今春零 ②
明け方に肌寒さを感じることは、ほとんどなくなった。
バララットの町から、北に十五キロほど離れた場所にある厩舎で、馬を調教する仕事を与えられた。
オーストラリアでは、調教する人間はまとめて、ライダーと呼んだ。
厩舎の敷地の一角にある宿舎に、寝泊まりをすることが許されたのは、ライダーの仕事を任されてからだ。
はじめの二、三日は、馬房の清掃や飼い付けといった、一般的な厩務員の仕事だけを頼まれた。
そうした仕事をこなして、四日目に、馬に乗ってみるか、と誘われたのだ。
宿舎には、零とは別に、二人の女が起居していた。
片方は三十過ぎのライダーで、もう片方は見習いの、十六歳になったばかりの娘だった。
十六といっても、ヨーロッパ系で、外見は零よりよっぽど大人びている。
その娘は、朝晩、なにかを鼻腔に塗るのが習慣だった。
「なにを塗っているの?」
零がしげしげと覗くと、娘は少し恥じらうように横を向いた。
「ユーカリのオイルよ。この時期は、花粉がひどいから、これを塗っておくと少し楽になるのよ」
「へえ、あなたも花粉症なのね」
「零も、そうなの?」
「ええ。でも、オーストラリアの花粉と、日本の花粉は、種類が違うみたい。春は、私が一番嫌いな季節だけれど、こんな穏やかに過ごせているのははじめてだわ」
「ふうん」
二人で話していると、年嵩の方の同居人が、さっさと支度しないと遅れるよ、と言って外に出て行った。
宿舎に部屋は二つしかなく、一つがダイニングで、一つが寝室に使われている。二段ベッドは年嵩の女と見習い娘が使っており、零は、押し入れにあったフェルトの掛け布団を床に敷き、娘から借りた寝袋に包まって夜を過ごしていた。
夜も寒くなり、寝袋はもう必要ない季節になってきていた。
「おはよう、零」
六時前に、三人で厩舎の事務所に出勤すると、スマイルがコーヒーを飲んでいた。
今の季節、日本の厩舎なら、三時や四時から仕事をしているはずだ。それと較べると、かなりゆっくりした朝である。
「スマイル、あたしは今日、育成牧場の方に手伝いに行けばいいのかい」
年嵩の女が、スマイルに確認した。
「ああ、頼む」
「じゃあ、もう行くよ」
年嵩の女は、さっさと踵を返し、隣町にあるという育成牧場へ出発した。
競走馬の種付けは大概、春に行われるので、オーストラリアでは今がちょうどその時期なのだ。
「スマイルってニックネーム、すっかり定着しましたね」
見習い娘が、面白がって言った。
「じつは、結構気に入っている。ありがとう、零」
スマイルは、この厩舎を切り盛りする調教師の男だ。
メルボルンのホテルで、この場所を教えてもらったときに、男の名前を聞いた。
厩舎を訪ね、働かせてもらえることになったが、男の名は、零の感覚からするとひどく馴染みづらいものだった。
そこで、心の中で、零は男をスマイルと名付けた。初対面の時に見せた、屈託のない笑顔が印象に残っていた。
三日前に、ぽろっと、男をスマイルと口に出して呼んでしまった。
すると、その場に居合わせたスマイルと同年のライダーが大笑いし、男をスマイルと呼びはじめた。
瞬く間に他の従業員にも伝播していき、スマイルというあだ名が定着してしまったのだ。
「零、昨日も話したが、君には能力検定試験を受ける馬に乗ってもらうよ」
「わかったわ」
「昼前にはメルボルンにいたいが、まだ一時間ぐらい時間がある。それまで、この二頭の調教にあたってもらっていいか?」
スマイルは、ホワイトボード上に列記された馬名から、二頭の名を指さした。馬名の横には、調教内容に関する指示が英語で書き込まれている。
「わからないところはあるか?」
「大丈夫」
厩舎で働いていれば、専門的な英単語は自然と身に付いた。職場でも宿舎でも、常に英語を使う。何気ない会話も、渡豪前と比べると格段に上達した。
