今春零 ③
ブラシをかけてやると、馬は心地よさそうに尻尾を揺らした。
馬の毛の生え代わりが落ち着くまで、二週間ほどかかった。
その間に、零は、四度のレースに出た。
四度とも、メルボルン近郊の町にある、カントリークラスの競馬場だった。
すべて左回りだったが、スマイル厩舎のコース調教でも経験していて、戸惑いはなかった。
四度のレースで、すべて一着を獲った。
すると、他の厩舎からも、調教での騎乗依頼が来るようになった。
競馬場に向かう時もそうだったが、足になる乗り物がないことが、オーストラリアでは悩みの種になる。
電車やバスの通っていない町にも競馬場はあり、さらに厩舎となると、車がなければ行けないような郊外が多い。
零は考え、スマイルの厩舎にいる、八頭の引退馬に目を付けた。
八頭は、昨シーズンに引退し、現在新たな引き受け先を探している最中だった。
その内の一頭を、乗用馬として貸してもらえないかと、スマイルに頼んだ。
三日後、スマイルは馬主に話を通して、許可を得られた、と笑顔で言った。
「のんびり屋で、競走馬としてはいま一つだったが、粘り強い馬だ。明日は何時に出発するつもりだ?」
「調教に、八時に来てほしいと言われているから、途中で馬に休息を与えることを考えると、三時ぐらいに出れば間に合うかしら」
「そうだな、しかし、そんな朝早くに大変じゃないか?」
「日本だと、夏場はだいたいそれぐらいよ」
「すごいな、日本人は」
スマイルは苦笑し、首を竦める仕草をした。
翌未明、零は引退馬に乗ってバララットを出た。
北に百キロほど行ったところにある、ベンディゴという町の近くまで来た。
速歩でなら、馬はかなり長く駈けられる。レースで使うような襲歩では、たとえ休ませながらであっても、精々二、三キロが限界だった。
馬は、日本と同じで、交通法上は自転車と同じ扱いである。免許は要らない。ただ、いくら競馬が身近な国とはいえ、町から町へ馬で駈けている姿は異様らしく、注目は引いた。
馬の脚にいらない負担がかからないよう、なるべく舗装路を避け、道なりに平坦な大地を進んだ。
町の中までは入らず、東に曲がった。
調教依頼のあった厩舎を訪ねた。
「連絡は受けていたが、ほんとうにバララットから馬で来たのか」
出迎えてくれた調教師が目を丸くする。
「この子に、水と飼料を貰えるかしら?」
「ああ。今晩はベンディゴの町に泊るんだろう。よければ朝まで預かってやろうか?」
「いいの?」
「馬房なら空いている」
大きな厩舎だった。
馬場では二十頭ほどの馬が駈けていて、二十分置きに入れ替わっている様子だ。ざっと、二百頭ほどいるのだろうか。
「すごい規模ね。スマイルの厩舎よりも大きいわ」
「スマイル、やつのあだ名か? なるほど、ぴったりだな」
調教師は大きな声で笑い、背後の建物を振り返った。
「ざっと二百頭が入厩してる。やつのとこは、百頭ちょっとだろ」
「それでも、個人で、と考えると、日本だとたいへんな数だわ」
「確か、育成に頭数制限があるんだったか。島国で、仕方のない部分はあるんだろうが、まあ気の毒だな」
トレセンでは、与えられる馬房は調教師の成績に応じて変わるが、三十馬房が最大だった。
放牧する馬と、入厩させて調教する馬を入れ替えたりしながら、日本の調教師は馬房をやりくりしている。
それでも、百頭を超える馬を預かっている調教師は、零が知る限りではいない。
六頭の馬と引き合わされ、一時間半ほどかけて一頭ずつ調教した。
頼まれた仕事を終え、馬房を覗くと、バララットから乗ってきた馬はうとうととしていた。他の馬を見ても、扱いはしっかりしている。
