今春零 ④
ベンディゴの酒場だった。
店の前面がガラス張りになっていて、真向いにバロック様式の時計塔が見えた。
まだ陽は高いが、店内は活気づいている。競馬場から人が流れてきているのだ。零とエマのテーブルに、酔っ払いが何度か声をかけてきた。
目の前で、エマがジョッキのビールを一息で飲み干した。すでに二杯は空けている。
張り合うのは馬鹿らしく、零はちびちびと飲み続けた。
「いつもそんな飲み方なのかい?」
「お酒を飲むのは、これがはじめてよ」
「へえ。どうだい、はじめての味は?」
「苦いわ」
エマは笑みを浮かべ、小さく頷いた。酒で湿った唇が、妙に艶めかしい。
「私と飲んで、面白いの?」
「まあ、退屈はしていない。幼顔のお前が飲むのを眺めていると、悪いことをさせているような背徳感がある。悪くない肴だ」
「来るんじゃなかったわ」
なぜエマの誘いを受けたのか、自分でも不思議だった。酒に興味があったわけでもない。
異国の空が、そうさせたのか。
競馬学校での日々を、零は話しはじめた。エマが、それを聞きたがったからだ。
「あい、今頃どうしているかしら」
競馬学校の思い出を話していると、あいのことが気になった。なんでも口に出てしまうのは、酔ってきたということなのか。
「誰だい、そりゃ」
「友達で、多分、私のライバルになる女の子。競馬学校の二年生で、いまはトレセンで実習中」
「長い付き合いなのかい?」
「いいえ。けど、私のはじめての友達。あいぐらい馬が好きな人は、きっと他にいないわ」
「ほう。私もかなりの馬好きなんだけどね」
エマは椅子の背凭れに肘を乗っけて言った。
「言われてみれば、二人、どこか似ているかも」
「どこが?」
「わからないわ。だから、どこかよ。無類の馬好きという点では、間違いなく同じね」
「あんたもだろう、零」
「私?」
「レースのコーナーを、あえて外に膨らんで抜けていった。あの場面なら、最短距離を選択する騎手は、少なくないはずだ。だが、それだと馬の脚に負担がかかり過ぎる。この国の馬場は、あまり馬に優しくできちゃいないしね」
「直感的にそうしただけ」
「確かに、勘は良さそうだ」
テーブルに新しい料理が運ばれて来た。いつ註文したのか。霧のような睡魔が、しばしば零の意識を絡みとりかける。
首で頭を支えているのが辛くなり、頬杖をついた。
残っているビールを飲み干してしまおうとしたが、なぜか、エマに横取りされてしまった。
「もう一杯」
「もうよしな。明日に障る」
「明日は、スマイルが休みでいいって。それで、お土産を買いにいくつもりだったの。来週には帰国だから」
「おい、しっかりしなよ」
微睡みの中で、日本を発つ前に会ったあいとの会話を、零は思い出していた。
なりたくても、騎手になれない人がいる。そうか、あれは、志摩のことだったのか。
志摩は、零の一期下で、二期下のあいにとっては先輩だった。しかしデビューを目前に、競馬学校を退学になった。
零の中で、志摩は、顔はぼんやり覚えているという程度の認識だった。
あいは、志摩に好意を抱いていたのだろうか。それは、頼りになる先輩としてか。それとも、異性としてか。
零は、人を好きになったことがない。馬に乗り、風を切って駈け続けているうちに、そういう感情をいつか置き去りにしてきてしまったのかもしれない。
あいにも、自分と同じでいてほしかった。
恋愛や、騎手はこうあるべきというような固定概念に、囚われてほしくない。
人のため、馬のため。そんな思いにがんじがらめになった心で、一体どこへ行けるというのだ。
気づくと、零は天井を見上げていた。白い、見知らぬ天井である。