「よし、では頼む」
零はハロンごとに指示されているタイムを頭に叩き入れた。防護ベストとヘルメットを着け、馬房に向かった。
調教のやり方は、細かいことを除けば、日本とさほど違いはない。
ただ、一回の調教で駈けさせる距離が、いくらか短い。それは、競走馬に対する考え方の違いと言うより、単に気候が違うからだろう、と零は思った。
一頭目は、育成牧場で馴致を終えて、ここに引き取られたばかりの二歳馬だった。
指示された通りのタイムでコースを回ることは、零からすると、なんら難しくない。
厩舎横の装鞍所で、一頭目の馬装を解き、二頭目に乗り替えた。
二頭目は、三歳牝馬で、坂路で追い切りをした。
坂を登りきった馬を、緩やかな逍遥馬道を歩かせて戻ると、スマイルが立っていた。
「時間だ」
零は頷き、鞍から降りた。
装鞍所から出てきた見習い娘が、馬の手綱を引き受けてくれた。
車で、メルボルンへ向かった。
「日本には、馬の能力検定試験はないんだっけ?」
車のステアリングを遣いながら、スマイルが訊いてきた。
「中央には、ないわ」
「零は、中央の騎手だったな。じゃ、はじめてになるのか」
「ええ」
「まあ、ゲートから、五ハロン(一千メートル)をちょっと駈けるだけさ。君なら問題ない。どんな馬もよく乗りこなすし、若いが、大したものだ」
「ありがとう」
「荒馬の乗りこなし方など、うちのベテランライダーも唸るほどだ。人に教わって、できることじゃない。どこで乗馬を学んだんだ?」
「父が、引退した競走馬を、乗用馬に転向させる、という事業をやっていたの。いまは叔父が管理しているのだけれど、私はその牧場に入り浸って、競走馬に乗っていたわ。乗用馬に乗った記憶はほとんどない」
「なるほど、小さい頃から、気性の荒い馬にも乗っていたというわけか」
昨日までレースをやっていたような競走馬で、乗馬を覚えた。それらの馬の気性がどうであったかは、気にしたことがない。
「お父さんは、騎手だったのかい?」
「ええ」
「その影響で、君も騎手に?」
「それは、違う、と思う。あまり知らないの。いえ、なにも知らないくらい」
物心つく頃には、父は他界していた。晩年、若い嫁を迎え、そして授かったのが零だった。
父が腹上死だったとは、母と零しか知らず、零がそのことを聞かされたもの、つい昨年のことだ。
「私、未熟児だったの。小さい頃は、重度の喘息持ちで、他の子どもたちが走り回るのを、ただ羨んで過ごしてたわ」
「ほう」
「自分の足で走れなくても、乗馬なら、走るのは馬だから関係ない。そんなことを考えたのが、今思うと、最初だった気がする」
「乗馬は平気だったのか?」
零は、頭を振った。赤信号で、停車中だった。信号が変わり、スマイルが前を向き直してアクセルを踏んだ。
「馬に乗っている最中に発作が起きて、落ちたことが、憶えている限りでも十数回あったわ。叔父は気が気ではなかったでしょうね」
落馬して、発作が収まるのを待ち、また馬に乗る。それを繰り返した。
いま思うと、叔父に止められなかったのが不思議だ。母にも黙っていてくれたのだ。
いつだったか、兄の子だな、と言われたことは、ぼんやりとだが覚えている。
「メルボルンだ」
町が見えてきた。
車は、町にいくつかある競馬場の一つに向かった。
オーストラリアでは、デビュー前の馬の大半が、能力技能試験を受ける。メルボルンで三番目に大きな競馬場を使って、試験は行われた。
試験はレース形式だった。他に八頭の、一歳半から二歳までの馬が、発馬機に入った。
一着で、五ハロンを駈けきった。勝ったからといって、なんの感慨もなかった。
「駄目ね、こんなのじゃ」
レースをしている瞬間、生きていると実感できる。血が沸るのだ。それには、ほんもののレースでなければ駄目だった。
零は、馬上で眼を閉じ、疼く身体を鎮めた。




