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ミスジョッキー   作者: 井ノ上
第十五話

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トレセンと現役馬 ⑤

 トースターで食パンを焼いている間に、卵とベーコンをフライパンで炒めた。


 焼き上がった食パンに、カット済みで売られているキャベツを敷き、その上に炒めた卵とベーコンを乗せる。二つ折りにして、口に詰め込み、牛乳で腹に流し込んだ。


 部屋を出て、宿舎の外階段を下る。

 宿舎と言っても、トレセンで働く職員が、家族で暮らしている団地だった。


 夜明け前だが、カーテンを閉められた窓からは、人の生活の明かりがちらほらと漏れている。


 西門の看守に、実習初日に天道から渡された通行許可証を見せ、トレセンに入った。


 天道厩舎の馬具庫を覗くと、やはり、久瀬が一人で銜を磨いていた。


「おはようございます」


「ああ」

 あいが声をかけても、久瀬は背中を向けたまま、布を動かし続けている。


 あいも同じ布を取り出して、久瀬の隣で銜を磨きはじめた。


 銜の形状には、いくつかの種類があった。人がそうであるように、馬も一頭ごとに口の大きさ、歯並びなどが微妙に違う。それぞれの馬に、どの形状の銜が合うか試すのだ。


 既存のかたちで合うものがないと、彫金師にオーダーメイドする場合もある、と沼倉が教えてくれた。


「久瀬さんは、いつも何時に来られてるんですか?」

 あいは、銜を一つ磨き上げたタイミングで、おそるおそる尋ねた。


「実習生だからって、俺より早く来ようとすることはない」


「そういうわけでは」


 否定しかけたが、できることがない分、他のスタッフより早く出勤しようと心がけているのは確かだった。


 実習が始まって五日が経った。


 いまのところ、掃除、洗濯のような雑務を頼まれてばかりだが、おかげで厩舎内の物の置き場所などは完璧に把握できた。


 二十頭の馬の顔と名前も、馬房の掃除や餌やりの手伝いを通して、だいたい覚えた。


 馬に乗らない分、体力は有り余っていた。ここではフィジカルトレーニングの授業もない。


 身体を鈍らせないためには、自分の意思で、自分を厳しい場所へと追いやるしかなかった。


 学校ほど整ったトレーニング設備はない。トレセンの坂路で、馬の調教後、整備車を入れる前の一、二時間を、走り込みに使わせてもらえないかと頼むと、天道が許可を取ってきてくれた。


