「藤刀、明日の分の飼料を準備しに行くぞ」
厩舎の片隅でトレーニングをしていたあいのもとに、久瀬が来て言った。夕焼けの空を背負い、久瀬の顔は影に隠れている。
「はい、行きます」
土嚢を邪魔にならない場所に片し、犬のリードを地面に打たれた杭に結びつけた。
「戻ったら散歩に行こうね」
頭をなでてやると、犬は目を細めた。
久瀬と飼料の貯蔵室に入った。
「ファーストステップ、今日は半分ぐらいの量しか食べませんでしたね」
「もとから食わせるのが難しい馬だ。明日は糖蜜をかけた麦を加えよう」
馬ごとに食事量は異なり、好みも違った。馬の毛艶や筋肉の張りなどを見ながら、配合や量は調整する。
それでも、思い通りに食べてくれないことは珍しくなく、その都度、馬の好みに合わせて工夫する必要があった。
「あの、久瀬さん」
「なんだ」
「今日のコース調教を見させてもらっていて思ったんですけど、駈ける時に、ファーストステップの体が右に傾いてませんか?」
「ああ。駈ける時だけでなく、常歩の段階から右に歪んでいる。駈けると、大きく伸縮運動を繰り返すことになるから、その歪みがわかりやすく現れるんだ。明日以降の調教で、修正しなけりゃならん」
普段、久瀬はほとんど喋らないが、馬のことでなら話せるようになってきた。過去にどんな馬がいて、どういう付き合い方をした、ということも、あいの方から訊けば答えてくれた。
「久瀬さん、ちょっといいかい」
「あ、天道さん、おかえりなさい」
「お、あいも一緒だったか」
天道は、昨夜から関東に出張していて、朝から留守にしていたのだ。
「二、三日前からファーストステップのバランスが少し崩れてたでしょ。癖になる前に矯正しておきたいですよね」
「うむ」
三食分のバケツを積み上げ、久瀬は腰の凝りを叩いて解す仕草をした。
天道も久瀬も、とっくにファーストステップの歪みに気づいていたのだ。
「そこで相談なんだけど、明日、あいをファーストステップに乗させてくれませんか」
驚き、上げそうになった声を、あいは寸前で飲み込んだ。
「なにか、考えがあるのか」
やや黙考してから、久瀬が言った。
「ええ」
「一度だけ。駄目そうなら、すぐ降ろす。それでいいな」
「わかりました」
翌日、最初は沼倉に従って、担当する馬のランジング調教のパートナー役を務めた。
ペンとも呼ばれる丸馬場で、馬の頭絡と繋いだ調馬索を手に持ち、馬場中央にあいが立った。調馬索は、たわむ程度の長さを取ってある。
沼倉が鞭を持ち、後方から絶えずプレッシャーを与えて馬を壁沿いに周回させる。
この調教が、あいはあまり好きではない。しかし、乗馬で方向転換をする際、人馬の重心を一致させるのには有効なのだ。
つまり、人が乗りやすい馬の姿勢をつくる、というのがこの調教の目的だった。
二頭の馬のランジングを終え、厩舎に戻ると、天道と久瀬がファーストステップの馬体状態をチェックしていた。
「時間通りだね。よし、馬場に行こうか」
トレセンでは、常時二千頭近い馬が飼育、調教されている。各厩舎が、限られた設備を使って馬を育成するので、スケジュールは分刻みだった。
「あれ、天道さん、鞍は?」
ファーストステップに、背を保護する布を敷き、帯で締める。通常はその上に鞍を載せるのだが、天道はそのまま馬場へ行こうとする。
「鞍はつけない。君ならやれるだろう?」
「え、でも」
天道とファーストステップを挟んで立っている久瀬に目をやった。いつもの仏頂面で黙っているが、承知済みなのか。
「天道さん、馬のバランスを矯正するって、私は具体的にはどうすれば?」
馬場へ向かう道すがら、あいは尋ねた。
「あれ、学校で習わなかったかい? 馬の口向きが悪い時なんかには手綱を開いて顎を譲るとか、逆に頭が凭れている時は、後肢を使わせることを意識すれば自然と首は起き上がるとか」
「それは、はい」
座学で習った馬体の仕組みと合わせて、どういう扶助をすれば求める反応を馬が返してくれるのか、ということは、散々実技でやってきた。
手綱を使うのは手段の一つに過ぎない。手綱を使わずとも、騎座の動きで、かなり意思の疎通は取れる。
競走姿勢では、座面は浮いている分、膝をはじめとした下半身全体が、その役割を果たすことになる。
「結局のところ、身体のバランスをどう保つかは馬自身がやることだ。矯正するとは言ったけど、こちらがあれこれやるというより、自発的に整えることを憶えさせる、と言う方が正確かな」
「馬に、考えさせる、ですか」
「不思議がることじゃないだろう。君は、綾とはそんなふうにして付き合っていたじゃないか」
言われてみれば、確かにそうだった。
綾に乗っているときは、扶助のやり方など、ほとんど気にしたことはない。
山を駈けるとき、木や岩や、急峻ではない斜面といった障害を、綾は自ら対処していた。
それでも、バランスを大きく崩したりはしなかった。止まってほしい時には、あいがすこし手で合図するだけで、綾はすぐ止まってくれた。
馬場に着いた。
あいは、天道の手を借りてファーストステップの背に上がった。
「一つだけ、アドバイス。馬と自分を、一つの球体としてイメージしてごらん。球体がきれいな丸い状態なのか、それとも歪なのか。いまどういう状態なのか意識できると、馬もあいも、自然と楽なバランスがわかってくるはずだ」
「やってみます」
頭の中に、球体に包まれた自分とファーストステップの姿を想像し、馬場を駈けた。
しばらく、右に膨らんだ球だった。常歩を挟みつつ、十分も駈けると、正円に近づいてきた。
イメージは立体的な球だが、俯瞰で捉えれば円である。
均整がとれている方が楽なのだと、ファーストステップも気づいてきたということだ。
天道に呼び戻された。
馬上から降りると、久瀬が、ファーストステップに歩み寄った。
「鞍を着けないことで、より自然な状態を馬に意識させる。それでいて、人を乗せることは忘れさせない。なるほどな、大した技だ」
久瀬はしゃがみ込んで、ファーストステップの足を擦ったりしている。
「あい、やったね、久瀬さんに認められた」
天道に言われるまで、久瀬の言葉が自分に向けられたものだと、あいは気づかなかった。
「砂場に連れて行ってやろう。こいつ、砂浴びをするのが好きなんだ」
久瀬が立ち上がった。




