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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十五話

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トレセンと現役馬 ⑥

 阪神競馬が開かれた。

 第四回開催の一日目、第五レース、芝千四百の新馬戦である。


 小雨が降りしきっていた。


 天道は、あいを競馬場へ伴った。ラクシュの調教担当である北本と、沼倉も連れてきた。


 沼倉は、あいの実習担当ということにしている。馬の細かな変化までよく気づき、体調管理に関しては申し分ない能力を持っている男だ。

 だが、沼倉の調教した馬の仕上がりに、天道はいま一つ満足できなかった。


 どこがどう、と言うのは難しい。あと一段、深く踏み込めたであろうところを、その手前で足踏みしている。


 そんなふうに感じさせる仕上がりなのだ。


 それは技術や知識ではなく、沼倉の心の問題だと、天道は考えていた。


 あいは、自分の殻を破って、いまここにいる。天道が与えた理不尽も撥ね退けてきた。そういう心の強靭さを、あいと関わらせることで、沼倉が掴めるか。


 掴めれば、一つ成長する、と思っただけだ。いまのままでも、天道厩舎の有力な人材であることに変わりない。


 検量室の一角にある、モニタールームに入った。

 パドックから戻った北本と、四人でラクシュの出番を待った。


 レースがはじまった。


 ラクシュが早々、先頭に立ち、みるみる後続を引き離していく。隣で、北本が拳を握り、よし、よし、と熱い息を吐いている。


「どうだ、うちのお転婆娘の騎乗は?」


 後ろから声をかけられた。


 ベージュ色の麻のジャケットを涼しげに着こなした下地《しもじ》が立っていた。


 居合わせた関係者は、下地の威容に水を浴びせられたようになっている。


「好調です。これは、もう勝ったな」


 北本が遅れて下地に気づき、驚いた猫のような俊敏さでモニター正面を譲った。


「おう、すまんな」


 下地は被っていた中折れハットを取り、天道の隣に立った。


 上がり三ハロンを、零と、ラクシュは独走し、ゴール板の前を駈け抜けた。他の馬を、一切寄せ付けない走りだった。


「この馬、大したもんだな。しかも、まだ化けそうだ」


「まあ、楽しみにしていてくださいよ。それより、今日はどうしてこちらへ? 下地さんのとこの馬は、今日は走らないですよね?」


「零を海外へ連れて行く。二時の便だ」


 正午を回っていた。

 タイトなスケジュールだが、騎手ならば珍しくもなかった。似たようなことは、現役時代、天道もしていた。


「なるほど、お孫さんの送迎ですか。お疲れさまです」


「てめえ、俺に張っ倒されてえのか」

 下地が低く言った。場が凍りつき、すぐ近くで北本が顔を引きつらせている。


「おう、冗談だよ。そんな顔するな」


 北本の表情に気づき、下地は愉しむように肩を叩いた。


 沼倉は、相変わらずの無表情を貫いている。


「実際、あいつと俺が町中を並んで歩いていたら、じじいとその孫だと思われそうだ」


「でしょうね」


「で、そっちのちっこいのは、お前の娘か、天道?」

 下地が、やさしい目をあいに向けた。


「トレセン実習で預かってるんですよ」


 あいが一歩前に出て、上擦った声で自己紹介をした。


「藤刀《ふじわき》あい、なんだ、最近その名前を聞いた気がするな。いかんな、最近物忘れがひどい」

 下地が首を傾げた。


「零じゃないですか」


「ほう、零と、知り合いなのか?」


「は、はいっ、零ちゃんとは、模擬レースで勝負しようって、約束してて。それ以外にも、私が悩んでいるときに、鞭を打ってもらったりして」


「鞭? 乗馬鞭のことか?」


「あ、はい」


 天道と下地は顔を見合わせた。


「あの、俺、そろそろラクシュを迎えに行ってきます」

 北本がおずおずと声を上げ、おかしな空気はそれで流れた。