 二日前から、大矢と杉本も参加し、真夏の炎天下、三人で坂路を走り込むのが日課となった。


 また、トレセン内の植え込みを手入れする造園職人と知り合い、十キロの土嚢を借してもらえた。


 土嚢を抱えて、一時間、中腰でじっと耐える。そんなふうにして、身体を鍛えた。


 十分なトレーニングとは言えないが、少なくとも今ある力を維持することは、これで可能だと思えた。


 久瀬と二人で、黙々と銜を磨いていると、天道が顔を見せた。


「ふたりとも、おはよう」


「おはようございます、天道さん」


「あい、これから馬に乗ってみようか」


「え、いいんですか」


「ああ。久瀬さん、構わないよね?」


「あんたが決めることだ」


「じゃ、行こうか、あい」


 天道に従い馬具庫を出た。


「久瀬さんとなんの話をしてたんだい?」


「特になにも」


「黙って銜を磨いてたの? 勿体ないな」


「勿体ない、ですか?」


「調教に関しては、俺よりはるかに経験を積んでいるからね。色々と面白い話を聞けると思うよ」


「でも、あれこれ聞いたら迷惑なんじゃ」


 久瀬は普段から口数が少なかった。最初は避けられているのかとも思ったが、見ていると、他のスタッフとも積極的に話そうとしていなかった。


 あいの実習の面倒を見てくれている沼倉も、言葉が少ない。


 ただ、沼倉は口下手なだけで、人とのコミュニケーション自体を厭う素振りはなく、久瀬の狷介さとは様子が違った。


「そうやって、気を遣っているのが勿体ないのさ。迷惑がられようが、有益な情報を引き出してやる。これぐらいの意気でぶつかってごらん」


 あいの不安そうな表情を見てとり、天道が微笑んだ。


「ああ見えて、根はやさしい人さ。ま、騙されたと思って、一つチャレンジしてみなよ」


「わかりました。そうしてみます」


「よし」


 天道と厩舎の外に出ると、調教助手の北本が、ラクシュの手綱を握って待っていた。


「天道さん、本気ですか。ラクシュは、並の新人でも、乗りこなすのはまだ難しいですよ」


「ものは試しさ」


「今日はこの後、坂路調教なんですよ。来週には新馬戦も控えてる。もしものことがあったら」


「馬場で少し乗るだけさ。駈けさせるわけでもない」


 北本が不安そうに、あいの方に視線を送ってきた。


 二人が話す間も、手綱を握られたラクシュは落ち着かず、蹄で地面を搔いたりしている。沼倉の話では、天道厩舎でもっとも有望視されている二歳牡馬らしい。


 あいは乗馬の身支度を手早く済ませた。


 ラクシュの手綱を北本が握り、三人で調教スタンド横の広場へ移動した。


 馬場の開場時間になると、待機していた各厩舎の人馬が一斉に動き出した。


「なんだか、みんなピリピリしてますね」


 実習がはじまり、馬の調教をする様子はたびたび見てきたが、今日は雰囲気が違った。


「木曜は、週末のレースに向けて、最後の追い込みをやる馬が多いんだ。馬のスイッチが入っているのもあるが、調教師たちも、強めの調教を何頭もこなさないといけないのはかなりしんどい。だから、殺気立ってるのさ」


 当事者のはずの天道は、他人事のように言って、他厩舎の馬を見送っている。


 待機していた馬が馬場に散ってから、天道とあいも、ラクシュを連れて角馬場の一つに入った。


「さ、乗ってごらん」

「はい」


 艶のある栃栗毛の馬体の横に立ち、天道に下から押し上げてもらい、鞍に上がった。


 サラブレッドには学校の訓練でも繰り返し乗ってきたのだ。訓練と同じようにやればいいだけだ。


「行こう、ラクシュ」

 あいはラクシャの首に触れ、長めに垂らした鐙に足を掛けた。瞬間、ラクシュが猛然と駈け出した。上体が置いていかれそうになった。


「くっ」

 鞍上で踏ん張り、体勢を立て直した。速度を落とさせようと体重をかけたが、ラクシュが全身で抵抗してきた。


 ラクシュは馬場を囲う柵へと突っ込んでいく。跳び越えるつもりか。あいはがむしゃらに手綱を引いた。ラクシュが棹立ちになった。垂直になった背中にしがみつく。間髪入れずに、後躯《トモ》が跳ね上がってきた。


 尻を突き上げられたようになり、あいはたまらず落馬した。


 すかさず天道がラクシュの手綱を取り、あいから引き離した。


 立ち上がることもできず、しばし茫然としていた。


 なにが起こったのか。訓練で乗ってきたサラブレッドとは、まるで別の生き物だった。


「あの馬、元気いいわね。あい、立てる?」

 目の前に手が差し出された。その手を取ってから、鈴を転がしたような声に、気づいた。


「零ちゃん」

 なぜここに、と訊く間もなく、零は、見てて、と言いおいて走り出した。


 流れるような挙動で鞍に上がる。天道が手綱を零に渡した。


 跳ね回るラクシュの反発を、脱力することでいなしている。力を抜いているのに、身体の芯は一切ぶれない。


 零は、まだ足を鐙にかけていなかった。ラクシュの抵抗を受け流しつつ、靴の側面で馬腹を一定のテンポで叩いている。


 興奮する幼子を宥めるのに似ている、とあいは思った。


 乱れていたラクシュの気が、鎮まっていくのがわかった。零が合図の声を上げた。


 馬場を悠々と歩くラクシュを、あいは棒立ちで見つめていた。


 いつの間にか天道が隣に立っていた。


「驚いたろ。同じサラブレッドといえど、学校にいた引退馬とここにいる現役馬とじゃ、まるで気性が違う」


「力も、全然違いました」


 考えてみれば、馬力が違うのは当然だった。

 トレセンの競走馬は、レースのために鍛えられている真っ最中なのだ。学校の引退馬は、訓練で駈けることはあっても、現役さながらの調教を受けているわけではない。


「なにもできませんでした」


 自分を瞬く間に振り落とした馬を、楽々と乗りこなしている零を見つめながら、あいは悔しさを噛みしめた。

 

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