トレセンと現役馬 ④
競馬学校を出発した。
荷物は着替えなどの身の回りのものを詰めたリュックサック一つで、生活に必要なもののほとんどは、実習先の宿舎に用意されている、という話だった。
バスの行き先は、関西の御園トレーニングセンターで、あいと同乗しているのは、大矢、杉本の二人だ。
正士郎を含めた四人の他の同期は、関東の美駒トレーニングセンターの厩舎に振り分けられた。
大矢、杉本とも、行き先は同じだが、配属は別々である。
実習に出る前に、加奈恵と会って話をしたかったが、タイミングが合わなかった。
バスが高速道路に乗ってから、あいは、もう加奈恵と学校では会えないことに気づいた。厩務員課程は、騎手課程とは異なり二年制で、加奈恵は来年の三月には卒業してしまうのだ。
あいが次に学校に戻るのは、来年の八月だった。
「隊長、杉本、お前らも菓子食うか」
あいがしょんぼりしていると、前の座席に座る大矢が、背凭れの上から顔を覗かせた。
「子どもの遠足じゃないぜ、大矢よ」
通路を挟んだ座席に座っていた杉本が、呆れたように息を吐いた。
「わかってるさ。だからって、いまから緊張してたら身が持たねえぞ」
「能天気なやつだな」
「よせやい、照れるだろうが」
「褒めちゃいない」
杉本は苦笑し、大矢から個包装のチョコレート菓子を受け取った。
「ほれ、隊長も」
「ありがとう」
口に入れたチョコレートは、舌の上で溶け、ねっとりとした甘さが咥内に広がった。
昼前には、バスは御園トレーニングセンターに到着した。
トレセンの周囲には民家があり、その先には山の峰が連なっているのが見えた。
ちらほらと人の姿はあるが、若い人はあまりおらず、静かで落ち着いた雰囲気のある土地だ。
関東ではしとしとと雨が降っていたが、こちらは薄っすら曇っているだけだった。
「よっしゃ、頑張ろうぜ」
トレセン前の通りに停められたバスから降り、大矢が掌を出した。大矢の手の甲に、杉本と二人で手を重ねた。
待っていた案内役に連れられ、トレセンと道を一本隔てて反対側にある、宿舎に行った。
案内された宿舎は、集合団地だった。
四階建ての建物が八棟、立ち並んでいる。そこで大矢、杉本とは分かれた。
あいは二号棟の四階、西から二番目の部屋を使うように言われた。すぐ傍には公園があり、トレセンで常勤する職員が、家族と一緒に暮らしているようだ。
部屋に荷物を置いて宿舎を出ると、天道厩舎から迎えが来ていた。
二十代中盤ぐらいの、青白い唇の色をした男である。
「藤刀あいです。よろしくお願いします」
「沼倉です」
沼倉は、無表情のまま、あいをじっと見つめてきた。
「あの、なにか?」
「君が、天道さんの秘蔵っ子か」
「秘蔵っ子?」
「じゃ、行きましょうか」
「え、あ、はい」
沼倉について行った。
道を渡り、守衛のいる門から施設に入った。
道を進むと、土と木の匂い、そして馬の匂いが漂ってきた。
両脇に、たくさんの厩舎が立ち並んでいる。
「ここが、厩舎区画。まっすぐ行くと、調教用のコースがあって、その奥が坂路。右の方には馬用の診療所とか、水泳施設、室内馬場なんかがちょこちょこある」
歩きながら、沼倉が抑揚のない声で淡々と説明してくれる。すぐ目の前に背中があるというのに、不思議なほどに存在感がない。
「で、ここが天道厩舎。今日から、君が働く場所だ。数年前に建て替えられたばかりで、他の厩舎よりは綺麗だ。開業二年目で、馬房数は二十だ」
沼倉は言うだけ言い、さっさと中へ入って行こうとする。あいは慌てて後を追った。
「天道さん、連れてきましたよ」
沼倉が声を上げると、天道が厩舎の中央にある部屋からひょっこり顔を出した。
「お、ありがとう」
