トレセンと現役馬 ⑥
阪神競馬が開かれた。
第四回開催の一日目、第五レース、芝千四百の新馬戦である。
小雨が降りしきっていた。
天道は、あいを競馬場へ伴った。ラクシュの調教担当である北本と、沼倉も連れてきた。
沼倉は、あいの実習担当ということにしている。馬の細かな変化までよく気づき、体調管理に関しては申し分ない能力を持っている男だ。
だが、沼倉の調教した馬の仕上がりに、天道はいま一つ満足できなかった。
どこがどう、と言うのは難しい。あと一段、深く踏み込めたであろうところを、その手前で足踏みしている。
そんなふうに感じさせる仕上がりなのだ。
それは技術や知識ではなく、沼倉の心の問題だと、天道は考えていた。
あいは、自分の殻を破って、いまここにいる。天道が与えた理不尽も撥ね退けてきた。そういう心の強靭さを、あいと関わらせることで、沼倉が掴めるか。
掴めれば、一つ成長する、と思っただけだ。いまのままでも、天道厩舎の有力な人材であることに変わりない。
検量室の一角にある、モニタールームに入った。
パドックから戻った北本と、四人でラクシュの出番を待った。
レースがはじまった。
ラクシュが早々、先頭に立ち、みるみる後続を引き離していく。隣で、北本が拳を握り、よし、よし、と熱い息を吐いている。
「どうだ、うちのお転婆娘の騎乗は?」
後ろから声をかけられた。
ベージュ色の麻のジャケットを涼しげに着こなした下地が立っていた。
居合わせた関係者は、下地の威容に水を浴びせられたようになっている。
「好調です。これは、もう勝ったな」
北本が遅れて下地に気づき、驚いた猫のような俊敏さでモニター正面を譲った。
「おう、すまんな」
下地は被っていた中折れハットを取り、天道の隣に立った。
上がり三ハロンを、零と、ラクシュは独走し、ゴール板の前を駈け抜けた。他の馬を、一切寄せ付けない走りだった。
「この馬、大したもんだな。しかも、まだ化けそうだ」
「まあ、楽しみにしていてくださいよ。それより、今日はどうしてこちらへ? 下地さんのとこの馬は、今日は走らないですよね?」
「零を海外へ連れて行く。二時の便だ」
正午を回っていた。
タイトなスケジュールだが、騎手ならば珍しくもなかった。似たようなことは、現役時代、天道もしていた。
「なるほど、お孫さんの送迎ですか。お疲れさまです」
「てめえ、俺に張っ倒されてえのか」
下地が低く言った。場が凍りつき、すぐ近くで北本が顔を引きつらせている。
「おう、冗談だよ。そんな顔するな」
北本の表情に気づき、下地は愉しむように肩を叩いた。
沼倉は、相変わらずの無表情を貫いている。
「実際、あいつと俺が町中を並んで歩いていたら、じじいとその孫だと思われそうだ」
「でしょうね」
「で、そっちのちっこいのは、お前の娘か、天道?」
下地が、やさしい目をあいに向けた。
「トレセン実習で預かってるんですよ」
あいが一歩前に出て、上擦った声で自己紹介をした。
「藤刀あい、なんだ、最近その名前を聞いた気がするな。いかんな、最近物忘れがひどい」
下地が首を傾げた。
「零じゃないですか」
「ほう、零と、知り合いなのか?」
「は、はいっ、零ちゃんとは、模擬レースで勝負しようって、約束してて。それ以外にも、私が悩んでいるときに、鞭を打ってもらったりして」
「鞭? 乗馬鞭のことか?」
「あ、はい」
天道と下地は顔を見合わせた。
「あの、俺、そろそろラクシュを迎えに行ってきます」
北本がおずおずと声を上げ、おかしな空気はそれで流れた。
「俺たちも行こうか」
車で待つという下地とは別れ、レースを終えて馬道を戻って来た零とラクシュを迎えた。
「零ちゃん、すごいかっこよかった」
