今春零
下地の咥えた煙草の先を、じっと見つめていた。
下地が吸う間だけ、赤々と燃える。煙を吐いている間は、燻っているだけだ。
なにか、生き物を見ている気分に、零は襲われた。
「俺の話、聞いてたか?」
下地が、羊の肉に食らいついた。肉には骨がついていて、そこを持てばさほど手を汚さずに食べられた。
他にも、テーブルにはフィッシュアンドチップスや牛肉と豆を煮込んだ料理などが並んでいる。
ダイナーでの夕食の最中だった。
零の後ろのボックス席では男女のグループが酒盛りをしていて、カウンターでは老人がウィスキーをストレートでちびちびやっていた。
「なんだっけ?」
「あとはお前が自力でやれ、という話をしていたんだよ」
灰皿に煙草の灰を落とし、下地は言った。
「メルボルンまでは連れてきた。ちょうど俺も、こっちの同業者と、会って話しておきたい用事があったしな」
「それは聞いていたわ。それで、あとは自力で、というのは?」
「言葉通りだ。厩舎へ行くのも、そこで馬に乗せてもらえるようになるのも、お前でやれ」
零は、なにやら唆されたような気持ちになった。
しかし、考えてみると、下地は当然のことしか言っていない。
「わかった」
「いやに聞き分けがいいな。英語は喋れるのか?」
「いいえ」
「車の免許もないよな」
「ええ。諸々、自分でどうにかしろ、って話でしょ」
「ああ。ここの飯代だけは出してやる」
下地は、にやりと笑った。笑うと、鼻の下に蓄えた髭がちょっと動く。
二人前はあった料理を、下地はあっさりと平らげ、零が同じ量を食い終えるのを待つ間、二本目の煙草に火をつけた。
ダイナーを出て、下地と別れた。
零はダイナーと同じ通りにあるビジネスホテルで一泊した。チェックインは、知っている英単語と身振り手振りでなんとかなった。
翌朝、ホテルのフロントで、自分が騎手であること、レースに出るために日本から来たことを、伝えた。
フロントマンが困っていると、居合わせた中年の男が、急に横から話に入ってきた。ヨーロッパ系で、当然英語だった。
「もう一度言って」
聞き取れず、簡単な英語で零は訊き返した。
日本の騎手に好意的な調教師が、バララットにいる。おそらく、そんな意味のことを、男は言った。
バララットという町の名だけ、しっかりと聞き取れた。その調教師の名前も、男は口にしたようだが、耳馴染みのない発音で、そちらはよくわからなかった。
「ありがとう」
零はホテルの前でタクシーを拾った。行き先を尋ねてきた運転手に、町の名だけを告げた。
郊外に出ると、枯れ色の芝地が拡がっていた。
日本では真夏だが、こちらでは冬が終わろうとしている季節だ。凍えるほどではないが、明け方などはシャツ一枚では肌寒かった。
三つ、小さな町を通り過ぎた。
二つ目の町と三つ目の町の途中で、運転手がなにか言い、車を路肩に停めた。いそいそと降りて、少し離れた茂みの前で立ち止まった。
どうしたのかと覗いていると、男は立小便をはじめた。
茂みから、湯気が立ち昇った。
ぼんやりと窓の外の景色を眺めた。
道に沿って植えられたユーカリの木陰で、なにかが動いた。鼠かと思ったが、二回り以上大きい。二匹いて、片方が零の視線に気づいたのか、二足で立ち上がり、警戒心を示した。
「あの生きものはなに?」
小便を終えて戻ってきた運転手に身振りを交えて訊くと、クオッカだ、と答えた。
そこから、さらに二十分ほど車に揺られ、バララットの町に到着した。
駅前で車が停まった。
運転手に、今朝、ホテルマンに伝えたことと、まったく同じ内容を伝えた。
運転手が、耳馴染みのない名前を口にした。フロントで教えられた調教師の名だ。
零が頷くと、運転手は子供のようなあどけなさで笑い、車を再び発進させた。
オーススラリアの競馬場には、メトロポリタン、カントリー、ピクニックといった区分があるのだと、日本を発つ前にエージェントの松田から聞かされていた。
メトロポリタンが中央の競馬場だとすると、カントリーは、たとえば大井や笠松のような、地方競馬に相当するのか。
ピクニックが、アマチュアがやる草競馬だと、松田が言っていたのは憶えている。
再び車が停まった。
「ここ?」
「ああ、そうだ」
運賃を払い、車を降りた。
白い木の柵に入って行こうとすると、運転手に呼び止められ、東の方角を指さされた。そちらへ行け、ということだと理解した。
太陽は中天にかかり、上着を着ていると少し汗ばむぐらいの気温になっていた。
示された方角に歩いていくと、建物が見えてきた。厩舎だということは、匂いですぐにわかった。同じ敷地内に、柵に囲われた馬場や、覆馬場らしきものもある。
外の馬場で、三人が乗馬していた。近づいていくと、零に気づいた四十絡みの男が、馬を柵に寄せてきた。
「こんにちは。日本から来た騎手で、名前は今春零」
男が下馬し、名乗り返した。例の、耳馴染みのない名前だ。目の前にいる男が、この厩舎を預かる調教師なのか。
「ほんとうに? 私、あなたに会いに来たの」
零は、つい日本語で言っていた。簡単な英単語を使って言い直した。
男は白い歯を見せて笑い、一言、ようこそ、と英語で言った。屈託のない笑い声だった。
隣の馬に目を向けた。
馬の瞳が湛える色は、日本もオーストラリアも変わらない、と零は思った。