ベッドで眠っていた。ベンディゴのホテルではない。カーテンの隙間から、朝陽が射し込んでいた。
上体を起こして、自分が裸であることに気づいた。
「起きたか。具合はどうだ?」
半開きになっていた部屋のドアから、エマが入って来た。タンクトップ姿で、汗にまみれている。トレーニングの最中だったのか。
「ここは、あなたの家?」
零はタオルケットを引き寄せ、尋ねた。確かエマは、旦那がいると言っていたはずだ。
「安心しな、旦那は仕事さ。服は、洗濯して乾かしてそこに置いてある。下着はあたしの新品のをやる。とりあえずシャワーを浴びてきな」
「頭ががんがんする」
「二日酔いだ。水でも飲みな」
エマが手に持っていた飲みかけのペットボトルの水を投げてよこした。水を飲み、熱いシャワーを浴びると、頭痛はいくらか治まった。
服を着てリビングに出ると、ホットサンドと紅茶が用意されていた。
「あんた、スマイルの厩舎で世話になっているんだってね。一応連絡は入れてあるよ」
「ありがとう」
エマは、なぜかスマイルのあだ名を知っていた。昨日自分が話したのかもしれないが、記憶は定かではなかった。
「ベンディゴに乗っていった馬は、空きのあるバララット行きの馬運車があったらしくて、先に厩舎に戻っているってさ。あんたは、バララットまで私が車で送るよ」
「助かるわ」
「その前に、少し野駈けに出る。あんたも来るかい?」
出された食事を平らげ、エマの後についていって外へ出た。玄関横の物置から、鞍を二つ取り出し、片方を零に渡してきた。
鞍を担いで家の裏に回ると、小さな牧があった。牧の中には、馬小屋も建てられている。クーラーが付けられているのか、馬小屋には電線が引かれてあった。
エマが囲いに入っていき、指笛を吹くと、二頭の馬が駆け寄ってきた。
「この二頭は、特別思い入れのある馬でね。引退するときに引き取らせてもらったのさ」
言いながら、エマは鞍を乗せ、一緒に持って来た頭絡を締めた。
零も同じようにした。
エマは栗毛の馬に乗り、零はやや斑点のある葦毛に乗った。囲いを跳び越え、牧の外に出た。
人家が離れるまで、ゆっくりと歩いた。
すぐに野原だった。道と野原の境に、小さな杭が打たれて針金が敷かれている。私有地のようだ。
エマは乗馬のまま杭を越えた。野原に入ると、疾駆をはじめた。零も、馬腹を蹴ってついて行った。
拡い野原を、思うさま駈け回った。
「気持ちいいなぁ、零」
前を駈けていたエマが、鐙に立ち上がり、手綱から手を放して腕を広げた。
零も真似をして、全身に風と陽を浴びた。
雲が流れている。
ペリカンが、西の空へ飛んでいく。水辺に棲み、大きな嘴で魚を食らうのだ。どうしてこんな内陸に、と思ったが、近くに湖か川があるのかもしれない。
疾駆を止め、エマが轡を並べてきた。
「来週、日本に帰るって話、あれ、少し延ばしなよ」
「また気分、エマ?」
「ああ、そうさ。あたしはあんたが気に入ったよ。ムーニーヴァレーでレースがある。あんたも出な」
「メルボルンの、大きな競馬場ね。出たいと言って、出れはしないでしょう」
「なんとかなるさ。それとも、負けっぱなしで、日本に逃げ帰るのかい?」
安い挑発だった。しかし、乗っかってもいい、と零は思った。
ただ、下地がなんと言うか。エージェントの松田も、菊花賞、天皇賞に向けて、騎乗馬を確保しようと奔走している。
皐月賞で負けて、日本を出てきた。阪神の新馬戦では勝ったが、GⅠを獲らないかぎり、負けたままだ。
「悩むようなことじゃない。あんたが、どうしたいかさ」
「そうね」
頷いていた。
野原は、芽吹いたばかりの草で覆われ、みずみずしい色をしている。
日本では、夏が終わろうとしている頃だった。