「ありがとう。でも、褒める相手が違うかな。すごくいい馬だわ、この子」
零はあいが差し出したタオルを受け取り、雨に濡れた顔を拭った。
馬場不良が唯一の懸念ではあった。
序盤はラクシュのスタミナを温存させる戦略も、選択肢の一つとして伝えてはあったが、零だけが感じとったなにかがあったのだろう。
当日、馬に乗る騎手にしか感じとれないなにかは、確かにある。
勝ちを嗅ぎ分ける嗅覚とでもいうのか。零は、その嗅覚が、並み居る騎手より鋭そうだった。
「かっこよかったよ。お疲れさま」
あいは、ラクシュのしっとりとした毛並みに触れ、一応の労いを口にした。しかし、まだどこかよそよそしい。
二日前に、馬場でラクシュに振り落とされたことが、かなりこたえているのだ。
無理もない。競馬学校で基礎を身に付け、ある程度の自信があったはずだ。その自信が、あっけなく打ち砕かれた。
あいに限ったことではない。
毎年、騎手課程生が引退馬と現役馬のギャップに面食らう様は、遠野の下で調教助手をやっていた頃、いくらも目にしてきた。
わかっていて、天道はあいをラクシャに乗せた。いわば洗礼だ。
それで、現役馬に臆してしまう実習生も過去にはいたが、あいがラクシュに臆している気配はなかった。
あいは馬郷で、我流で乗馬を身に付けている。おそらく、何度も落馬しながら、自然と覚えていったのだろう。馬から落ち馴れているふしがあった。
「私も、早く現役の馬も乗りこなせるようにならなくちゃ」
「ならなくちゃ、なの?」
零が、不思議なものを見る目で、あいを見つめた。
「え」
「入学試験でのあいは、すごく楽しそうに馬に乗っていたから。しないといけない、なんて考えているふうには見えなかった」
「それは、なにも知らなかったから。競馬にはたくさんの人が携わっていて、騎手だって、どんなに望んで努力しても、なれない人がいて。そういう、いろんな思いを背負って馬に乗るのが、騎手になる、ってことだってわかったから」
「へえ、そんなこと、考えたことないけどなぁ」
零は、自らが快感を得るために、馬に乗っている。見ていれば、それはわかった。
自分も、騎手だった頃は零と似たようなものだった。周囲にいる人間や、馬の命のことを考えるようになったのは、騎手になってだいぶ経ってからだ。
「零ちゃん」
「なんか、つまらないな」
「零、話はその辺にして、早く着替えてきな。このまま海外遠征に行くんだろう。下地さんが迎えに来ている」
天道はやんわりと二人の間に割って入った。
「はあい。それじゃあ、あい、またね」
零が去ってから、ラクシュを検査室へ連れて行った。そこで、馬体に異常がないか、不正な薬物が使われていないか検査される。
ラクシュは北本と沼倉に任せ、天道はあいを連れてパドックを見に行った。
客席が、鳥が羽を広げたような流線の屋根に覆われていて、折り畳んだ傘を片手に持っている観客がちらほらといた。
次のレースに出走する馬がパドックを周回している。随行する厩舎の人間は、炎天下よりは気楽そうだ。
あいは、零につまらないと言われたことを考えているのか、黙りこんでいる。
普通になった、という言い方が合っているのかはわからないが、あいは学校での様々な出会いを経て、人間的にも成長してきている。
それが悪いことであるはずはなかった。だが零は、つまらない、と感じたのか。
天道は、あいとの出会いを思い出していた。
街灯もない山の麓で、裸馬に乗ったあいが茂みから飛び出して来たのだ。
驚き、心を掴まれた。そう、あの時すでに、自分はあいが騎手になる未来を、無意識に想像していた気がする。
いまのあいに、あの時のわくわくを感じるか。
天道は自問し、しばらく考えた。




