トレセンと現役馬 ③
盥を引っ繰り返したような雨だった。
実技訓練は、走路を使えず、覆馬場での部班運動となった。
一年と合同で、中学校の体育館ぐらいの広さの砂地を、十五頭の人馬が隊形を組んで縦横に動く。
一、二学年混合で、二隊に分かれた。
縦列になって駆けながら、もう一つの隊と交差する。
一糸乱れぬ動き、というわけにはいかなかった。
一学年は入学して四カ月が経ち、馬とのコンビネーションは各段によくなっているが、まだ複雑な動きをすると荒が目立った。
二学年は、さすがに複雑な動きにも歩様を崩さず対応している。
夏季期間がはじまっていた。
女子寮で生活を共にする二人の後輩は、朝の四時に起きるのはつらい、と弱音をこぼしていた。
あいは、朝がつらいと感じたことは、一度もなかった。
登校前に、馬郷にいる綾と会う時間をつくるため、毎朝陽が昇る前に起床するのが習慣だったのだ。
どうすれば朝が楽になるか、後輩に相談されても、だから答えようがなかった。
後輩の力になれないもどかしさは、飲み込むしかなかった。
それでも、後輩たちは訓練には食らいついている。先日基礎馬術の試験があり、来週から走路訓練がはじまるのだと言っていた。今年も、試験で脱落した生徒はでなかったらしい。
二学年は、来週からトレーニングセンターでの実習がはじまる。
およそ一年間に及ぶ実習である。
一年後、実習を終えた自分がどうなっているかなど、まったく想像ができない。
午後から、実習で騎手課程生を預かる厩舎の調教師を迎えて、懇談会が開かれた。
懇談会には、生徒の親も出席した。
あいの家からは、母が来ていた。海上自衛隊の指揮官である父は、任地での仕事があり、欠席だった。
「あい、身長伸びた?」
ひさしぶりに会った母が、あいの頭の高さに手をやり、身長を測る仕草をした。子どもの頃から見上げていた母と、いまは並んで顔を合わせている。
「うん。でも、少しだけだよ」
「逞しくなったわね。身体つきだけではなくて。目や、声にも、力強さを感じるわ」
「そ、そうかな。自分じゃわからないよ」
「お母さんにはわかるの」
母に会ったのは、オーバーワークで足首を痛め、訓練中に落馬した以来だ。学校から家に連絡が行き、母はその日のうちにやってきたのだ。
なにも言わないが、心配し続けていたのだろう、とあいは思った。
母とともに、東西のトレーニングセンターから来ている調教師が座る席へ挨拶に行くと、天道が立ち上がって少し頭を下げた。
「どうも、ご無沙汰してます」
他の席でも、正士郎や大矢が、親を交えて実習を担当する調教師と顔合わせをしている。
「これから一年、あらためて、娘をよろしくお願いします」
「頭を上げてください。あいは、自力でここまで来ました。実習では、叩きこめる限りのことを、叩きこむつもりでいます」
「そうしてやってください。もう、子ども扱いをするのはやめようと、今日、娘の目を見て思いました。目の奥に、光を宿している。私が知らない光です」
「ご実家にいた頃は、前髪に隠れていたんでしょう。あいの目は、僕が出会った時から、そうでしたよ」
「私は、気づきませんでしたわ。だから娘が騎手になりたいと言い出した時も、随分と狼狽えました」
「そういうものなんじゃないですか、身内っていうのは。独り身なもので、子を持つ親の気持ちは、知りようもありませんが」
母と、天道の会話を、あいはどんな表情で聞いていればいいか分からず、俯いていた。なんだか無性にむず痒く、居たたまれない気分だった。
「あい」
天道に呼ばれ、顔を上げた。目が合うと、天道はにこりと笑った。
「やっとここまで辿り着いたね」
「天道さんが、騎手になれるって言ってくれたおかげです」
自分にまったく自信のなかったあいが、迷わずに進んで来られたのは、天道の言葉を信じ続けてきたからだ。
「なれるさ。なんせここからは、僕がきみを預かるんだ。言っておくけど、甘やかしたりはしないよ。凱旋門を狙うと、本気で言っているなら、なおさらね」
先日撮影された対談の映像を、天道はどこかで目にしたのか。そうでなくても、天道を相手には、凱旋門と、一度口にしている。
「本気です」
「わかった。じゃあ、手加減はしないよ」
「お願いします」
「恨みたくなったら、恨んでくれ。それでも、容赦はしないが」
「ありえないです」
自分が天道を恨むことなど、あるはずがない、とあいは思った。
天道は、かすかに頷き、懇談会の最中は外していた薄い色の入ったサングラスをかけ直した。