「もう仕事に戻ってもいいですか」
「ああ、よろしく」
茫然としていると、天道に手招きをされた。あいは馬房から顔を出す馬たちの視線を受けながら、中央の部屋に歩いていった。
部屋に入ると、床に積まれたバケツが真っ先に目に入った。
「ここは飼料庫なんだ」
天道がバケツの蓋を取り、中を見せてくれた。上の牧草を掻き分けると、底から麦らしき穀物が出てきた。ほんのりと油の匂いが立ち上がる。
壁際の棚には、一つ十五キロぐらいはありそうな紙袋が積み重ねられている。
「あれ全部、馬のごはんなんですか?」
「ああ」
「いろんな種類があるんですね」
紙袋にはいくつか種類があり、その種類ごとに整理されているのは、見ればわかった。
「種類によって、栄養価や嗜好性が違うんだ。馬は食が太い生きものではないけど、競走馬として育てていくには、食ってもらわなきゃならない。だから馬ごとに、調子を見つつ、配合を変えて工夫したりするわけだ」
天道は配合済みの飼料が入れられたバケツの蓋を戻し、あいに笑顔を向けた。
「よく来たね、あい。とりあえず、今日はうちのスタッフと、馬を紹介しようかな」
「さっきの、沼倉さんって方は、調教助手なんですか?」
「あいつは厩務員。うちにはいま、厩務員が七人いて、二人は北海道に出張中なんだ。もう来週には戻ってくるから、彼らはその時に紹介するよ」
「あ、あの、この前の札幌記念、おめでとうございます」
「ありがと。で、うちの調教助手は、久瀬っていうおっちゃんと、北本っていう、こっちは沼倉と同じぐらいの歳の男さ」
「久瀬さんに、北本さん」
あいは口に出して反芻し、とりあえず名前を頭に入れた。
「北本は馬を泳がせに行って留守にしてるから、まず久瀬さんと会いに行こうか。多分いまは午前中に調教した馬の馬体チェックをしているはずだ」
天道と飼料庫を出て、細い通路を歩いていく。馬房の前を通るたびに、天道がその馬の名前を言っていく。
競馬学校では、馬房の床材には藁を使っていたが、天道の厩舎ではウッドチップが使われている。そのためか、ほとんど糞尿の匂いはしない。
空の馬房の前を通りがかった。
「札幌記念に出てたファーストステップは、そのまま北海道で放牧させているんだ」
この一棟で、馬を二十頭、収容できるようだった。
ファーストステップ以外にも、三頭が北海道へ遠征中なのだと、天道は言った。
出張中の厩務員がいるというのは、その馬の世話をするために同行しているのだろう。
入って来た出入り口とは、反対側の出入り口から外に出た。
厩舎の中央が出っ張っている、部首のなべぶたのような造りになっているので、こちら側は沼倉に連れられてきた時はわからなかった。
厩舎の前で、馬の身体をまさぐっている男がいた。髪に白いものが目立ち、小太りで短い脚が特徴的な男だ。
「久瀬さん、ちょっといいかい」
天道が呼ぶと、馬体のチェックに集中していた久瀬が、振り返った。暗い目をしている、とあいは思った。
「誰だ、そいつは」
「藤刀あい。この前話したじゃないですか」
「あぁ、実習生か」
天道に背中を押され、あいは久瀬に近づいた。
「藤刀あいです。よろしくおねがいします」
「若い連中に面倒見させてくれよ、天道。俺は新馬の世話もしなけりゃならなくなって、手一杯だ」
久瀬は、あいを一瞥しただけだった。声は不機嫌そのものだが、言われた天道はへらへらとしている。
「この前、無理を言って二歳馬の世話を任せたから、機嫌が悪いふりをしているんだ」
厩舎の中に戻ると、天道が耳打ちしてきた。
「ふり、なんですか?」
「馬に関することで億劫がる人間は、うちには一人もいないさ」
天道はさらりと言って、笑い声をあげた。