徒歩でベンディゴの町へ行き、ゴシック調の教会らしき建物の向かいにある、ホテルにチェックインした。
翌朝も、陽が昇る前に身支度を済ませ、厩舎に行った。
馬を一晩預かってもらった礼をしに行くと、調教師が難しそうな顔で唸っていた。
「どうかしたの?」
「おお、零か。実は、今日、ベンディゴの町でレースがあるんだが、そこでうちの馬に乗ってもらう騎手が、昨夜から体調を崩してな。代わりの騎手を探していたんだが」
見つからなかったのだろう。困り果てた表情で騎手の名簿らしきものを睨んでいた。
調教師が、ふと、零に目を向けた。
「零、お前、頼まれてくれんか?」
「今日は九時からスマイルのところで調教を頼まれているの」
「そこは、俺から話をするよ。事情が事情だ。やつも承知してくれるはずだ」
「話がつくなら、私は構わないわ」
「よし、決まりだ」
急遽、代打騎乗が決まり、レースに出走する馬を紹介された。
乗馬し、調教コースを軽く二周すると、大体の性格や歩様の癖は掴めた。
零は、一食分の飼料をもらい、バララットから乗ってきた馬に会いに行った。
「予定が変わっちゃった。振り回してごめんなさい」
飼料を与え、前髪を軽く撫でた。馬は零の方は見向きもせず、食べるのに夢中だった。
ベンディゴの競馬場に移動した。
全八頭が出走するレースで、零は内枠だった。零以外にも、二人、女性騎手がいた。
オーストラリアでは、調教をつけるライダーも含め、女のホースマンが少なくない。
発馬機に進み、ゲートが開くのを待った。
オーストラリアのレースで乗った、先の四頭と較べても、馬の質は劣らない。
代打であろうと、出るからには勝つ。零は掌で、馬首を軽く叩いた。
ゲートが開いた。
一気に前に出た。他の馬は競ってくることはなく、あっさりと零にポジションを譲った。
先頭を駈け、一度は突き放した。
後方からの圧力が、じわじわと強まってくる。芝二千メートルのコースで、目立った起伏はない。上がり三ハロンで勝負をかけてくるのは明白だった。
来た。馬蹄の響きが背後から襲いかかってくる。鞭で合図を送り、零も馬を追い出した。いまだ先頭は守れている。
角度のきついコーナーを、外から中へ切り込むようにして突破した。
後ろから、一頭が伸びてきた。女性騎手が乗っている馬だ。三十後半ぐらいの歳で、騎手の名は、確かエマと言ったか。
エマの馬が、肩を並べてきた。近い。馬と馬の肩が擦れるような状態のまま、最終直線に突っこんだ。
ゴール板を横切った。
横長の確定板に、一位から四位までの馬の番号が点灯した。二着だった。
「おう、いいレースだった」
エマが、馬を寄せてきて、零の肩を叩いた。いくらか掠れた感じのある声だ。
「エマ・ウォーカーだ。拠点はシドニーだが、週に一、二回は、こっちでも乗っている。旦那がメルボルンで調教師をやっている関係で、家がこっちでね」
「私は」
「聞いているよ、零。カントリーで立て続けに四勝した。昨日SNSで、公道を乗馬で駆ける姿も投稿されてた。なにかと目立つやつだ」
「何勝したとか、SNSでどういう扱いをされているとか、興味ないわ」
「今日、負けたことも?」
エマが真っ直ぐ見つめてきた。試されているような気分になり、零はエマを見据えて目を反らさなかった。
馬が低く嘶き、エマはふっと表情を和らげた。
「歳は?」
「十九、いえ、二十になったばかりだわ」
「なら、酒は飲めるな。付き合いな」
「なぜ」
「あたしが、そういう気分だからさ」
エマは笑い声をあげ、鞍から飛び降りた。
レース中は大きく感じたが、地面に立つと、エマは割と小柄な体格をしていた。