「俺たちも行こうか」


 車で待つという下地とは別れ、レースを終えて馬道を戻って来た零とラクシュを迎えた。


「零ちゃん、すごいかっこよかった」


「ありがとう。でも、褒める相手が違うかな。すごくいい馬だわ、この子」

 零はあいが差し出したタオルを受け取り、雨に濡れた顔を拭った。


 馬場不良が唯一の懸念ではあった。


 序盤はラクシュのスタミナを温存させる戦略も、選択肢の一つとして伝えてはあったが、零だけが感じとったなにかがあったのだろう。


 当日、馬に乗る騎手にしか感じとれないなにかは、確かにある。


 勝ちを嗅ぎ分ける嗅覚とでもいうのか。零は、その嗅覚が、並み居る騎手より鋭そうだった。


「かっこよかったよ。お疲れさま」

 あいは、ラクシュのしっとりとした毛並みに触れ、一応の労いを口にした。しかし、まだどこかよそよそしい。


 二日前に、馬場でラクシュに振り落とされたことが、かなりこたえているのだ。


 無理もない。競馬学校で基礎を身に付け、ある程度の自信があったはずだ。その自信が、あっけなく打ち砕かれた。


 あいに限ったことではない。


 毎年、騎手課程生が引退馬と現役馬のギャップに面食らう様《さま》は、遠野の下で調教助手をやっていた頃、いくらも目にしてきた。


 わかっていて、天道はあいをラクシャに乗せた。いわば洗礼だ。


 それで、現役馬に臆してしまう実習生も過去にはいたが、あいがラクシュに臆している気配はなかった。


 あいは馬郷で、我流で乗馬を身に付けている。おそらく、何度も落馬しながら、自然と覚えていったのだろう。馬から落ち馴れているふしがあった。


「私も、早く現役の馬も乗りこなせるようにならなくちゃ」


「ならなくちゃ、なの?」

 零が、不思議なものを見る目で、あいを見つめた。


「え」


「入学試験でのあいは、すごく楽しそうに馬に乗っていたから。しないといけない、なんて考えているふうには見えなかった」


「それは、なにも知らなかったから。競馬にはたくさんの人が携わっていて、騎手だって、どんなに望んで努力しても、なれない人がいて。そういう、いろんな思いを背負って馬に乗るのが、騎手になる、ってことだってわかったから」


「へえ、そんなこと、考えたことないけどなぁ」


 零は、自らが快感を得るために、馬に乗っている。見ていれば、それはわかった。

 自分も、騎手だった頃は零と似たようなものだった。周囲にいる人間や、馬の命のことを考えるようになったのは、騎手になってだいぶ経ってからだ。


「零ちゃん」


「なんか、つまらないな」


「零、話はその辺にして、早く着替えてきな。このまま海外遠征に行くんだろう。下地さんが迎えに来ている」

 天道はやんわりと二人の間に割って入った。


「はあい。それじゃあ、あい、またね」


 零が去ってから、ラクシュを検査室へ連れて行った。そこで、馬体に異常がないか、不正な薬物が使われていないか検査される。


 ラクシュは北本と沼倉に任せ、天道はあいを連れてパドックを見に行った。


 客席が、鳥が羽を広げたような流線の屋根に覆われていて、折り畳んだ傘を片手に持っている観客がちらほらといた。


 次のレースに出走する馬がパドックを周回している。随行する厩舎の人間は、炎天下よりは気楽そうだ。


 あいは、零につまらないと言われたことを考えているのか、黙りこんでいる。


 普通になった、という言い方が合っているのかはわからないが、あいは学校での様々な出会いを経て、人間的にも成長してきている。


 それが悪いことであるはずはなかった。だが零は、つまらない、と感じたのか。


 天道は、あいとの出会いを思い出していた。


 街灯もない山の麓で、裸馬に乗ったあいが茂みから飛び出して来たのだ。


 驚き、心を掴まれた。そう、あの時すでに、自分はあいが騎手になる未来を、無意識に想像していた気がする。


 いまのあいに、あの時のわくわくを感じるか。

 天道は自問し、しばらく考えた。

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